第2話 金魚の糞だって時には一人泳ぎすることもあるのさ

一幕

 昼前に外は雨模様となった。

 空の低い位置に停滞したまっ黒い雨雲が陽の光を邪魔し、まだ昼間だというのに窓の外は薄暗い。窓や壁を叩く雨音を耳に撫でつつ、僕らは三人そろって、職員室の壁に設けられた広い掲示板を見やって、愕然とした。

 背景となる緑色のボードにはセロハンテープの剥がし跡や画鋲の穴が残されている。ずいぶん昔から使い古されているらしく、年季の入った傷だらけの木枠の上部には画鋲が横一列に何十本と刺さっており、見た目に綺麗とはいい難い。

 けれども手入れはされており、傷はあるもののホコリ汚れやポスターの剥がし忘れはなく、時期や季節ごとに張り替えられる掲示物もきちんと六月の模様を彷彿とさせる梅雨色な雰囲気に包まれていた。

 新聞部が毎週発行する校内新聞は今週のものであるし、行事関連の知らせも日付が過ぎたものは一枚たりとも張られていない。掲示紙の向きや箇所も見やすくまとめられ、教師がやったのか生徒がやったのかは定かではないにしても、これを管理している人はきっと几帳面なのだと印象を植え付けられるほど、整理されている。

 だからこそ、その一か所にずいぶん目立った所があった。僕らは横並びに立った状態で、同じ場所をただただ見詰め、言葉を失う。

 画鋲でしっかり止めたはずのポスターが、その止めていた個所の四隅が雑に破かれているほど乱暴に、掲示板から剥がされ、消えていたのだ。

 紛れもない、目移めうつり佳舞かまえが作成し、許可を取り、張り出した、渾身の一枚である大切なポスターだった。

 行為的にやられていることは誰が見たって明らかで、その箇所だけが異様に人目を引く気がして落ち着かなくなる。

 破れた四隅の左上部。そこにはカラーで仕上げたポスターの赤色の跡がはっきりと残っており、目移さんの視線も、そこだけをただ眺めているようだった。

 

 ――誰かが剥がした。


 僕の頭の中でそういった解釈がなされるまでにはそう時間はかからなかった。

 ただひとつ分からないのは、このような嫌がらせをする人物の意図である。それも僕にではなく、まだ転校してきて間もない目移さんに対する暴力的犯行だ。

 彼女と接点のある奴はとうてい限られるから、その分犯人は見つかりやすい。その点を踏まえ、こんな大胆な行為をやった相手の無計画さを考えると、きっとその場の衝動に駆られるがままにこのような犯行に及んだのだろう、というところまで憶測を並べ立てられた。

 傷ついた様子の目移さんを横目に、思わず思考を止める。今はまだ、こんなことを考える段階ではないように思い、慰めの言葉のひとつでもかけてやろうと頭をかく。

 廊下の天井にある長い蛍光灯がパチパチ、と点いたり消えたりを繰り返す。心なしか声量に気を遣った生徒が、僕らの脇を無遠慮に通り過ぎた。きっと職員室の隣では、無意識に大人しくしてしまうようだ。それは何となく分かる気がした。

 また印刷して、張り直そう。

 たしかそんな言葉をかけると、目移さんが残った切れ端を画鋲から丁寧にとって手のひらに乗せた。そんな彼女の哀愁と言ったら見ていられないものがあって、思わず視線を自分の足元に下げた。

 思いも寄らない邪魔立てに怒りを覚えないわけはない。人との関わりを経ちたいと願う僕が、いやいやながら目移さんに付き合わされてたどり着いた道を、そこらの他人が潰し、僕の削られた時間を、本当の骨折り損に変えてしまったことに関して、腸が煮えくり返りそうになって拳を握りしめた。

 しかし怒りの最中でも、冷静さは欠いていない。

 僕の中でおおよそ犯人は、ふたりに絞られていた。

 

 さてその前に、ここまでの経緯を粗方説明する必要もある。

 あれは今から三十六万……いや、一万四千……いやいや、一万年と二千年前……。


 二日前のことだった。

 

   ***


 梅雨時期は肌にべっとりと張り付くような暑さに、ムッとなる。

 僕らの教室では五月まで眠っていたクーラーはすでに息を吹き返し、ヴォーヴォーと設定十八度の冷風を送りつづけている。黒板横に設置されたリモコンは教師以外触ってはいけないはずなのに、クラスのやんちゃな暑がりがその設定温度を過剰に下げていた。

 寒い。ムシムシとする外とは一変して極寒の地となった教室はこの季節にしては冷えすぎている。

 しかし馬鹿な暑がりはバカなグループの一員で、文句は愚か、僕がその温度を上げることすらままならない。やったら罵詈雑言の嵐をふっかけられ、クーラーの恨みとばかりに何かを投げつけられること間違いない。それはボールペンかもしれないし、消しゴムかもしれないし、黒板の溝に転がったチョークかもしれない。どれにしたって投げつけられることは愉快なものではない。できることなら、回避したい。

 だから、ジッとこの寒さに耐えるしかなかったのだけれど。


 ピッ

 

「ん?」


 ピッ、ピッ、ピピピピ。

 

