戦う描写⑤


 背中に翼が生えていれば窓から飛び立って逃げられるのに。そんな阿呆臭い妄想を脳内に浮かべた時任恢(ときとうかい)は、赤と焦げ茶色が幾何学的な紋様を広げる絨毯が敷かれた床にダイブするように転がり、机の後ろに隠れる。最高品質の桃花心木(マホガニー)から造られたイタリア製の最高級品だ。同じく値が張るだろう革張りのソファやテーブル、その上にあるティーセットを含めれば、彼の年収など簡単に突破するだろう。貧富の差が胸に染みたと同時、銃声が数発纏めて飛来する。机の端が削れ、絨毯に穴が開き、床のセラミックタイルが砕ける。

 今年で二十四歳になった成人男性の恢は一瞬、苦々しく顔を歪めた。それは、注射を嫌がる子供にも似た表情である。もっとも、飛んでくるのは身体を守る予防接種用の注射ではなく、人間を簡単にあの世へと運ぶ四五ACP弾だ。唯一の出入口であるドア付近を占領するのは、黒い服を着ている四人ばかりの〝警備員〟である。とうの昔に交渉は決裂し、鉛玉のパーティーが終わるのは、どちらかが死んだ時だ。

「……ったく、勘弁してくれ。俺はそこまで器用な男じゃねえんだよ」

 弱音を吐く恢の身長は百八十五センチ。無駄なく鍛え上げられた筋肉の冴えは日本刀、それも一振りを以って敵の胴体を断つために打たれた野太刀が風情。髪は短く硬質的、顔の彫りが深く、気苦労が似合いそうな男だった。黒いスーツに身を包み、メタリックシルバーの眼鏡が絶妙に似合っていない。ただ、その双眸がだんだんと厳しさを増していく。

 銃声は止まらない。いくら四五ACP弾が音速に届かず貫通力が低かろうと、こんな木製の壁がいつまでももつわけがない。こちらの血肉へ鉛が埋め込まれるのも、時間の問題だろう。

 胸に棘が突き刺さったかのような痛みと圧迫感を覚えつつ、恢は上着の内ポケットへと手を伸ばし、煙草を一本取り出して口に咥えた。こんな時だからこそ、煙草を吸うべきだ。

右手に握ったのは純銀のメタリックフレームを輝かせるジッポ式のライター。表面には十字架を刻む双剣の紋様が刻印されている。カチンと、親指で勢い良く跳ね上げるように蓋を開け、フリント・ホイールを親指の腹で強く擦る。火花が散ってオイルが染み込んだ芯に着火。灯ったのは根元が青白く、全体が白と橙色を混ぜた炎。煙草に火を移し、きちんと蓋を閉める。使い捨てライターと違い、ジッポは蓋を閉じねば火は消えないのだ。

 舌の上で転がすように紫煙を吸う。キャスター・ゴールドシルクはバニラフレーバーでありながら、ビターチョコにも似たアクセントを演出する。煙の味が丸く、吸いやすい。

「じゃあ、そろそろいきますか」

 彼は、この世の理を汚す奇跡の断片〝アウター・ギア〟を保護・収集・処理する世界最大の互助組合グラン・ドランの日本支部メンバーにして管理者(ホルダー)である。最前列で戦うことを義務付けられた彼が、敵陣へ何も装備を整えずに向かうはずなどない。

 恢の右手が上着の内側へと伸ばされる。だが、今度引き抜いたのは煙草ではなかった。

 日本人離れした体躯、日本人離れした大きな手に握られていたのは、回転式拳銃にカテゴライズするタウルス社のタウルス六八〇CP〝B六〟だった。世界中に存在する回転式拳銃のほとんどは装弾数が六発であるが、この銃器は強力な三五七マグナム弾を八発まで装填可能である。その分、弾倉の径が太く、フレームも大きい。全長二百九十ミリ、重量千三百五十グラム。名前の末端にある〝B六〟とは防錆処理(ブルーイング)が施された銃身六インチモデルということを意味する。これが、恢の仕事道具であり〝相棒〟なのだ。

