人精〜模倣の精霊と頑健な俺〜
NITU
プロローグ
朝日は体力を奪う。
夏の朝日は、まだ若いほうだろう24歳の俺にも猛威を振るう。
顔のすぐ横でけたたましく鳴り続ける目覚し時計。
スヌーズをかけておいたんだっけか。
横になってボーッとしていたが、鳴っては止みを繰り返している。
重い身体を起こす。
硬いベッドがきしむ。
苛立ちを込めた手で時計の騒音を止める。
夏の暑さにもがいたのか、毛布はベッドから落ちていた。
しまった、床にはカップラーメンの容器を置いていたままだった。
慌てて毛布を引き寄せる。
良かった、汚れはついていない。
安心も束の間、時計を見れば本来起きる時間よりもいくつか過ぎている。
急いでベッドから出て、洗面所で顔を洗う。
夏の暑さに、水道の冷たい水は身にしみる。
朝食をとっている暇はない。
テレビをつけ、ニュースを確認しながらスーツへと着替える。
平日、休日、祝日、関係ない。
俺は仕事なんだ。
む。
テレビの中の天気予報のお姉さんが、台風が迫っていることを告げる。
明日か。
出勤直撃じゃねぇか。
額に手を当て、明日の苦労を思う。
車なんてもっていない。
歩いて行かないとな。
着替え終わると、床に放置してあったビジネスバッグを持ち、家を出る。
まあ、ただの鞄だ。
持ち物は変わらないため、帰ってきたら放置だ。
鍵をかけるのも忘れない。
ボロいアパートだが、立派な俺の住んでいる家だ。
ボロいがな。
さて、会社へ向かうとしよう。
満員電車に揺られてな。
ーーー
朝か。
昨日は帰ってきてすぐに眠ったらしい。
ベッドの上だがスーツのままだ。
しわがつくと面倒だ。
俺は気にしないが、世間は気にする。
普通は気にするものだ。
近いうちにクリーニングにでも出そうか。
考えながら気怠い身体を起こす。
そういえば時計がまだ鳴っていない。
見れば全然早い時間だ。
まあ、起きた理由はわかる。
外の嵐のせいだろう。
オンボロアパートが、ガタガタと音を立てて揺れている。
窓なんてそろそろ割れるのではないか。
割れたところで修理する金もない。
気にしても意味はない。
ベッドから出て、放置されてる鞄を掴み、家を出る。
いつもより何時間も早いが、歩いていくのだからこれぐらいがちょうどいいだろう。
携帯を確認すれば、運休のお知らせがでかでかと載っている。
当然だ。
重いドアを開けた瞬間吹き飛ばされるかと思ったくらいだ。
雨もすごい、天然のシャワーだ。
傘を持つのを諦め、鍵をかける。
鞄の中に濡れて困るものはケースに入っている。
しばらく風呂も入ってない。
ちょうど良いだろう。
歩く。
歩く。
歩道に俺以外の人間は見かけない。
それも当然だ。
こんな日に学校はない。
良い会社なら運休を確認して対処をとっている。
そうでないやつは、車に乗る。
俺は濡れた髪をかきあげた。
生ぬるい。
夏の雨とは、気持ちよくないものだ。
ーー俺って、なんで生きてるんだろうな。
大した目標もない。
趣味だってない。
恩を返す相手もいない。
食う飯も美味いと感じない。
睡眠も疲れがとれることもない。
なのに、俺は生きている。
生まれてこの方、大きな病も怪我もない。
インフルエンザに囲まれても、何回か車にはねられたことがあっても、熱も骨折も何もない。
身体だけが丈夫だった。
そしてこの仕事について、体力もついた。
昔は希望も夢もあったんだ。
この会社で、俺はやりたいことをやる。
この会社のトップを目指してやる。
現実は当たり前のように違かった。
募集業務内容からかけ離れた仕事。
出世の一画目もないような毎日。
会社のためにと、頭を何度も下げ、営業に走り回り。
何回も辞めようとした。
それは周りが許さなかった。
現実とは、面白いほど理不尽にできているものだ。
なんでこんなことになっちまったんだろう。
灰色の空を見上げる。
無数の雨粒が直に目に入る。
溢れた雨水が、そこから零れる。
涙も忘れてしまった俺だが、泣いてるように見えたのではないか。
死ぬか。
最近になって、死ぬ恐怖もなくなってきたのだ。
自殺する奴ってのは、こんな感じなんだろう。
また歩く。
すると橋が見えてきた。
馬田川にかかる橋だ。
その橋に届かんとばかりに、川の水は増水していた。
子どもの頃はよく遊んだものだ。
最近はアロワナなどが出るとニュースに紹介されていたが。
そこから移動し、土手につく。
おぉ、あと数歩で氾濫する川の中へ入れるではないか。
サイクリングとして最適な高い土手の道でさえ、水位はそこまで迫っていた。
「ほらよっと!」
鞄をその川へと投げ捨てる。
鞄は一瞬にして濁流に飲み込まれ、みえなくなった。
まるで大型動物の群れのような洪水。
今まで真面目に生きてきたんだ、最期のポイ捨てくらい見逃してほしい。
さて、死のう。
これなら迷惑はかからないだろう。
俺の遺体が発見され自殺スポットとして有名になったら、それは勘弁してほしい。
上着を脱ぎ、ワイシャツになる。
死ぬまでどれくらいかかるか。
窒息か、流れてくる物に当たっての死か。
どうでもいいか、どうせ死ねるだろう。
そう、覚悟を決めて川へと一歩を踏み出した時だろうか。
嵐の中に、小さな悲鳴が聞こえた。
悲鳴の方へと目をやると、少女が流木に掴まっている。
濁流に流されながら。
「まずい!」
俺は川へ飛び込んだ。
少女との距離はある。
今からなら間に合う。
なんて流れだ、コントロールがきかん。
水泳は得意なほうだったんだが、流されることしかできない。
浮くのに必死だ。
俺が苦闘していると、少女の掴まっている流木が流れてきた。
スピードが違ったんだろう。
乗った流れは同じだったようで、俺もなんとかその流木に掴まる。
そして少女を見た。
八才にもなってないだろう幼い少女。
よくその力で掴まっていたものだと感心していると、どうやら木に服の袖が絡まっていた。
運の良い少女だ。
いや、こんなことになっているのだから、悪いほうか。
しかし何故、こんな日にこんな時間に外を出歩いたのか。
君も死のうとしていたのか?
