第94話 殺戮

 うまくいった。

 自分でも信じられないほどになめらかに口が動いたが、人間は窮地に陥るととんでもない力を発揮するという。

 ある意味では、等の嘘もそういうたぐいのものだったのかもしれない。

「あがっ……」

 おかしな声をあげて、鉄パイプの直撃をうけた丙種市民が倒れた。

 頭蓋骨の一部が陥没している。

 血だけではなく、得体のしれない液体までもが溢れていた。

 おそらくは脳漿だろう。

 たちの悪い冗談のように眼球が飛び出している。

 ほぼ即死だったようだ。

「てめえら……なにしやがるっ」

「ざっけんなこらあっ! 殺すぞこらあっ!」

 同じ丙種市民を殺されて、丙種の連中の怒りに火がついた。

 もともとが丙種は暴力に慣れている。

 怒声をあげ、激昂した丙種たちはさまざまな凶器を使って一斉に乙種市民に襲いかかっていった。

 包丁が相手の腹に突きこまれる。

 別の丙種市民は、ナタで乙種の頭蓋を叩き割った。

 骨が砕ける忌まわしい音とともに、頭が見事なまでに爆ぜていく。

 大量の血と脳漿が天井にまで一気に噴き上がった。

「ここは俺たちの縄張りだ!」

「乙種の奴らをやっちまえ!」

 もともとが丙種市民は乙種市民に対して鬱屈した感情を抱き続けていたのだ。

 すでに等たち魍魎のことは彼らの頭から抜け落ちているようだった。

「殺されるぞっ!」

「自衛だ! 自衛のためだ! これは反人権的行為なんかじゃないっ!」

 窮鼠、猫を噛むとはこういうことを言うのだろう。

 追い詰められた乙種市民たちも反撃を開始した。

「死ね! 丙種のクズがっ!」

「これは正当な防衛行為だ! 正当防衛! 反人権的行為じゃねえからな!」

 自分たちに言い聞かせるように乙種市民は「正当防衛」といった言葉を使っていた。

 昔の法律と呼ばれるものには、そうしたものが存在したらしいことは知っている。

 だが、いまの時代にそんな概念は存在しないのだ。

 理由の如何をとわず、いまここで行われているような行為を絶対人権委員会は「反人権的」の一言で片付けてしまうだろう。

 非常時になると、人間は冷静な判断力を失うようだ。

 かつては常識だったかもしれないが、今の世の中では正当防衛などなんの意味もないのに、つい古い時代の知識が蘇ったに違いない。

 凄まじい暴力と殺戮の嵐が吹き荒れるのを葦原が皮肉げに見つめていた。

「平、よくやった! お前、俺が予想していた以上のタマだな!」

 しかし葦原に褒められても別に嬉しくはなかった。

 今はそんなことで喜んでいられる状況ではないのである。

 一時的に乙種と甲種の市民を争わせて時間稼ぎにはなったが、この先は容易に想象できる。

 いずれ丙種市民が乙種たちを数で圧倒するだろう。

 なにしろここは丙種地区なのだ。

 外からも援軍が次々と駆けつけてくるに違いない。

 もはやこの家にとどまっている意味はない。

 丙種と乙種が殺し合いをしている間に、再び人間たちの包囲網を突破しなければならないのである。

「光、なにかいい手はないのか?」

 まだ光は、弥生に裏切られた衝撃から完全に抜けきってはいないようだ。

「無理だって……電脳が使えないと、私は……」

 等は舌打ちした。

 もちろん光には同情すべき点は多々あるが、これでは困る。

 しかしこのままでは、光は本当に足手まといにしかならない。

 その瞬間、ある恐ろしい考えが脳裏をよぎった。

 かつて霧香に対してしたように「光をここに置き去りにすれば、自分は逃げられるのではないか」と考えてしまったのだ。

 自分に罵声を浴びせたくなった。

 霧香は可哀想だし、哀れでもあるが、あのときは仕方がなかったのだ。

 だが今回の相手は光だ。

 自分がこの世で一番、愛おしく思っている女性なのだ。

 たとえ世界すべてを敵にまわしてでも光だけは守ってみせる。

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