砂糖が溶けるまでの時間

水上下波

日の出の日

 何もしなくたって、ただ毎日は過ぎる。

 気の合う仲間とくだらない話をしたり、試験前に必死になって一夜漬けしたり。ありふれた日常だけどそこそこ楽しいこともあった。けれどそうやってただ過ぎてしまった毎日のことを思うと、やっぱりどこか寂しさみたいなものを感じる。やり残したことなんて何も無いとずっと思っていたはずなのに、いざその時が来たら、実際には後悔することばかりだ。

 けれど、こうやって思っていることも、同じようにいつか、毎日の中に埋もれて忘れていってしまうのかもしれない。

 そうしたら、どうしてかも分からないまま、寂しいという気持ちだけがいつまでも残りそうで、そんな得体のしれない予感が、俺の心をざわつかせる。


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 どこからかピアノの音が聞こえたような気がして、俺はふと、足を止めた。多分、普段だったら聞き逃していたか、もし気がついても気のせいだということにして無視していたと思う。そのくらい微かな音だった。

 けれど今日に限って、それが妙に気になってしまったのは、そのピアノの音がまるで誰かを呼んでいるみたいだったからかもしれない。

 なんて、そんなキザなことを考えたのは、俺自身が誰かに呼ばれたいと思っていたからだろう。このまま帰ってしまうのがなんとなく寂しくて、だからきっと、俺は口実を探していたんだろう。

 校内にはもう殆ど人は残っていない。喧騒は残り香のように、まだ辛うじてそこらに漂っていたけれど、それが逆に静かさを際立たせる。

 目を閉じて耳をすませる。──やっぱり気のせいじゃない。

 まあこれが最期だしなと、誰に向けてでもなく心の中で言い訳をしながら、もう数えるくらいしか靴が残っていない下駄箱に、履きかけていた外靴を戻す。それから、さっき降りてきたばかりの階段をまた上る。

 近づくにつれてはっきりと聞こえるようになったそのピアノの音は、なんの曲かは分からなかったけれど、なぜか懐かしい感じがした。

 俺は引き寄せられるように歩いていく。今確かめなければ、この懐かしさの正体も永遠に分からなくなってしまうような気がしていた。

 そうして音を追っているうちに、俺は音楽室の扉の前に立っていた。ピアノの音がしたのだから当然ではあるのだが。

 ちょうど目の高さにあった覗き窓から音楽室の中を見てみると、夕焼け色の音楽室で一人、女生徒がピアノを弾いていた。窓が開け放されているみたいで、風が吹くたびにカーテンがはためいている。逆光に赤く黒く染まった教室の中で、カーテンの隙間から漏れてくる夕日を反射して、ピアノだけがキラキラ揺らめいている。

 それはまるで夢の中にいるみたいに幻想的な風景だった。

 いつの間にか演奏が止まっていることに気がつかなかったのは、呆気にとられていたからだろう。気がつくと、ドアを挟んで俺のすぐ目の前まで来ていたその人は、のぞき窓越しに俺と目が合うと、ニッと笑ってドアを開けた。

「そんなところで見てないで入りなよ」

 そこにいたのは、見覚えのあるクラスメイトの女の子だった。


 音楽室にはピアノの音が充満しているみたいだ。夕焼けに染まる音楽室の姿は、見慣れていないせいかなんとなく違和感があった。三年間通ったこの学校にも、知らないことがまだまだあるんだと実感した。