 トテテテ。


 ストン。


「寒かったから温度上げてきたよ!」

「なにやってんのお前!?」


 我がクラスの異端者であり四月の転校生であり、かまってちゃんの目移佳舞が黒板横から小走りに戻り、席に着く。

 そうしてにこやかスマイル百パーセントにで僕を見詰めてきやがった。

 ちょっとまて、そんな言い方だとまるで僕が言い出しっぺみたいに――


「おいこら! コドクこら! 勝手に温度上げてんじゃねえぞこら!!」

「いや違う! 僕じゃない、こいつ。こいつ!」

「うっせ! 連帯責任だろがっ!」

「あ、いっっってええぇっ」


 ――案の定、罵詈雑言が僕ひとりに集中して、バカグループの一員である五十里いかりせんを筆頭に文房具の嵐が吹いた。

 なす術なく的となって、頭に消しゴムの角が当たる。打ち所が悪ければきっと僕は死んでいたに違いない。あれは豆腐の次に危険な鈍器であるのだから。

 

「コドクのくせに、出しゃばってんじゃねえぞ!」


 その一言で暴言は終わる。バカグループのひとりがすぐさまエアコンの温度を戻し、教室上部からはまた耳に障る冷たい機械音が鳴りだした。

 同時に予鈴のチャイムも響く。もはや恒例行事と化した今朝のやり取り。いたって無垢な笑顔を振りまく目移さんをひと睨みして、僕はため息交じりに校庭を眺める。

 これも、毎日のルーティーンだった。


「あちゃー、一言お断り入れればよかったかな」

「そういう問題じゃないから安心しろ。このあほ」

「あほって言った方があほなんだよー」

「うるさい」


 目移さんは今日も変わらずマイペースな笑みを浮かべる。いつも柔和な表情は、眉が傾いたり目が細まったりと喜怒哀楽の高低は激しいのだが、基本的に口はいつも笑味を含んでいる。

 それが彼女の常だ。笑うのはポジティブな性格の現れなのだろうが、そうするとたまに出てくるシビアな顔つきに戸惑うことがあった。

 それは、先々月のこと。彼女がこの高校へ転校してきてすぐ、部活動紹介の校内行事を皮切りに部活への関心を抱いた目移さんは、五十里さんが所属する演劇部に興味を抱いてしまった。そう、『しまった』のである。

 演劇部の見学にきた僕らを、五十里さんが黙って許すはずはなかった。二度と来るなという恐喝をいただき、でもやはり、それに目移さんが従うわけはない。

 入部までの決心をつけた目移さんだったが、演劇部内では五十里さんと新入生である男子部員のふたりによる揉め事が巻き起こった。原因は五十里さんに個人的恨みを募らせた男子部員の、余計な他言だ。

 部長である伊達だて先輩へ好意を抱いている。きっと演劇部員のほとんどが気づいていた五十里さんの事情を、その彼はやり返しの意で暴露した。

 手も付けられなくなるほど部内で暴れ出した五十里さんだったが、それを止めたのは目移さんだった。意外な行動だと思ったが、彼女に正義感があっても何ら不思議ではないようにも思える。誰とでも仲よくしようとしてしまう奴だからこそ、揉め事に耐えられない部分はあったのかもしれなかった。

 責任を感じた目移さんは、五十里さんの退部を避けさせるために動くのだが、結果としては伊達部長のひとり頑張りで今は丸く収まった。いや、もちろん目移さん(僕も協力させられたのだけれど)も頑張ったつもりだが、その事実は五十里さんは知らないままだ。

 二度と演劇部に関わるな。前にそう言われていたものだから、僕らが関与したことは伏せるしかなかったのだった。

 ま、今更そんなことを掘り起こしてまで五十里さんと仲良くしたいとは思わないのだけれど、それは僕個人の意見だ。目移さんがどうしたいかは知らぬところだが、彼女はそこら辺の意見を僕には言ってこない。それはなんだか遠回しにも、僕を基準として物事の判断をしているように感じられた。

 ……どうかしている、と思う。こんなに目移さんに翻弄されっぱなしの日常を当たり前だと感じてしまっている自分に危機感を覚えてならない。

 転校初日は無関心の対象。それが気づけば嫌悪に変わり、無視できない存在に成り、今はこうして普通に会話をしてしまっている。

 とくに大きなきっかけがあったわけではない。些細なことが積もり積もってこんな形に収まってしまった。これは多少なりとも、不本意なものだ。

 僕はきっと、目移佳舞の喜怒哀楽にペースを崩されているに違いなかった。


「あ、ねえねえ、今日の放課後は空いてるん?」


 僕の不機嫌も意に介さず、背中に声がかかる。

 何を言いたいのかはある程度分かったから、少しだけ面倒くさげな態度をとって、校庭から彼女へ視線を配って答えた。


「今日……まあ、少しだけなら」


 実は今夜の伯母の帰りは早い。晩ご飯をつくる手間はないから時間はいくらでも確保できた。でもこうでも言っておかないと何時間拘束されるか分かったもんじゃない。僕は目移さんと関わるときはいつだって、保険をつくるようにしていた。

 返事を聞いて、目移さんの頬がパッと緩む。


「じゃあさ、職員室付き合ってくれないかな! 珠子たまこ先生んとこ」

「また相談だろ? つうか、その話はきちんと進行してるのか?」

「いろいろ情報が必要なんだよ~。今日の相談で、ある程度まとまりそうなの」

「そうかい。ま、さっさと終わらせてくれ」


 手をヒラヒラと振って体制を戻す。

 冷たげだが前に向き直ったのは本礼のチャイムが鳴ったからだ。間もなく、担任である珠子先生が入室し、今朝もホームルームが始まる。

 頬杖をついて伝達事項を聞きながら、その背後では奇妙な鼻歌が上機嫌にも小声で奏でられていた。僕が付き合ってやることが、そんなに嬉しいのかね。

 えっと、今日は、幽霊退治でもしそうなテーマソング。古い洋画だね、何歳だよお前。

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