苦じゃない。

永才頌乃

一。

第一話




 ──晴天。

 時折吹く、冷たい風が心地良い。

 樹々や草花も嬉しそうにその身を揺らし、さわさわと音を鳴らす。


 ここは、スディール国内にあるアガルスディマ山脈。

 ある場所は枯れ果て、ある場所では人の身よりも高く雪が積もり、ある場所では樹々が生い繁り、花が咲き誇る。

 そんな特殊な山脈の、樹々が生きるその一角で、今日もまた、清んだ空気を震わせる怒声が響き渡る。

「……馬っ鹿野郎────っっ!!」

 男のその言葉に、憮然とした、抑揚の少ない声が返る。

「『野郎』じゃない。わたし、女」

 言ったのは、長身である男の腰より少し高い位置に頭の頂点のくる、ローブを身に纏った白緑びゃくりょく色の髪と黄檗きはだ色の瞳を持った少女である。

 その手にあるのは、少女の身の丈よりも大きな抜き身の剣。

 彼女はまるで棒切れでも扱うかの様にその剣に付着していた血を一振りして払うと、そのまま手首を返して空に放り上げた。剣は勢い良く宙を舞う。そして幾度も旋回しながら落下すると、少女の背に括り付けてあったそれまた巨大な鞘に、自ら綺麗に収まった。

 そんな少女を見下ろした男は、年齢で言えば三十手前。鉛丹えんたん色の髪と鳶色の瞳の、筋骨隆々とまでは行かないが鍛えられた肉体の持ち主は、無精髭の生えたその顔を不機嫌に歪めた。

「んな事はどうでも良い。お前は何度、俺の畑を潰せば気が済むんだ!!」

 男の怒号が飛ぶ。

 少女が立っているのは、人工的に耕された土の上。一定間隔でうねが作られ、そこから様々な植物が芽を出している。──はずだった。

 なのに現在、何かが散々暴れまわったらしく、最早見る影もない。

 表情の変化の少ない少女は、僅かに唇を尖らせた。

「だって、あいつ往生際が悪かった」

 少女が示すのは、畑だった場所に倒れている大熊に似た獣。──絶命しているそれは、何か鋭い物で斬られたらしい。

 男は、額に手を当てた。

「……あのな。何度も言っているが、相手だって生きているんだ。自分の生死が関わってるんだから往生際が悪くなるのが当たり前だろうが」

「でも、どんなに抵抗しても結果は変わらないのに」

「だからこそ、だ。……ったく」

 息を吐き出した男は少女の傍らを通り過ぎ、屈んで踏み潰された植物に手を伸ばす。

 その様子に、少女は不安げに瞳を揺らした。

「……グウェン」

「……これは、──何とか使えるか……」

 少女の呼び掛けに応える事なく、男はまだ使えそうな物を選別して行く。

「ごめ、なさい」

「……」

 小さな謝罪。それにも男は反応を示さない。

 少女は震える両手を、身体の横で握り締めた。涙を堪えるように一度唇を噛んだ少女は、それを開く。

「グウェン、ごめんなさい!」

 今度は、はっきりとした謝罪。

 男は、はあっ、と盛大に息を吐くと、両膝にそれぞれの手をつきながら立ち上がった。

 振り向いた男の目に射抜かれて、少女は身を固くする。

「──サリアナ。俺は調合師だ」

「……うん」

「それも薬草を調合する」

「……うん」

「大量に使うから、可能な物は自分で栽培してる」

「……うん」

「ここの畑もそうだ」

「……うん」

「お前は俺の何だ?」

「わたしはグウェンの嫁」

 迷いのない返答に軽く片眉を動かせた男──グウェンだが、しかし否定する事はなかった。

「……嫁だっつうんなら、旦那から仕事を奪ってんじゃねぇよ」

「……うん、ごめんなさい……」

 静かな怒気に、サリアナという名の少女は項垂れる。

 じっとその様子を見据えたグウェンは、瞳を和らげた。

「……無事なやつ保護したら、、街に売りに行くぞ」

 地に倒れた獣を親指で指す。

 ぱっと、サリアナは顔を上げた。

「嫌いに……なって、ない?」

「嫌いだったら会話してねぇよ」

 上目遣いに確認するサリアナに、グウェンは小さく笑みを漏らす。

「……──っっグウェン、大好き!」

「おわっ!」

 背負う大剣ごと飛びついて来たサリアナを、声を上げながらもしっかりとグウェンは抱き留めた。




「……つーか、嫁じゃねーだろ」

「嫁」

「嫁じゃねぇ」

「わたし、グウェンの嫁」

 それ以外の答えは認めないとそっぽを向くサリアナに、彼女が仕留めた獣を担ぐグウェンは呆れたように目をすがめた。


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