酒を飲む描写②


 その店は、背が高いビルとビルの隙間にひっそりと立っている。長年、同じ道を利用していても簡単には気付けないほど、小さな店だ。恢が開けた扉に連動して真鍮の鈴が涼しげに鳴ったのは、夜も煮詰まる十一時過ぎだった。カウンターでグラスを拭いていた彼女が顔を上げ、こちらに首を曲げる。すると、眠たげだった表情が花のように綻んだ。

「あら、随分と遅かったじゃないの。とうとうしくじって死んじゃったかと思ったわ」

 薄暗い店内。全体をレトロなゴシック調に統一し、落ち着いた黒が映える。天井では音もなく三枚羽根のシーリングファンがゆっくりと回り、優しく大気へと静寂をとかすのだ。

 いくつかある丸いテーブルにも、カウンター席にも、客の姿は何一つない。恢はカウンター席、それも彼女の正面へと座った。上着を椅子にかけ、ほっと息を吐く。背筋を伸ばすと、先に首がバキバキと鳴った。拳銃も、ナイフも、その他の武器も全て上着に仕込んでいる。仕事の重さからようやく解放されたのだ。そんな彼を見て、店主は微苦笑を零す。

「随分と疲れているみたいじゃない。わざわざ寄らないで、すぐに帰った方がいいんじゃないの?」

 経営者失格風味の台詞を吐いた彼女の名はレミィ・レルプトン。バー《蒼い鳥》の店主にして恢の仕事を知っている理解者である。

 出会った時から年齢は二十代後半。身長は百七十センチ半ば。真夏の昼下がりを飾る陽光に、エキゾチックな香りを際立たせる菫の蜂蜜を溶かして梳いたような金色の髪は、癖一つなく真っ直ぐで、肩に触れる辺りで切り揃えられている。白いシェツを内側から押し上げる胸元の豊かさは、アルコール度数が高いカクテルにも負けない暴力性と魅力を孕んでいる。すらりと長い足を飾るのは黒いズボン。太股と御尻の部分が少々、窮屈そうだった。その肉付きの良さは、ずっと眺めていたくなるような魔力を放っているのだ。

 瞳は鮮烈なコバルトブルー。空の蒼よりも深く、濃い輝きを秘めている。肌は雪のように白く、唇をルージュの真紅で飾っている。その美しさ、艶やかさは、神の不平等さを証明していた。にくい女だ。もしも、これだけの美女を横に連れて街を歩き回れるのなら、一生自慢したって足らないだろう。ややハスキーかかった声が鼓膜を優しく擽るのだ。

「さあ、ご注文をどうぞ、お客さん。温めれば、料理もあるわよ」

「レミィに任せる。何か、今の俺に似合いそうなカクテルを一杯、作ってくれないか?」

 意地悪な注文だっただろうか。レミィは肩を竦め、グラスやらシェイカーを用意する。その手付きは流れるようで迷いはない。見ているだけでも、気分がよくなってくる。

 酒のボトルが二本ばかり用意され、銀色のシェイカーへと注がれる。耳元で振られる銀色の筒をぼんやりと眺める。唯一の客である恢は、レミィと出会ってもう五年になることに、ちょっとだけ驚いた。それだけ、いつの間にか長い時を刻んでいたのだ。

 甘く鈍い感傷に浸っているうちに、目の前にカクテルが注がれたグラスを置かれる。

「はい、出来上がり。貴方のお口に合うかしら?」

 カウンターに用意されたカクテルへ視線を落とし、恢は眉を顰めた。背が低く、太めの無骨なロックグラスに注がれた酒の色は、陽光に浴びせた琥珀とエメラルドの光を等分に注ぎ入れたかのような落ち着きのある柔らかな色だった。緑の波長に鮮やかな黄色が溶けている。透明な氷が数個ばかり浮かび、硝子の側面は薄っすらと結露している。ややあって、男は思い出したかのように僅かに目を見開き、喉奥を鳴らすように静かに笑ったのだ。