 限りなく黒に近い蒼の輝き。ゴム製のグリップを強く握り、鋼鉄の暴君が目覚める。恢は撃鉄を起こし、一度だけ大きく息を吸った。硝煙の臭いがここまで届く。だんだんと感情が凍りつく。心臓の鼓動が加速し、思考の歯車が切り替わる。そして、飛燕が舞った。

 相手の銃声が途切れた瞬間を狙い、机の横側から顔と右手だけを伸ばす。その双眸はすでに、狩人の輝きを取り戻していた。黒服の連中が一斉に自動式拳銃を向けるも、遅い。

 恢の右手人差し指が引き金を絞る。大気を引き裂く轟音と共に放たれるのは、白銀の煌めきを纏う弾丸。緋色と濃い橙色のマズルフラッシュの尾を引かせ、小粒の悪鬼が彼から見て一番右端に立っていた黒服の脳天を貫いた。顔に激怒を貼り付けていた男が、糸切れた人形のように、その場に倒れた。そのまま、発砲は続く。二発目、三発目、四発目。それぞれ、左胸、脳天、左胸の順で射抜き、尽く絶命させる。

 黒服達が倒れ伏す音を聞き、恢は安堵したように机から出て立ち上がった。銃に限らず、武器とはタイミングが求められる。いくら強力な弾丸だろうが、当たらなければ意味が無い。せっかく四人もいるのだから、交代しながら撃てば良かったのだ。

「悪いな、こっちも仕事なんでね。恨むならこんなことに首を突っ込んだ手前の不幸を恨め。……ったく、馬鹿野郎が。アウター・ギアに首突っ込んで幸せになれるわけねえだろ」

 吐き捨てるように呟き、恢は廊下へと出た。ここは繁華街の隅にある高級マンションの一室で、非正規にアウター・ギアを所持する臼田享作という中年の男が住んでいる。この男を〝処罰〟するために、彼は訪れたのだ。さて、肝心の男はどこにいるだろうか。噂をすれば影か。廊下の奥から、何か物音が聞こえてくる。

 恢が歩を進めた先、廊下の右手側にドアがあった。それも、鍵が縦三列にかけられている。彼は煙草を吸いながら三秒も考え、銃口を向けた。

「サービス残業は嫌いなんだよ。俺は、とっとと帰って酒が飲みてえんだ」

タウルス六八〇CPに装填された三五七マグナム弾薬は、ウィンチェスター社製のシルバーチップだ。これは、ホローポイント系とも呼ばれる先端に〝凹〟の窪みがある弾薬であり、被弾者の体内で先端から捲れ上がるように潰れ、拡張する。それは、弾丸が急ブレーキをかけるようなものだ。全ての運動エネルギーが衝撃に変換され、肉体を効率的に損傷させる剣呑な仕上がりである。さらには、鉛のコアがニッケルや銅、亜鉛の合金で被甲されており、貫通力さえ損なわれていない。まさに、対人用の〝殺し用〟の弾薬だった。

 その破壊力は無機物にさえ有効的である。恢は、弾倉に残っていた四発を鍵穴へと撃ち込んだ。火花が散り、金属同士がぶつかった際特有の重く鋭い音が廊下へと広がる。

 恢はタウルス六八〇CPの弾倉を横にずらし(スイング・アウト)、真鍮製の空薬莢が八発分、床に落ちる。そして、スピードローダーを使って八発を一括装填した。再び撃鉄を起こし、右脚を大きく上げる。鋼板を仕込んだ革靴へと、迅雷の速度が当たえられた。木製のドア相手に、全力を叩きつける。けたたましい音を立て、ドアへ亀裂が入った。二度目、亀裂がさらに大きくなる。そして、三発目。くの字に折れたドアが吹っ飛んだ。

「ひぃいいいいい! あ、ひゃゃあああああああああああああああ、ああああ」

 悲鳴を上げたのは、殺風景な部屋の中央で腰を抜かしていたらしい中年男だった。どうやら、あれが臼田享作らしい。写真で見た通り、長年の不摂生が祟った腹の太さと、髪の薄さが特徴的である。高そうな服を纏い、その顔には恐怖一色が貼り付いていた。恢と目が合うと、その顔を蒼白から土色へと変えた。口からは、今にも泡が飛び出しそうである。