「それで、こんなとこに、どうしたの?」

 彼女は軽い調子でピアノを弾きながら、同じく軽い調子で俺に話しかける。俺はそこらにあった机に直接腰掛けた。

「帰ろうと思ったら、ピアノの音が聞こえたから」

「あー、うるさかった? ごめんごめん」

 大して悪びれる様子も無くそう言ってのける。けれど、楽しそうにピアノを弾いている姿をみたら、まあ良いかと思えた。

「そういうことじゃなくて、なんとなく気になっただけだから。大丈夫」

 俺の言葉に彼女は、安心したようにほっと小さく息をついた。

「そ? ならせっかくだし、ちょいとお付き合い願おうかしら? あたしも観客が欲しかったところだし」

 芝居がかった口調に、俺は思わず笑ってしまった。してやったりという顔をしているのが、微妙に悔しいけれど、まあ良いか。

「なんかリクエストあれば弾くけど、どうする?」

 そう言いながら、次々と曲を繋いでいく。楽しげな曲、寂しげな曲。速い曲、遅い曲。知らない曲ばかりだったけど、弾きなれているということは分かった。

「うまいもんだなぁ」

「まあねー。ずっとやってますから?」

 得意げな口調と一緒に、ピアノの音も得意げに跳ねる。

「ピアノ弾けるなんて、知らなかった」

「そりゃ今までまともに話したことないもんね」

「……確かに」

 言われてみればそうだった。少なくとも、一年間。もしかしたらそれ以上の期間を、同じ教室で過ごしたはずなのに、俺は彼女のことをほとんど何も知らない。

 そんな俺の考えを見透かしたように、目の前の女の子は悪戯っぽく笑う。

「もしかして、あたしの名前も知らないんじゃない?」

「し、知ってるよ!」

 とっさにそう答えたものの、実際のところ、すぐには出てこなかった。少し考え込んで、ようやく思い出せた。

「……えっと、三村、だろ?」

 俺の返答に、三村は驚いたように目を見開いた。それと同時にピアノの音も止まる。

 間違っていたのかと、一瞬不安になったけれど、訂正がないということは合ってるんだろう。俺がちゃんと名前を覚えていたことが、そんなに意外だったんだろうか。失礼な。

 少しして、思い出したようにピアノを再開すると、三村はうっすらと目を細めた。

「完全にうろ覚えじゃん」

 それから堪えきれなくなったみたいで、小さな笑い声を漏らす。三村は楽しそうだ。


 俺たちは話し続ける。その間も三村のピアノは、言葉に色を付けるみたいに鳴り続けた。今まで話をしていなかったことが不思議なくらい話が弾んだのは、もちろん明け透けな三村の性格のおかげもあっただろうけれど、ピアノが手助けしてくれたから、というのもあるんじゃないかと思った。

 授業中にあった小さな事件のことや、教師のおかしな癖の話題で笑いあうと、今まで接点はなかったけれど、やっぱり俺たちは何かを共有してきたんだということを意識させられた。

 おあつらえ向きに、今の曲はゆっくりと寂しげだ。

「なんつーか、三村って……」

「ん?」

 三村が小首を傾げる。俺は気恥ずかしくなって、思わず目線を逸らした。聞こえなければ良いと思いながら、小さく呟く。

「もっと早く話しかけてれば良かった」

 けれど、その声はしっかりと受け取られる。やっぱりピアニストは耳が良いんだろうか。三村は目を閉じて、苦笑いだ。

「もう遅せーよ」

「……確かに」

 ちらと俺の表情をみやると、重くなった空気を一変させるように、三村が曲を変えた。今度は、随分テンポの速い曲だ。

「そういえば、打ち上げとか、ないの?」

 曲と同じ、軽い調子で俺に尋ねた。

「どうせ夜からだし。タカシたちは先にカラオケ行ってるらしいけど、俺はもうちょっと見て周りたかったから」

「なるほど。……もしかして友達いないのかと思って、心配しちゃった」

 その言葉に合わせるように、不協和音を響かせる。けれどその表情はどう見ても笑っている。それで、なんだか気が抜けてしまった。

「三村は? 打ち上げいかないの?」

「あたしもそんなもんかな。どうせ最後だし、弾いとこっかなって思って」

「ふぅん」

 黙ってしまうと、教室はピアノの音だけに包まれる。それがなんだかもったいなくて、せき立てられるように言葉をつないだ。

「三村は卒業したらどうすんの? 進路とか、決まってる?」

「あたしねー、東京の音大行くんだ。春からは都会人だよ」

「へぇ、凄いじゃん」

 これには素直に驚いた。けれど三村は、小さく首を振る。

「あたしなんてまだまだ。ホントは留学とかしたかったんだけど、そんな実力でもなかったからね」

「こんなに上手いのに?」

「まあ、上には上がいるってこと。もちろん、だからって諦める気なんて無いけどね」

 言いながら不敵に笑ってみせる。その表情は妙にすがすがしげで、そのせいもあってか、同級生のはずなのに随分大人に感じた。

 そんなことを思っていたら、すぐにまた年相応の目に戻って、俺に視線をよこした。

「そっちは?」

「俺は、地元の大学。具体的に将来のこととか、何も無いんだけど。とりあえず大学は入っとけって、親が」

 しっかりと未来を見据えている三村と比べると、俺の進路はあまりにも不確かで、なんとなく恥ずかしさを感じた。

 と、三村はまた曲を変えた。

「ま、良いんじゃない? 今はそれでも、まだまだ先は長いんだから。とにかく、進路が決まってるなら何よりだ」

 この曲は、さっき昇降口で聞いた、あの曲だ。

 窓の外に目を向けて見ると、いつの間にか夕焼けは沈みかけている。沈む直前の、真っ赤な光が、痛いくらい目に焼きついた。

 なんとなく、これでピアノの時間は終わりなのだという気がして、俺は黙ってその曲を聴いた。三村も、何も話しかけてこなかった。

 そして、ほどなく、たっぷりの余韻を残して、曲が終わる。

 俺の控えめな拍手に、三村はおどけながら笑顔で応えた。

「さってと、そろそろ行きますか」

 予想通り、三村は椅子を引いて立ち上がる。けれど俺は、余韻が胸に詰まって立ち上がることができない。三村はそんな俺の様子に気がつくと、すぐ間近から俺の顔をのぞきこんだ。

