戦う描写④


                ①

 ミコトの視線の先に、標的の男が挑発的な笑みを浮かべて立っていた。歳は二十代前半、髪は茶色で、腰まで届いているが、手入れは全くされていない。浮浪者特有の薄汚れたぼさぼさ頭だった。所々穴の開いたズボンで上半身は裸。シャツもなにも着ておらず、筋骨隆々な肉体を惜し気もなく披露していた。

 秋が深まりつつあるロンドンの夜特有の冷気の中、厚い胸板を中心にして朦々と湯気がのぼっていた。まるで寒がっている様子はない。むしろ、寒さを屈服させているかのような威圧感があった。そんな男と対峙した少女は、羞恥よりも嫌悪感で顔をしかめた。光源がなくとも、目には男の指先まではっきりと映っている。

 男は逃げようとはしない。現在、互いの距離は十七、八ヤード。

 二人の持つ『手札』なら、次の瞬間になにがあっても不思議ではない。

「……そうか。あんたが、この街の掃除屋か。随分と呪具を溜めているみてえだが、それだけで俺に勝てるつもりか? 残念だが、今日の俺は機嫌が悪い。犯すには貧相な身体だしよ。すぐに喰ってやる」

「それは、残念ですね。出来るものなら、話し合いで終わらせたかったんだけど」

「き、ははははははは! それは無理な相談だ。第一、こんな俺を、お前は許してくれるっていうのかい? この中に入ってみるか? ちょうど五人だ。不味い部分は残してあるから、墓に埋める分ぐらいは残っているかもしれないぜ?」

 男の口元は、べったりと赤い液体で汚れていた。まるで、血の滴る生肉に大口を開けてかぶりついたかのように。口元だけではない。ズボンや上半身、髪にまで血がこびり付いていた。おぞましい血臭に、ミコトは鼻と口を手で覆った。

「カニバリズム――同族食らいとは、堕ちたものですね」

「そりゃあ、間違いだ。俺はもう、人間じゃないんでね!!」

 遠吠えが一つ。まるで、狼が敵を発見したかのように。

 そして、男の身体が変質した。全身から隈なく針金のような黒い剛毛を生やし、筋肉が爆発的に肥大していく。目はルビーを嵌めこんだかのように真っ赤へ。鼻が、耳が伸びる。骨格さえ根本から造りかえられていく。もはやそれは人間ではなかった。全長二ヤード二フィート以上の異形。飛びかかる寸前のように前傾姿勢となった半身半獣の化け物。ナイフの如き爪と、無数の鋭い牙を生やした恐ろしき姿。『ワーウルフ』こそ、男の真の姿だったのだ。

耳元まで裂けた口からよだれを垂らしながら、男がぐるぐると唸る。

細長く伸びた火のような舌が、ぺろりと下唇を舐めた。

 ミコトは表面上では冷静さを保つも、内心では心臓が破裂しそうだった。実戦経験はこれまで積んできたものの、未だに戦場の空気に慣れていないからだ。それでも、逃げるわけにはいかないと外套の裏に手を伸ばす。

「ライカンスロープの伝承を元にした術式ですか。偽伝の多さ故に真実となった珍しい魔法。月の見えない夜に変化するなんて無粋ですよね。生憎ですが、食べられるつもりなんて毛頭ありません。こちらも、参ります」

 少女が右手に抜いたのは刃渡りが一フィート程の短剣だった。木製の柄で、鈍い鼠色の刃。触れれば、斬れるよりも先に呪われそうな代物だ。それだけ、禍々しい冷気を漂わせていた。

 鋼鉄の処女という拷問器具が中世ヨーロッパで制作された。それは、金属製であり人型。側面にはロックがあり、扉のように開くと、幾百の針が顔を出す。内側に罪人を押し込め、乙女の抱擁と共に絶命させるのだ。ただし、実在したかどうか物議を醸している。近代での模造品が有っても、中世に有ったはずのオリジナルが現存していないのだ。

(それは、当然だろう。魔女狩りと評して無実の民や本物の魔法師を何千と殺してきた拷問器具。血と一緒に恨みと呪いをふんだんに吸ったコレを、私達が無視しないわけがないのだから)

 一言、武器の名前を告げる。かつての名前と、新しき名前を同時に。

「――魔女は死してなお怨嗟を燃やす(ソード・オブ・アイアン・メイデン)」

 憎悪の刃が確かに脈動した。ミコトが集約させた魔力が怨恨の記憶を揺り動かす。敵はここにいると、斬るべき獲物は目の前にいると囁く。

 少女が、短剣を握った右手を大きく真横に払った。同時に、金属同士の擦過が鼓膜に響く。ミコトの足なら、肉薄するのに二秒から三秒を要した距離を、ワ―ウルフは一瞬で突破し、首を断たんと剛腕を振り下ろしたのだ。防げたものの、腕が芯から痺れて次の攻撃に対処できない。