「あんたが臼田享作か。もう、終わりにしよう。手前を拘束して、俺の仕事は終わりだ」

 銃口を向けられた享作が全身を痙攣させる。恢へ縋るように右手を伸ばし、訴えるのだ。

「ひ、っひ、助け、助けてくれ。金ならあるぞ。一千万、いや、三千万出そう。だから、見逃してくれ。頼む、まだ、死にたくない。死にたくないんだ」

 享作の命乞いに、恢は煙草を吸いながら頬を掻いた。どうやら、勘違いなさっているらしい。緩慢に近付きつつ、彼は銃口を突きつけながら標的へと問うた。

「……手前、裏の世界のブラックマーケットで人を買っていただろう。それも、十歳にも満たないような子供ばかりを。組合が調べている範囲でも二十人近くだ。その子達は、どこにいる? ここにいるのか? 他の場所にいるのか? なあ、答えろよ。――答えろ!」

 恢の瞳が極寒さえ生温い永久凍土を湛えていた。今にも引き金を絞らんばかりに。ピンと伸びた右手の人差し指は、微かに痙攣していた。まるで、心臓の奥から溢れ出す激怒を必死に押さえつけているかのように。

「手前が持っているアウター・ギアの調べはついている。人間を超えた新しい存在にでもなりたかったのか? ふざけんなよ馬鹿野郎。そんなこと、許されると思ってんのか!」

これまで多くの標的を討伐してきた管理者(ホルダー)の怒気に、享作が声さえ失って顔を涙と鼻水でグチャグチャに歪めるのだった。それでも、恢の怒りは治まらない。さらに怒気は増す。

「手前みてえな糞野郎がいるから、いつまで経っても俺〝達〟の戦いは終わらないんだ! 組合が設立されてから八百年以上も時間を刻んで、積み上げた歴史は死と絶望の真っ暗闇だ。人間は、このままどこに行く? 何を目指すって言うんだよ、畜生が」

 終わらない戦いの中で、何か得た物はあったのか。恢は一歩一歩、享作へと近付く。中年の男が後ずさりしようとするも、直ぐに壁へと背中がぶつかってしまう。目の前にいるのは、拳銃を握った管理者(ホルダー)。もう、どこにも逃げ場はない。

「頼むよ、見逃してくれ。三千万で駄目なら五千万、いや八千万。頼むから助けてくれ!」

 無様な命乞いをする享作へと、恢は薄ら寒い笑みを浮かべながら言ったのだ。

「安心しろ。上からは、手前を『殺せ』だなんて依頼はされていない。……その代わりに」

 ドアを蹴破った時と同じく恢の右脚が動く。享作の顔面へと、靴裏が叩き込まれた。鼻がつぶれる感触が靴越しに伝わってくる。後頭部を壁に打ち付け、そのまま中年男が白目を剥いた。顔面を鼻血で濡らしながら、その場で気絶してしまう。

「手前は拘束して、たっぷりと情報を吐き出して貰う。運が良ければ、もう一度太陽の光が拝められるかもしれねえな。……簡単に死ねると思うなよ。存分に、手前の罪を償え」

 短くなった煙草を携帯灰皿に入れ、恢は二本目を吸った。これで、彼の仕事は終わりだ。

 享作を拘束した分、新しい犠牲が増えるのを未然に防げたのだろうか。もしも、その分、誰かが不幸にならずに済んだのなら、これほど嬉しいこともないだろう。恢は頬を緩め、だが弾かれるように大きく目を見開いた。――何か、物音が聞こえたのだ。

「……誰か、いるのか? まだ、誰か生きているのか」

 どこから聞こえた? 空耳か? いや、確かに聞こえた。恢は周囲を見回し、息を顰め、耳を傾ける。十六畳ほどの部屋にあるのは、背が高い本棚と椅子に机。先程の応接間と違い、趣味の部屋だろうか。鍵を三つもかけていたのだ。何か、秘密が隠されているはず。