「んー? なーに寂しがってるのかな。もしかして、ピアノがあまりに感動的すぎて泣いちゃった?」

「……ねーよ」

 茶化してくれたおかげで、俺も軽く応えることができた。顔を見合わせて、二人で笑いあう。

 それも収まってしまうと、音楽室はまたしんと静まり返った。

「……こうやって話すことも、もう無いんだろうなあ」

「だろうね。あたしは東京、そっちは地元。絶対会えないってわけじゃないけど、機会は減るだろうね」

 特に仲が良いわけでもないから、当然の答えだ。でも、やっぱり残念だと思ってしまうのは、短い間でも、こうして接点を持ってしまったからだろうか。

 と、

「でも──」

 そんな俺の気持ちを察したように、三村はサッと背を向けると、言った。

「あたしは、きっと忘れないよ。卒業式の日に夕焼けの音楽室で、こうやってクラスメイトと話したこと」

 彼女が弾くピアノと同じように、良く通るはっきりとした声。なんだか俺は、ちょっとだけ救われた気がした。

「そっか。……俺も、多分忘れないな」

 振り返った三村は、少し照れくさそうに笑う。その頬が赤く染まっているように感じたのは、多分夕日のせいだろう。

「ほら、昇降口まで一緒に帰ろうぜ!」

「ああ」

 今度はちゃんと頷くことができた。


 靴を履き替えるころには、辺りはすっかり暗くなっていた。昇降口から外に出ると、途端に冷たい風が吹いてきて、俺は制服のボタンを留めた。隣にいる三村を見ると、俺と同じく寒そうにしていた。その姿は、当たり前だけど普通の女の子みたいで、さっき音楽室でピアノを弾いていたのとは別人みたいだった。

「そういえばさ」

「んー?」

「さっき、最後に弾いた曲って、なんて名前?」

 三村はあごに指を当てながら、ちょっと困ったような表情をした。

「ん、別に適当に弾いただけだから、曲名とか無いよ?」

「そうなのか。なんか、もったいないな」

「そう? んー、ならアレあたしのオリジナル曲ってことにして、今名前つけちゃおうか」

 三村は悪戯を思いついた子供みたいな、そんな表情だった。

「……なんか、テキトーだな」

「いいのいいの。曲名なんてそんなもんよ」

 と軽く言ってのけてから、三村は少し考え込んだあと、すぐに、「よしっ」と小さく呟いた。

「じゃあ、日の出の日、とかどう?」

 日の出の日。

 その言葉に、導かれたように空を見上げる。夕日はとっくに沈んでしまっている。けれど明日になれば、また新しく日は昇る。それは今の俺の気持ちに、不思議なくらいしっくりとくる気がした。

「うん。良いんじゃないか?」

「なんかテキトーだな!」

 大げさに顔をしかめて、三村は冗談めかしたように俺を非難する。けれどその目はどう見ても楽しそうに笑っていた。

 余韻を味わうように薄く目を閉じて、それから分かれ道の先を視線で示す。

「あたしはこっちだけど……」

「俺は、こっち」

 三村が指したのとは、逆方向。

「そ。ならここまでだね」

「ああ、そうだな」

 多分、この先も、三村と会うことはないんだろう。もしいつか、偶然出会ったとしても、今この瞬間と同じように話せることは、永遠にないんだろう。

 だからこそ、未練は残したくなかった。明日も同じに、また会えるような笑顔で、俺たちは別れの言葉を口にする。

「またな!」

「またね!」

 ほとんど同時に、俺たちは背を向ける。ほんの一時だけすれ違った二つの直線は、もう二度と交わることも無い。

 背中越しに、三村の控えめな足音だけが聞こえる。

 俺も行くか、と歩き出そうとすると、後ろから俺の名前を呼ぶ声が聞こえた。ゆっくりと肩越しに振り返る。

 道の先、薄暗がりの向こう。街灯の灯りに照らされた三村は、小さな身体を精一杯大きく見せるように、何度も、何度も腕を振っていた。そのままで、大声で叫ぶ。

「あたしの名前、三村じゃなくて、仁村だからー! もう忘れんなよー!」

 そして、それだけを言うとまた向き直り、今度こそ振り返らず歩いていった。

 暗闇の先に見えなくなってしまうまで、その後姿を見送りながら、俺は思わず笑ってしまう。


 忘れないよ。絶対に。

 今度は確信を持って、そう思えた。

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