ネバーエンディングユートピア

黄鱗きいろ

ネバーエンディングユートピア

A.D.6875~

洋上にて


 乳のように白濁した液体の中に釣り針を垂らす。水面はまんべんなく濁り切り、水底は見通せない。投げ込まれた重りがそんな水面を揺らし、生まれた波はどこまでも広がっていく。乳白色の水平線、陸をなくした世界の果てまで。

 けれども、波は決して戻ってくることはない。広がった波は広がっただけ。水面はやがて静止し、浮きはただ、ぷかりと浮かんだ。

「今日は何かなー」

 彼はひとりで言う。

「使い道が分かるものがいいなあ」

 浮きが突然沈む。

「おー。フィーッシュ」

 釣竿を跳ね上げる。糸の先には空き缶が引っかかっていた。

「ハズレかあ」

 空き缶を背後に放る。空き缶は、積み上がったガラクタの山に当たって転がった。

「残念無念」

 黒いシートを取り出して千切る。パイプに詰め込んで軽くあぶる。その匂いを吸い込む。

「ぷはー推定煙草おいしーい」

 黒いシートのパッケージには「焼き海苔」と異国の言葉で印字されている。

 彼は水面を覗き込む。かつて争いに使われた鉄塊は乳白色の海に浮かんでいた。彼は鉄塊の上にいた。

「まだかなあ」

 水面にはもう波は無い。もう二度と風は吹かない。

「まだかかるかなあ」

 彼はもう一度釣竿を振り上げる。重りが海に落ちる。静止した水面がぽちゃんと揺らぐ。波が世界の果てまで広がっていく。

「待ってるよ」

 彼は語りかける。乳白色の海に。揺らぐ水面のその向こう側に。

「ずっと待ってる」

 水面は返事をしない。彼は静かに待った。そして推定煙草が燃え尽きた頃、浮きが大きく沈んだ。

「あ」

 釣竿を跳ね上げる。長い釣り糸が、その先端に引っかかる物体が宙を舞う。

その物体には手があって、足があって、頭があった。髪の毛もあった。服を着ていた。

「人間!」

 彼は嬉しそうに言う。

「待ってた!」

 人間を鉄塊の上に引き上げる。しばらくして目を開けた人間は彼を見た。彼はにんまり笑った。


「ようこそ、ディストピアヘ」


  *


 目が開く。空がある。

「おはよう、推定ヒューマン」

 推定煙草をくゆらせながら、彼が言う。

「おはよう」

 反射的に答えてから男はふと考える。

「誰?」

「誰と言われても困るな」

「困ると言われても困るんだが」

「困ると言われても困るって言われてもこっちも困……うーんいややめておこう」

 彼は手に持っていた釣竿を自分の体に凭せ掛けて、黒い乾燥したシートを取り出した。

「推定煙草吸う? ちなみにおれは吸う」

 男の返事を待たずに、彼は黒色のシートを追加でパイプに詰め込み火をつけた。

「ぷはー」

「なあ、あんた」

「おれはあんたって名前じゃないぞ」

「……じゃあなんて名前なんだ」

「んーとナイショ」

「あ?」

「うわこわい顔」

 ほら自分でも見てごらんよ、と差し出されるままに鏡をのぞき込む。不機嫌そうな男の顔が鏡に映った。

「もっとにこやかにしたほうがいいんじゃない?」

 彼は口の端を両手で持ち上げてにっこり笑う。

「笑顔は人を幸せにするんだよ」

「不機嫌の原因を作った張本人が言っていい台詞じゃないな」

「わーい手厳しい」

 男は立ち上がり、辺りをぐるりと見渡す。空は青い。雲はどこにもなく、日の光が燦々と降り注いでいる。足下は金属で、ほとんど剥がれた塗料の目印がところどころに残っている。縁からのぞき込むと液体が見えた。白濁しているが多分海で、そうするとここは巨大な船の上だ。

