第一章

 土砂降りの雨が窓を打つ中、教室では授業が行われていた。

 黒板には凸レンズの断面図が描かれ、焦点や焦点距離といった言葉が並んでいる。

 その前に立って、教諭はガラスで出来た透明な三角柱を手に、光の波長について説明を始めた。

 そんな教室の中、窓側の一番後ろの席でぼんやりと外を眺めていた男子生徒に、隣の男子生徒が小さな声で話しかけた。

「なあ、あれ見たか?」

「あれって?」

 少し面倒臭そうな顔をしながら、前の生徒の背に隠れるようにして、窓側の生徒は隣へと顔を向けた。

「今、噂になってるネットのあれだよ」

「それだけじゃわかんねえって」

 窓側の生徒は教諭を気にしているようだったが、隣の生徒は大して気にした様子もなく、少し興奮気味に話しかけてくる。

「裸だよ。ハ・ダ・カ」

 そう言って、鼻の下を伸ばしながらにやにやと笑うその顔を「キモイやつだな」と思いつつ、窓側の生徒は取り敢えず話を続けた。

「無修正動画かなんかか?」

「いやいや、そっちも捨てがたいけど、今噂になってるのは裸婦像のことだよ」

 裸婦像という単語に、エロじゃないのかと窓側の生徒は少し残念に思った。

「まあまあ、そんな顔しないで最後まで聞けよ」

「あの美術館とかにあるやつだろ? 俺、芸術には興味ないんだ」

 そう言って、再び窓の外に目を向けようとする彼の腕を、隣の生徒が強引に引っ張る。

 窓側の生徒は「やめろよ」と言おうとしたが、その言葉が出てくることはなかった。

 その理由は二つ。

 一つは、隣の生徒が耳元で言った言葉。

「この学校の女子のでもか?」

 そして残りの一つは、二人の目の前に立つ教諭の姿だった。

              ◆

「ねえ、聞いた? 上瀬さんの噂」

 洗面台の前でリップクリームを塗りながら、長い髪をポニーテールにした女子生徒が口を開いた。

 その隣ではツインテールの女子生徒が、今まさに右目へコンタクトレンズをつけようとしていた。

 彼女は左の人差し指で上まぶたを開けて押さえると、右手の人差し指に小さなレンズをのせたまま、同じ右手の中指で下まぶた押さえる。

 そして、そのままレンズを目に近づけながら、

「聞いた、聞いた。ヌードがネットに流れてるんでしょ?」

 と普通に話を返した。

 一方、ポニーテールのほうは前髪を整えながら話を続ける。

「なんでもお父さんが画家で、そのモデルをやってるんだって」

「それで裸まで見せちゃうって……。自分の父親に裸とか、あり得ないんですけど」

「だよねー」

 それぞれの身だしなみを整えながら、二人は会話を続ける。

「そうそう、それ見つけたの美術部の男どもらしいよ」

「まったく男子って、いつまでたってもお子様よね」

 ツインテールがコンタクトレンズをつけ終わると、二人は話しながらトイレを出ていった。

              ◆

 廊下を、栗色の髪をボブカットにした女子生徒が歩いていた。

 彼女は俯いたまま、気持ち急ぐようにして次の教室へと向かっていた。

「ねえ、あの子じゃない?」

「え、あの子が?」

 そんな彼女を追うように、幾つもの声と視線が生まれては置き去りにされていく。

「いやらしー」

「目の前で脱いでくれねーかな?」

「むしろ服着てるほうがエロくね?」

「そう言われればそうかも」

 それらは、ざわめきとなって彼女――上瀬・愛にまとわりついて離れない。

 手にした教科書とノートを握りつぶすようにして、愛は耳を塞ぎたい衝動を抑えた。

 ある生徒は卑猥なものを見るように下卑た笑みを浮かべ、ある生徒は汚いものから目をそらすように蔑んだ表情を浮かべる。

(わたしは何も悪いことはしてない)

