序章丸ごと


 


 その気配を感じ取り、ミコトは眉を潜めたのちに小さく嘆息した。フローレンスから『今日は早く帰って来なさいね。蜂蜜入りのホットミルクでも作って待っていますから』と言われていたのに、叶わなくなったからだ。見上げた夜空は厚いスモッグに覆われていて、星もろくに見えない。まるで、彼女の心中を象徴しているかのようだった。

「最近は静かになっていたと思ったのに……。あーあ。また怒られるよ」

 彼女の外見年齢は十五、六歳程度だろうか。身長はそれほど高くないものの、すらりと細めの身体である。髪は腰の半ば近くまで届くほど長く、頭の後ろで一本に纏めている。色は、橙色にも近い茶色だった。目鼻がきちんと整っていて、なかなかに可愛いが、格段の美貌というわけではない。紺色なローブの上に焦げ茶色の外套を纏っているという恰好を有りにしても、街の雑踏で探せば、似たような人間をいくらでも見付けられるだろう。ちなみに、生まれはイギリスの田舎町。育ちはここ、ロンドンである。

「まったく嫌になっちゃうよねー。こういうのって、サービス残業って言うのかな?」

 愚痴りつつ、ミコトは右手に持っている剥いた焼き栗を口の中に放り込んだ。僅かに残っていた皮の渋みと微かな甘さと香ばしさが合わさって、そこそこ美味い。夜食にと、十二個を一ペニーで買ったのだ。

 茹でると柔らかくなる栗は焼くと、しっとりとしながらも硬さは残る。言い方は悪くなるが、生煮えのジャガイモの食感に近い。

「いやー。旬な食べ物は胃に染みますなー。皮を取ろうとして爪の奥が汚れちゃうのが難点だけど」

 少女がいる場所はイーストエンド(移民や貧しい労働者の生活地区)の中でも更に治安が酷い貧困街である。場所はロンドンの中心地であるシティの東側で、デムズ川に近接している。貧しいと言っても、通りによっては何かしらの物が売られている。すぐ近くのホワイトチャペルへ行けば、娼婦を相手に熱い飲み物を売っている屋台が顔を出すことだろう。

 最後の一個を食べ終え、手についた食べ滓を払う。

「それじゃあ、まあ、行くとしますか」

 振り返り、ろくに補修もされていない、欠け放題の石畳へ視線を落とすと、餓死したであろう犬の死体が転がっていた。すでに腐敗が進み、蛆が無数に鷹っている。眼球は鼠かなにかに食われたのだろうか両方ともない。真っ暗な穴がこちらを恨みがましく睨んでいた。これが生後間もない赤子の死体である可能性はけっして低くない。

 通路は狭く、まるで迷路のように入り組んでいる。土地勘がない者が歩けば、五分と経たずに迷子になるだろう。ミコトは顔を上げ、辺りの住居を眺める。狭い土地を有効に使うため、二階、三階建てがほとんどだ。ただし、どれも一部屋用の貸家である。遠くには大きな安宿があった。どれも長年の月日で劣化した煉瓦や、強く押せば砕け散りそうなほど腐った木材製だ。

 夜中だというのに、どこからか喧騒が聞こえる。大方、酔っ払い同士の喧嘩だろう。犯罪など日常茶飯事なここでは、珍しくない光景だ。

「相変わらず、ここは混沌としているわね。……まあ、私はそれを馬鹿にして良い立場じゃないんだけど」

 今から十七年前、一八七三年に英国を不況が襲った。ドイツの経済恐慌のあおりを受けたのだ。長い時を経た現代でも改善を進んでおらず、職を失った労働者が多い。椅子に座っていれば金が勝手に湧いて出るような上級貴族様ではないミコトも、働かなければパンを稼げない身である。

 ロンドンの九月は時として真冬並みに冷える。今宵は比較的に温かい方だが、吐いた息は白く、手袋を忘れてきたのを彼女は後悔した。それとも、焼き栗の代わりに熱々のプティングかエンドウ豆のスープを食すべきだったかもしれない。

 月は工場や家で燃やした石炭ガスで霧のように包まれて滅多に見えない。通りに支柱を立てて設置されたガス灯の光があまりにも儚いせいか、いっそう薄気味悪い。ガス灯よりも遥かに明るいアーク灯が街の主流と成りつつあるのに、ここ等一帯はまだ取り換えが行われていないようだ。馭者と別れた場所が、ちょうど貧困街との境目だったのだ。

こんな場所に下水を処理する上等な設備などなく、周囲には悪臭が漂っていた。ミコトの足取りが早くなったのは、服に臭いが染み込まないようにするためだ。

 しかし、そんな努力は無意味だったのかもしれない。何故なら、彼女は散歩をしているわけではないのだから。ここは既に異界の地。人の世の理から外れつつある場所。

「……あれ、ちょっと遅かったかな」

 ミコトの右手には、一フィート(約三〇・四八センチ。約十二インチ分)程度の麻で作られた紐が握られていて、先端には水晶の逆三角錐が括られてあった。彼女は己の〝魔道具〟に魔力を通し、小さい声で呪文を紡ぐ。

「――汝、隠し立てをすることなかれ」

 命有る存在がもつ精気(オド)を媒介に喚起された自然エネルギー、通称・魔力(マナ)が水晶内で踊る。すると、スモッグの向こう側に隠れている月から光を譲って貰ったかのように淡い光が灯り出した。幻想的な光が逆三角錐の内に満たされると、まるで見えない糸に引っ張られるかのように水晶が浮く。これは、探索用の初歩的な魔法だ。そう、ミコトは魔女である。それも、これまで数多くの高名な魔女を生んできた誇り高きメイプル家の次期当代候補だ。

 そんな彼女の探し物はすぐに見付かった浮遊した水晶の先端が示している場所は、前方約二十ヤード(一ヤードは約九一・四四センチ。約三フィート分)先にある、とある建物だった。

 二階建てで、それほど大きくはない。ここが貧困区であることから察するに、元は一ペニー払って客を中へ入れるだけの安宿だろう。個別の部屋はなく、雨風をしのげるだけの機能しかない。もっとも、秋が深まれば夜の気温は零下にも及び、酒を飲まなければろくに眠れない。真冬ともなれば、ストーブが無ければ寝るのは自殺行為に等しい。このような安宿の別名は〝犯罪者の溜まり場〟であり、盗難品が取引される場合もある。

 看板はなく、外見は一階が煉瓦、二階が木造とアンバランスだった。所々に穴が開いていて老朽化が酷い。真正面から見れば三角であっただろう屋根の一部が、まるで巨人が座ろうとした拍子に尻で潰してしまったかのように崩れていた。これでは内側に風と雨が入り込み、荒れ放題だろう。煉瓦製の一階も、黴が繁殖し、蔦が無数に生えている。ゴロツキどころか、亡霊でも住んでいそうだ。

 もしかすると、その予想は間違っていないのかもしれない。ミコトの仕事柄、亡霊どころか、悪霊に精霊、召喚魔と、トラブルは枚挙に暇が無い。

 ミコトは、淀んだ空気を大きく吸い込み、声を張り上げた。

「そこにいるのは分かってるから、出て来てくれませんかー!」

 程なくして、男が一人建物の中から現れる。

「なんだ、テメエは?」

 胡乱な瞳の男へ、ミコトは堂々と告げる。


「掃除屋です」


 こんな季節には有り得ない、まるで人肌のような生温い風が一つ。

 水晶の振り子をローブのポケットにしまい、ミコトは微かに笑う。

彼女の夜が、魔法の時間が産声を上げた。




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