 それでも、少女は焦らずに体勢を整える。今度は左手が外套の内側からソレを引っ張った。

 同形の短剣だった。元が元の大きさだ。鋳潰し、再形成したのが一本だけなわけがない。双剣となった魔法師は、軽く腕を動かして調子を確かめる。

右は通常の握り方、左は逆手である。既存の流派に基づいた動きではない。歪だったそれを、鍛練の中で玉へと磨き上げたのだ。

 数が増えたところで形勢は変わらないと言外に嘲弄するかのごとく、ワーウルフの攻撃は止まらない。二つの腕、十の爪は小規模の嵐となっていた。その全てをミコトは受け流し、決定打を貰わない。舞いにも似た、流麗な体裁きだった。単純な暴力が相手なら、日頃の鍛練を欠かさずに行う少女に分があった。

「腕がイテえ」

 何十の攻防を重ねただろうか。男が腕を止めて後ろに二十ヤードも跳んだ。鋭利だった爪が、濃い塩水に浸かっていたナイフのように錆び付き、腐食していたのだ。

 それを見たミコトが、淡い微笑を零す。

「呪いの味。いかがでしょうか?」

 短剣に付加された能力は『腐敗の呪い』。処刑具のかつて。杭の埋め込まれた身体に蛆がわき、腐り落ちていく臭いが刃から染み出していくかのようだった。これこそ、短剣の真骨頂。

 触れただけで敵の生命を削り取る魔の刃。体内に循環する魔力で筋力を強化しようにも限度がある。少女には技術があっても腕力がなかった。この武器が作られた理由は、非力な魔女でも敵を相手にして確実に殺すためである。これぐらいの卑怯は目を瞑ってもらいたい。

 今度は、ミコトが先に動いた。地面を滑るような疾走から一閃、いや二閃。×印の軌道を描いた刃をワーウルフは上半身を地面と平行になるまで仰け反らせることで回避した。その反動を利用して少女の首を抉ろうとするも、硬質な音が一つ。また、刃に阻まれたのだ。このまま骨の芯まで侵し尽くせる。と、魔女が確信し、目を見開いた。

 ワーウルフが己の牙で己の爪を噛み砕いたのだ。十本の爪が、地面に突き立つ。

 すると、再び指から爪が生えた。数秒にも満たない光景に、ミコトは言葉を無くす。

「こうそく再生ダ。残念ダッタな。俺の術式をアマクミチャイケねえぜ?」

 優位に立っていたと勘違いした自分に憤りを覚えつつ、ミコトは体勢を整えようとする。男が袈裟切りに振るった爪を受け流そうとして、右手がふっと軽くなった。木製の柄だけが残った。背筋に直接、氷水を流しこまれたような悪寒が走る。

 呪いは無敵じゃない。恐らく、敵は爪を強化したのだろう。どちらも基点となるのは魔力だ。質であれ量であれ、優れた方が勝つ。

 男の身体を中心に旋回しつつ、ミコトは左手の一本だけで拮抗する。長続きはしないだろう。徐々にだが、刃が摩耗していく。少女の技は敵の攻撃が加速しきるよりも先にわざと当て、力を逆手にとり、受け流すという高等技術だ。

それをもってしても、数秒の稼ぎにしかならない。

 黒の爆風から弾かれるようにミコトが横に跳んだ。男が追撃とばかりに五爪の槍を突き出す。

 もし、女の武器が短剣だけなら、ここで殺されていただろう。そう、短剣だけなら。

左手に残った一本を投げつけ、ミコトは唱える。

「――森の歌をここに。聖なるドルイドの加護を」

 どす黒い魔力が霧散し、未開の森のごとく清涼な空気が場を満たす。一切合切を拒絶する鮮烈な魔力に、ワーウルフはミコトの動きを待った。

ミコトが腰に巻いている黒革のベルトは、アメリカの開拓時代に登場するようなガンマンが所有する、弾薬が一発一発縦一列に差し込まれている物と似ている。違うのは、差し込まれているのが弾薬ではなく木である点だ。形は円柱、長さは二インチ程で、いくつもの種類がある。

 このベルト自体にはなんら効果はない。ただ、幾つもの『武器』を携帯するためのベルトだ。

 少女は濃い赤みの木製弾丸を一つ手に取った。それはイチイと呼ばれる樹木の破片だ。種に毒を持つ赤く小さな果実を実らせるそれは耐久性に優れ、古代では武器の材料に多く採用された。弾丸の側面を一周するように彫られた文字はオガム文字――森の恩恵を受けて生きる古代ケルトの民が使用していた魔法の文字だ。

 意味はRuisとUath。赤と畏怖。導かれる魔法は当然の如く、攻撃用。

ただの木片に文字を刻んだにすぎないと侮る者がいるなら間違いだ。樹齢千五百年を超える〝神木〟の心材からさらに選別された、歴史の深奥を知る道具だ。長き月日を重ねた物はそれだけで魔力と感応し易い。それが、自然界に存在する物なら尚更だ。