 恢は組合から受け取ったマンションのデータを思い出し、これまで見てきた実際の情報を照らし合わせていく。そして、本棚が壁の一角を占めている南側に歩を進めた。すると、微かに音が大きくなった。この向こう側に、誰かがいる。男は本棚を掴むと同時、渾身の力を込めて手前側に倒そうとする。しかし、固定でもしているのかビクともしない。

「この向こう側は空洞になっているはずなんだ。誰かがいるはずなんだ。頼むよ。助けさせてくれよ。一人でいいから、守りたいんだよ」

 歯を食い縛り、腕に力を入れる。それでも、動かない。待て、よく考えろ。ここに隠し部屋があるとして、出入りする度に一々、重い本棚を動かすものだろうか?

 恢は改めて本棚を睨みつける。そして、気が付いた。左手側に、不自然なスペースがある。ちょうど、本棚一つ分置けるような――本棚一つ分をスライド出来るような。再び、本棚を掴む。今度は手前に引っ張るのではなく、真横へと押し込めるように。すると、あれだけ強固だった本棚が少しずつ左手側へと動き出す。どうやら、床を数センチ低くして外側からでは見えないレールが埋め込まれていたらしい。そして、ついに見付けた。壁と同化するように偽装された扉を。彼の心中で淡い光が咲き誇る。また、音が聞こえたのだ。堅い木材が叩き合わされるような音だ。カチン、カチン、カチン。今度はもっと大きい。

「待ってろ、今、出してやる。俺が助けてやる。だから、もう大丈夫だ!」

 扉は、マンションの一室には似つかわしくない堅牢なスチール製だった。どうやら、この部分だけ念入りに改造しているらしい。ここにも、鍵が一つだけかけられている。恢はもどかしくなって再び拳銃を使おうとするも、ふと背後で気絶している享作の存在を思い出す。捲れ上がった上着の下、腰のベルトにジャラジャラと鍵の束がぶら下がっている。

 当然、奪った。ついでに、途中で目覚めて逃げないように上着をナイフで二つに裂いて両腕と両足を縛っておく。肥えた腹だ。汚い金を使い、どれだけの犠牲者を増やしたのだろうか? 出来るものなら、今すぐここで撃ち殺したい。

 恢はナイフを上着の内側に縫い付けたホルスターにしまい、鍵を開けた。随分と薄暗く、そして、嫌な臭いがする。生ゴミに犬の糞を混ぜたような吐き気を催す異臭。どうやら、部屋に入ってからずっと鼻孔にこびり付いていた臭いは、享作の加齢臭ではなく、ここから漏れ出していた臭いだったらしい。壁際をまさぐると、スイッチの感触を発見。

 二度三度点滅して、天井の灯りがつく。部屋は壁も床も天井も剥き出しのコンクリートだ。広さは十畳程度。そして、手前と奥を半分に両断するのは天井まで届く鉄格子だった。まるで刑務所、あるいは、檻か。恢は声を失ってしまう。窓一つない檻の向こう側で、小さな人影が一人分、倒れていたのだ。粗末で薄汚れた服を纏うのは、紛うことなき人間の子供だった。微かに、うめいている。まだ、生きているのだ。

 震える手に苛立ちながら鍵を探し、なんとか開ける。恢はすぐにでも助け起こそうとして、己の手に凶悪なタウルス六八〇CPが握られっぱなしだったことに気が付いた。慌てて、拳銃を左肩に吊るしてあるホルスターに戻す。拳銃を片手に握った大人の男性が目の前にいれば、どんな言い訳を連ねても子供なら恐怖一色しか覚えないのは明白である。