そんなこと聞けるわけもないので、代わりに笑顔で言う。
「もう大丈夫だ、安心しろ」
何が大丈夫なんだ。
死後は一人じゃないぞってことか。
少女は俺の顔も見ていないし声も聞こえてないだろう。
顔を流木へ伏せたまま必死に泣き声を上げている。
しかしまあ、俺だって無策に飛び込んだわけではない。
少女を流木から引き剥がし、胸へ抱き寄せる。
少女はもがくが、所詮は少女の力、気にもならない。
俺も流木から手を離し、また流される。
しばらくして、壁に身体はぶち当たった。
小さくない衝撃が俺を襲う。
背中で守っていたので、少女にはそこまでダメージは入らなかっただろう。
急いで壁へと向きを変え、鉄骨に力いっぱい掴まる。
片手でグッと離さないようそれを握る。
片手で少女を胸に抱き寄せたまま、壁のほうへ少女をやり背中で川の流れから守る。
壁に打ち付けられ戻った濁水が俺と少女にかかる。
が、なんとか呼吸はできる。
「もうすぐ、救助が来るからな。おじさんと我慢しような」
胸の中の少女に話しかける。
鉄骨を伝い橋の上へ上がることはできない。
手を離せば、また流されるままだ。
この子が普通の少女であれば、今頃ママあたりが救助の通報でもしているだろう。
「生きるんだ。生きて、ママに笑顔を見せてやろうな」
少女は目を瞑ったままだ。
しかし、力強く頷いて応えてみせた。
……何が生きるんだ、だ。
死のうとしていた人間がよくそんなことを言えるな。
心の中で自嘲する。
するとまた、背中に何かが勢い良く当たる。
「ぐぁッ……!」
声が漏れてしまった。
水に触れているというのに、背中が焼けるように痛い。
そして、汚水がしみる。
どうやら流木か何かが当たり、傷を負ってしまったのだろう。
だが、掴んだ取っ手、少女は離さない。
何が俺をここまでさせているのか、わからない。
何故あの時少女を助けるために飛び込んだのかもわからない。
しかし、俺からは考えられない力で取っ手をはなさないでいた。
火事場の馬鹿力ってやつだ。
いつまでそうしていたのだろうか。
何度も流されてきた物が俺を襲っても、俺は決して手をはなさなかった。
「あそこ、あそこです!」
女の人の声が、どちらかの耳から聞こえる。
すでに片方の耳は使い物にならなくなっていた。
身体も、痛覚も麻痺してきている。
今は暑い夏。
水温によってそこまで体力が奪われることがなかったのか幸いだ。
だが何故だろう、異様に寒い。
嵐、洪水の音に紛れ、ヘリのプロペラの音が耳に届く。
けっこう大きくて煩わしいが、その音に俺は生きている中で一番の安心感を覚えた。
やがて一人の救助隊員がロープに吊らされ降りてくる。
救助隊員も必死だ。
すぐ近くには死がある。
人のために生きる、か。
俺は当然、先に少女を救出してもらうよう、最後の力を振り絞って救助隊員へと託した。
こういう時、救助される側の人間を落とさないよう固定したりすると思ったのだが、少女の身体も軽くそんな余裕はないので、救助隊員が少女を抱きかかえる形となった。
「すぐに助けますから、もう少し頑張ってください!」
救助隊員が俺に、生きるんだ、と力強く言った。
……死ぬためにここへ来たんだけどな。
そう、死が間近に迫っているというのに、冷静に自嘲していた時だった。
「……おじちゃん、ありがとうっ!」
嵐の音。
洪水の音。
ヘリの音。
更には片耳が聞こえくなっていた俺にも、その言葉はしっかりと届いた。
耳だけでない。
胸に、直接来る感じだ。
痛みから来るものとは別の熱さが、身体を襲った。
見れば、救助隊員に抱きかかえられた少女が、初めて笑顔を見せてそこにいた。
「っ……ほんと、にっ、ありがとうっ!」
泣き声に混じりながら。
少女は、俺に礼を言ってくれた。
瞬間、視界がぼやけた。
雨に打たれても何ともなかった視界が、何も見えなくなった。
何か橙色をしたものが、上へと上がっていく。
「…………そうか」
そうか。
人に感謝されるって、こんなにも嬉しいことなんだな。
「ははっ……そうか、そうだったのか」
やっと、生きる理由が見つかった。
しかし、もう限界なんだ。
取手から手が離れる。
薄れ行く意識の中、一つテレビか何かで見たことを思い出した。
人の幸福とは。
人の役に立つこと、人に必要とされること。
……自分のことが、認められること。
「ははっ……おじちゃん、か……」
俺は、真っ暗な闇へと意識を手放していった。
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