「マッタク別系統の魔法ダト? オマエハいったい……」

「さあ、どうでしょう?」

 イチイの弾丸を親指で弾く。男へ向けて。凛とした声が詠唱を紡ぎ出す。

 木片に、数多の〝意味〟が付与される。

「汝はイチイ。すなわち、闘争を告げる槍である。されば、貫け!」

 木片が飛翔半ば、体積を増加させた。細く長く。荒々しき投槍となってワーウルフの心臓を狙う。古き時代の戦士がそうしたように。五指が寸前で叩き落とすも、一度だけではない。少女はベルトから次々とイチイの弾丸を掴み取り、撃つ、撃つ、撃つ。

 夜の闇を切り裂く槍が横雨となり、男へ飛来する。単純な物理エネルギーなら小銃の弾丸にも匹敵する魔弾だ。その内の一発が、ワーウルフの右肩に激突した。さしもの巨漢も大きく仰け反った。

 このまま仕留める。殺しはしないが、数ヵ月は指一本動かせなくなるまで痛めつける。と、ミコトは親指で弾丸を弾こうとして、男の胸筋がさらに膨れ上がった。単純に、大量の息を吸っただけだ。

それだけで、刺さったはずのイチイの槍が押し出された。胸には傷一つなかった。これも高速再生なのか。それとも、剛毛に守られ、刺さってすらいなかったのか。どちらにせよ、少女が顔を青ざめさせるには十分だった。

(ちょっと、冗談でしょ。あれが一個いくらすると思ってんのよ。わざわざドルイドの秘儀と古代ルーンをかけ合わせた自信作だったのに。ってか、あれ。あいつ、私が想像したよりも遥かに強いんだけど。……もしかして、変化した後の能力まで感知できなかったとか?)

 だらだらと額から嫌な汗が流れた。

 ワーウルフはミコトの気など知らず、爪と爪を交差させて舌舐めずりをする。

「これでオワリか?」

 喜悦に顔を歪ませる人狼を前に、ミコトはたじろいだ。

(ま、まずい。これってもしかしなくても大ピンチ!?)

 一度距離を取ろうと、ミコトが足を動かしかけ、先に行動された。ワーウルフの脚力は、こちらの行動など読み通りだとばかりに距離を一気に食いつくす。そして、既に右腕が振りかざされていた。このままでは、上半身と下半身がお別れするだろう。まだ死にたくなない。生への執着が、考えるよりも先に身体を動かした。中途半端に力が入っていた右足を強引に動かし、後方へ跳ぶ。足首への強い衝撃を対価に、安全地帯へ逃げる。

 そのとき、ワーウルフの爪が外套の下に着ていたローブへ僅かに引っ掛かった。紺色の布地が裂け、下半身が外気に晒される。

「きゃっ!?」

 素っ頓狂な声をあげてミコトは両手で下半身を隠す。人外の化け物と戦う魔女といえども、まだ少女。秘部を露出されれば、当然の反応とも言えよう。

だが、戦闘中としては悪手でしかない。両手が塞がってしまったミコトを殺さんと、ワーウルフがさらに追撃――しなかった。代わりに、その大きな口を、さらに大きく広げて呆然としていた。

「て、テメエ、まさか、いや、そんな、まさか、まてまて、そんな、まさか」

 言語が乱れ始めるワーウルフが、わなわなと身を震わしてようやく言った。


「お前、メスじゃなくて、オスだったのか?」


 ミコトの下半身に有ったのは、そこそこ立派な男根だった。きちんと皮は剥けていた。少女、いや少年は、魔女と名乗りながら性別を偽っている変態だった。いや、微妙に違うので訂正しよう。

ただの変態ではなく、真剣に性別を詐称しているの〝真正の変態〟だった。

「……わ、私だって、好きで女の恰好しているんじゃない! メイプル家の次期当主が男だって分かれば、難癖つけてくる頭の硬い奴らが何人いると思ってんの!? それに、これは大御婆様から無理矢理命令されてんの! 俺の趣味じゃねえ!!」

 聞くも涙、語るも涙。メイプル家の当主は代々、女性、つまりは魔女と決まっているのだ。だというのに、生まれたのは男の子。不幸な事に、母は彼が生まれて間もなく病気で亡くなってしまった。血を重んじるメイプル家は、なんとしても血の濃い者を当主にしたい。だが、派閥争いその他諸々でミコトを女として育てるのが最も安全だと判断されてしまったのだ。

 肖像画でしか見た事が無い前党首の母に会えるものなら言いたい。女の子の恰好をしてごめんなさいと。こんな変態で申し訳ありませんと。

 自分が掃除屋で、目の前に敵がいるというのに、ミコトは目に涙を浮かべて訴える。ワーウルフが、とんでもなく居心地悪そうに唸っていた。

「まあ、人生イロイロだから、ソノ、ガンバれ」

 ワーウルフに励まされ、ミコトは片膝をついた。それほど、精神的に深いダメージだった。悲しみは瞬時に怒りへ変換され、少年は右手を外套の内側に突っ込んだ。

「ぶっ飛ばすぞこの野郎!!」

 彼女。いや、彼の名前は。闇に身を投じる魔女である。……魔女なのだ。

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