「ここはどこだ」

「さあどこだろうね」

「なんで俺はここにいるんだ」

「なんでもいいじゃないかそんなの」

「なんでもいいのか?」

「なんでもいいとも」

 そうか、と男は納得するとその場に腰を下ろした。彼は男の顔をのぞき込んだ。

「きみきみ、そこで納得していいのかい」

「いいんじゃないか?」

「いいのかなーいいのかなー?」

「いいんだろう」

「そっかー」

 彼は非常に分かりやすく落胆した。大事な釣り竿も放り出して、座る男の目の前でうなだれて、大きくため息をついて繰り返した。

「そっかー、そっかー……」

「なんでもいいと言ったのはあんただろうに」

「からかって反応を見たかったんだよ! ほらあの、本とかにある好きな子に意地悪をしたい男の子の気持ち? みたいなものだろ! わかれよー!」

「……会って数分で愛を語られた。ストーカー? さすがにこわい」

「比喩だよもー!」

 彼は腕をぶんぶん振り回して否定した。

「はー。推定ヒューマンは動じないなあ、今の状況に疑問とか持たないの?」

「疑問、疑問ね、たとえば?」

「ここはどことかわたしはだれとか」

「どこなんだ?」

「さあ? おれも知らない」

「知らないのか」

「うん」

「そうか」

 男は大あくびをした。彼は男をじっと見た。

「やっぱりそこで納得しちゃうんだな」

「知らないものは仕方ないだろう」

「まあね、他に疑問は?」

「じゃあこの船に他に誰かはいるのか?」

「いないよ、ここにはおれたちふたりだけだ」

「そうか」

 男は納得した。彼は不機嫌そうに男を見た。

「ねえ推定ヒューマン」

「なんだ」

「もう少し動じて欲しい。会話が続かない」

「動じろといわれても」

「ほら! 見知らぬ場所に見知らぬやつと二人きりだぞ!」

「そうだな」

「なんかこうあるだろ、驚くとか困るとか元いた場所に帰ろうとするとか!」

「ないなあ」

「おれがきみをあの海から釣り上げたんだとしてもか!」

「そうなのか、それは新事実だ。ちょっと驚いた」

「……ぜんぜん驚いてないなあ。逆にきみがそういう優しい嘘を言えることにおれは驚いてるよ」

「お褒めに与り光栄だ」

「うん、ちょっと褒めた」

「そうか」

 彼は立ち上がると、ガラクタ置き場の扉から水の入った容器を持ってきた。

「飲む?」

「貰う」

 男は容器を受け取る。ぷしゅ、と小気味いい音を立ててキャップが外れる。

「食べ物もある。よく釣れるんだ」

「貰う」

 渡された食べ物に、男は包み紙をはがしてかぶりついた。彼は男の前に座り込んで、にこにことそれを見ていた。

「ここの地名も船の名前も知らないけど、ここがどんな場所かは知っているよ」

「どんな場所なんだ?」

「うーんと、最終戦争後の跡地?」

「へえ」

「ほら、見てみて」

 彼は海面を指す。

「波がないだろ」

「ないな」

「風も吹いてない」

「ないな」

「海には魚影もないし、空には鳥の一羽もいない」

「いないな」

「なんとこの世界で生きているのはもう、おれときみのふたりだけなのだ!」

「へーすごいな」

 食べる手を一切止めずに男は答えた。

「なんだか締まらないなあ」

 二つ目の食物に手を伸ばす男に水を手渡しながら、彼はぼやく。

「気を引き締めなきゃいけないのか?」

「そういうわけじゃないけど」

「じゃあいいんじゃないか」

「いいんだけど、いいんだけどー」

「なんだ?」

「……こういう場合ってさ」

「ん」

「普通は世界を救うとか、作り直すとか、元凶をこらしめるとか、世界中を冒険するだとか、そういう熱い展開が待ってるものなんじゃないの?」

「どこの世界の普通だ」

「なんか前に釣った本にあった」

「本か」

「うん、本」

「そういうことをしなくちゃいけないのか? 世界を救うだとか壊すだとか」

「ううん、全然」

「じゃああんたはしたいのか? そういうこと」

「どうかな、どうなんだろう……」

 彼は考える。白濁した海を見る。生命のいない世界を見る。そして男を振り返った。

「あんまりしたくないかも」

「じゃあいいじゃないか」

 男は食べ終わった食物の包み紙をぐしゃぐしゃと丸めながら言う。

「食べ物はある。飲み水もある。同乗してるあんたは無害そうだ。じゃあもういいじゃないか」

 言いながら包み紙を投げ捨てる。包み紙はガラクタ山の中腹に当たった。

 彼は男をまじまじと見つめた。

「ねえ、きみは変な人間だ」

「そうか、じゃああんたは変な怪物だ」

 彼は大きな目をさらに大きく見開いて、それからひどく可笑しそうにけらけらと笑い出した。

「かいぶつ! ひひひ、かいぶつかあ!」

 そしてそのままひっくり返って日光に熱された甲板上をごろごろと転がりまわるものだから、ほどよく火が通って美味しい一品料理になりやしないかと、柔らかい彼の尻尾を目で追いながら、男はそんな要らぬ心配をするのであった。

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