「馬鹿、なにやってんだ俺は。何浮ついてんだよ。しっかりしろよ、俺。この子を、助けるんだろうが」

 気持ちばかりが逸るのだ。恢は自分で自分の頬を叩く。その痛みが、幾分か冷静さを取り戻してくれる。その時だ。倒れ伏す子供が、呻き声を発したのは。

「……あっ、うぅぅ。あ、あ、ん、あ、うう、ううう」

 髪は腰の半ばまで無造作に伸び、肌は垢に塗れ、爪も伸び放題。おそらく、少年だろう。

 少年がぎこちなく、首を曲げる。その黒い瞳が今、恢を見た。彼は、間に合ったのだ。たった一人でも、助けられた。喉奥から歓喜が溢れ出し、目頭が熱くなる。

「さあ、ここを出よう。大丈夫。君を傷付けるような奴は、もうどこにもいないよ」

 精一杯の優しい笑みを浮かべた恢が膝を屈め、少年へと手を伸ばす。その大きく逞しい手へと、少年が弱々しく小さな手を伸ばし、刹那、全身の血の気が引いた。少年の瞳が薄っすらと濁っていたのだ。まるで、鮮血を数滴ばかり、注ぎ入れたかのように。反射的に、地面を蹴る。右手側、真横へと回避。耳元を、鉄錆びの臭いを充満させた旋風が駆け抜けた。そして、後方で短い悲鳴。続けて、絶叫。野太い声。気絶していたはずの臼田の声。

「いいぎいいぃいががががっががががぐぐぐががががっがががああああああええ!?!?」

 部屋を出て、恢は息を飲んだ。枯木のように手足が細くなっていたはずの少年が、四つん這いで臼田を押し倒し、その首筋へと噛み付いていたのだ。どれだけの力か。下顎から夥しい量の鮮血が噴き出し、地面を朱に染める。少年の喉が断続的に動いていた。血を飲んでいるのだ。いや、違う。あの少年は、食べている。姿が、変化していく。頬が耳まで裂け、頭部が前方へと伸びる。耳も伸びる。舌も伸びる。全身の筋肉が爆発的に膨れ上がり、薄汚れた肌に真っ黒で針金のような剛毛が生え揃う。両腕や両足に伸びるのは肉厚で鋭い爪。血が滴る口腔へ凶悪な牙が列を成す。ワーウルフ、人狼、狼男、ライカンスロープ。名前は数多くとも、目の前の現象は間違いなくアウター・ギアによるものだった。

 人狼へと変化した少年が大口を開けて臼田の首を噛み千切り、肉を食い、血を啜る。とうの昔に悲鳴は途切れ、中年男の両眼は生命の光を失っていた。狼の大顎が頭蓋骨を噛み砕き、脳漿が周囲に飛び散る。

「ウルルルウルルルウルルルルルウルルルルウルルルルウググウウウウウゥウゥウ!!」

 元少年の喉奥から溢れ出すのは、狼の遠吠えにも酷似した絶叫。ようやく、理解する。臼田享作は己がワーウルフになるのではなく、ブラックマーケットで買った子供を化け物へ仕立て上げたのだ。おそらくは、従順なペットにでもするために。他の子供達はどうなったのか。もしかすると、目の前のワーウルフの餌になったのかもしれない。

 恢は喉を震わせ、言葉にならない声を吐き出す。全身から力が抜け、寸前で足を踏ん張る。少年は、最初から助からない運命にいたのだ。最初から、助けられなかったのだ。

「……そうか。また、これか。せっかく、助けられると思ってたんだけどな。そうか。俺は結局、誰も助けられないのか」

 無念が、自然と唇から零れた。これで、彼の〝残業〟は決定だった。

 恢の双眸に暗い光が灯る。腰が僅かに落ち、左手に刃渡り二十五センチのナイフが握られる。大振りの刃は、肉厚で堅牢な鍛造造りだ。そして、右手にはタウルス六八〇CPが。

「管理者(ホルダー)として、君に告げなければいけない。――俺は、君を〝抹殺〟しないといけない」

 右手が上から吊られたように撥ねる。狙いはワーウルフ。間髪を入れずに三発、頭部へと直撃。黒い体躯がヘビー級ボクサーのストレートを受けたように上半身を揺らした。そのまま残り五発を全て、撃ち込む。三五七マグナム弾の三分の二ダースだ。普通の人間なら、それも十にも満たない子供ならば、出血多量のショック死で三分以内に絶命する。