「……ウォッカ・アイスバーグか。神様に喧嘩を売った俺にニガヨモギとは、皮肉が効いているな。それとも、そんなにダウナー系が欲しそうな顔に見えるのか?」

 このカクテルは、小麦やライ麦などの穀物を原料にして蒸留させたウォッカをベースにし、アブサンと呼ばれる緑が美しい薬草系のリキュールを少量注ぐ。後者に使用される薬草は、ウニキョウやアニス、そしてニガヨモギ。古い時代の錬金術師が造り出したとされ、緑の妖精や緑の魔女とも揶揄される。また、ニガヨモギに含まれる主成分であるツヨォンには、麻薬であるマリファナにも似た向精神作用があるのだ。一時期は製造を禁止されていた時代背景を背負っている。もっとも、生の葉っぱを数キロも食べない限り、身体に害はないとされている。ただ、恢はグラスを直ぐに持たず、ぼんやりと波紋一つない水面を眺める。ニガヨモギには、とある花言葉がある。バーテンのレミィが静かに言った。

「不在を示す薬草が込められたリキュールを少々。さあ、その心は? その真意は?」

「此処にはない幸福を求める。存在しないと知っていても、確かに〝在る〟。そう知ってしまえば、探さずにはいられない。今日の俺が、小さな幸運に出会えたのは貴女のお陰だ」

 そう呟いて、ジンはようやくグラスを持った。ゆっくりと目蓋を閉じて一口。舌を刺激するのは、ウォッカの強烈でドライな味わい。丹念に蒸留しているからこそ、他の味に汚されず、辛味の中に角の取れたまろやかさを感じる。苦味はアルコールとニガヨモギの二重奏だ。極めつけに鼻孔を駆け抜けるのは、薬草特有の鮮烈な香り。氷の質が良いからだろう。香りが潰されず、舌から吸った温度を受け、軽やかに新たな変化を遂げるのだ。

 喉から食道、そして胃へと落ちる感触がはっきりと伝わってくる。戦いで火照った身体に、冷えたカクテルは最たる御馳走だろう。

「良い塩梅だ。度数も俺好み。……けど、ニガヨモギの花言葉には〝愛の離別〟って意味もあるよな。女が男に出すカクテルにしては、ちょいっと皮肉が効きすぎてないか?」

「そういう君は、ウォッカ・アイスバーグの〝カクテル言葉〟を知らないのかしら?」

 妖艶に微笑むレミィの言葉に、二口目を飲もうとした恢が手を止めて、目を丸くした。

「カクテル言葉? 確か、スクリュー・ドライバーなら油断。キール・ロワイヤルなら品格だったか。このカクテルにも、何か特別の意味が込められているのか?」

 すると、レミィは踵を返し、カウンターの奥にある厨房へと歩を進めてしまう。開けたドアに手をかけ、一度だけ足を止める。そして、こちらを振り返らずに言ったのだ。

「――もっと、自分を信じて」

 カクテルを飲んだ時よりも、余程に、目が覚めるような想いだった。レミィはきっと、笑っている。ただ、不思議と悪い気分ではない。むしろ、爽快ですらあったのだ。

「自分で言ったでしょう。探さずにはいられないって。なら、もっと貴方自身を信じなさい。そうすれば、きっと貴方の願いは叶うから。それぐらいには、お利口になりなさいね」

 レミィの後姿が厨房に消える。恢はカクテルを舐めるように飲み、苦く笑う。今日の仕事がどんな結末を迎えたのか、彼は一度も話していない。それでも、看破され、慰められてしまったのだ。一人の男として、ここまで情けないこともないだろう。ただ、美女に慰められるのなら、それも悪くないと考えてしまう自分がいる。ああ、なんと情けない。

「俺、いつかアイツよりも優位に立てることがあるのかな。……ないのかなー」

 尻に敷かれるようなイメージしか浮かばず、恢は静かにカクテルを飲み進めるのだった。

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