 だが、恢は目を見開く。ワーウルフが吠えた。その全身を戦慄かせながら総毛を逆立たせる。床へと、ポロポロと何かが落ちた。それは、潰れた弾丸だった。剛毛と強靭な筋肉の壁に阻まれ、三五七マグナム弾クラスでも、ほとんどダメージを与えられなかったのだ。

 恢が弾薬を装填するよりも早く、ワーウルフが剛腕を振るい、こちらへと突撃してくる。

 その速度、まさに迅雷。黒い砲弾か。恢は反射的に左手を振るった。刹那の後、手首から肘、そして肩へと鋭い衝撃が走った。正面から弾くのではなく、外側から腕を受け流すように刃を当てた。かつ、後方へと跳んで威力を殺して、なお残る力の重さに肝が冷える。

 身体能力の大幅な向上。そして、食欲の増進。これでは、ピザの出前を頼んでいる間にこちらの首へ噛み付かれるだろう。恢は二度、三度、深呼吸を繰り返す。

「君は、将来、何になれたのかな。サッカー選手かな。それとも、消防士、野球選手、料理人、手堅く公務員って手もあるな。……ああ、もう、全部が手遅れだ」

 こんな時でも、彼は自分の身に迫る危機よりも少年の不幸に嘆いた。恢は地面にナイフを捨てた。そろそろ、終わりにしなければいけなかったからだ。

距離を測りつつ、恢はタウルス六八〇CPの回転式弾倉をスイングアウトして空薬莢を排出する。上着の胸ポケットから引き抜いたのは一括装填用のスピードローダー。ただし、黒一色で統一されているはずの装填道具の持ち手だけが他のとは違う。まるで、区別を付けるかのように赤く塗られていたのだ。躊躇なく新しい弾薬を叩き込み、撃鉄を起こす。肺に溜まった空気を全て吐き出して二秒。人狼は目前まで迫っていた。

 標的の牙が届くよりも、腕が伸ばされるよりも、爪が振るわれるよりも、恢が引き金を絞る方が半秒、早かった。発砲音は、一発前よりも段違いに大きい。苛烈する閃光。特大のマズルフラッシュが花開く。大気を砕くのは、音速超過のシルバーチップ。人狼の首が後方へと弾かれる。そのままバランスを崩し、左胸へと立て続けに弾丸が放たれた。計五発、全てが直撃する。朦々と硝煙が銃口から溢れ出す。それは、線引きだった。お前と俺とでは、住む世界が違うと訴える〝拒絶〟だった。助けようとした少年を、今、彼が撃ったのだ。背中から、少年が倒れる。地面を転がる。四肢を投げ出して止まる。

 口腔からおびただしい量の血が溢れ出す。腹腔が上下し、か細い呼吸が何度か繰り返される。しかし、もう立ち上がらない。生命の灯火を、恢が刈り取ったからだ。

 ホットロード――発射薬を増量して威力を上げた特別製の弾薬。脳天を撃ち抜かれ、心臓に五発も三五七マグナム弾を埋め込まれた子供が生きられるはずがない。

 恢の顔が今にも泣き出しそうなほど歪む。仕事とはいえ、子供を撃った。きっと、この子に罪は何もない。攫われて、アウター・ギアの犠牲になった。それだけだ。

 突如、ワーウルフの身体が急速に縮まり、体毛が潮のように退いていく。三十秒後、床には全身を黒ではなく、鮮血の深紅で染めた〝子供〟の死体が転がっていた。

「…………ごめんな。俺が、助けないといけないのに。俺が、守らないといけないのに」

 管理者(ホルダー)の仕事はあくまでアウター・ギアの回収と保護、そして、起こってしまった事態の収拾だ。そこに、人道を尊重する意味合いはまるで含まれていない。事件を解決するためなら、喜んで標的を抹殺しなければいけないのだ。恢は右腕をだらりと下げたまま、固く目蓋を閉じた。僅かな黙祷を捧げ、部屋を出る。これで、今日の仕事は全て終わった。

後は、組合が派遣する事後処理の人員達に任せよう。ここにはもう、倒すべき命も、守るべき命もない。全員が、死んでしまったからだ。彼が得たものは何もない。胸に残る痛みだけを抱えて、恢はその場を後にしたのだった。





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