 同じ無機質な四角形が続く廊下のタイルを見ながら、愛は頭の中でそう繰り返した。

 しかし、廊下の長さが有限であるように、いつまでもそれは続かなかった。

 不意に廊下の模様が変わる。

 それが足だと気づいたときには遅かった。

「あっ」

「おっと」

 愛は尻餅をついて、自分がぶつかった声の主を見上げた。

 そこには唇と耳にピアスをつけた、いかにも柄の悪そうな白髪の青年が立っていた。

「いってーな」

 青年は制服を軽くはたきながら、愛を目だけで睨みつける。

 その視線を避けるように、愛は視線をさまよわせると俯いた。

 さっきまであったまとわりつくような視線はいつのまにか鳴りを潜め、廊下には自分を見下ろす刺すような視線だけが残されていた。

 押し寄せる孤独と高まる緊張に、頭の中が痺れたように重くなる。

「あ、あの……」

 それでも愛は状況を変えようと、おずおずと顔を上げると、上目づかいで青年の様子を窺った。

 すると、そこには先ほどとは打って変わって威圧感のない、楽しげな表情があった。

 相変わらずこちらを見下ろしてはいるが、それは睨むと言うよりものぞき込むもので、視線は顔ではなく、その下に向けられている。

(どこを見て……)

 そう思って男の視線をたどった愛は、

「ひあっ!」

 と短い声を上げると同時に、M字に開かれていた両足をぺたんと素早く閉じた。

「おー、すげえな。それ、あんたの隠し芸か?」

 耳まで真っ赤にして俯く愛を、青年は小馬鹿にしたような笑みを浮かべながら、舐めるように見回した。

「そうそう。芸と言えば、俺、あんたの芸をもう一つ知ってるぜ。そっちはもっと高尚なやつだけどな」

 今度は愉快そうに含み笑みを浮かべて、青年が顔を近づけてくる。

 その目つきは、気づけば獣じみたものに変わっていた。

「俺の芸術のためにも、人肌脱いでくれないかなー」

 息遣いを少し荒くしながら、青年が手を伸ばしてくる。

 蛙を追い詰めた蛇のように、ゆっくりと青年の手が愛の両肩に触れようとした。

「ひっ!」

 短い悲鳴が愛の口から漏れ、その体が小さくなる。

 しかし、それは萎縮と言うよりは準備体勢だった。

 愛は土下座をするように両手を床に押しつけて上半身を低くし、同時につま先を床に立てて固定する。そして、折り畳んだ全身を愛は一気に前へと解放した。

 風を起こしながら、愛の体が青年の横をすり抜ける。

 愛は前のめりのまま数歩を進むが、すぐに体勢を崩して床に体をこすりつけた。

 青年は振り向いて愛を見下ろすが、追うようなことはしなかった。

 その間に愛は体を起こすと、廊下を走って突き当たりの階段へと消えていく。

 床に残された教科書とノートに目をやり、青年は廊下の向こうへともう一度顔を向けて言った。

「面白い奴だな」

 青年は上を向いて体を震わせながら、何かをこらえるように手で顔を隠す。

 その口元には冷笑が浮かんでいた。

              ◆

「貴様は度し難いほどのバカだな! ファーストレディーという言葉を知らんのか!」

「はあ? おまえこそ、その意味本当に知ってんのか?」

 雨上がりの澄んだ空気の中を、それを引き裂くような怒鳴り声が響き渡る。

 雲間から差し込む穏やかな陽の光の下、黒い男女が道端でにらみ合っていた。

 男は長身で、黒いワイシャツに黒いデニムパンツ姿。無造作に伸ばされた髪は、少し赤みを帯びていた。

 女は艶のある長い黒髪を下ろし、頭には黒バラのついたカチューシャをのせていた。

 服は白いレースが印象的なフリフリの黒いワンピースで、同じく白いレースで縁取られた傘を差している。そして、黒い兎のぬいぐるみをショルダーバッグのように傍らに抱えていた。

 ぬいぐるみの兎は片方の耳が折れていて、もう片方は千切れてしまったのか、その付け根には小さなワインレッドのシルクハットがのせられていた。

 彼女は、その黒い傘の先端を男に向けながら、その胸元にも届かない身長を精一杯に伸ばして言い放つ。

「わらわを愚弄する気か? この低俗な下等生物が! 生きる価値もない無能なゴミくずの知識など要らぬわ!」

「おまえなあ!」

 男は女を睨みつけ、こめかみに青筋を浮かべて拳を握りしめる。

「ふん! 筋肉バカが! やはりその頭は飾り以下、無駄の象徴だったようだな!」

 鋭い傘の先端が太陽の光を反射してきらめく。

 男は拳を振るわせていたが、ふと力を抜いてうなだれると、つまらなそうな顔で道を先へと歩き始めた。

「待て貴様! だから、わらわの先を行くなと言っておろうが!」

「行きたきゃ勝手に行きやがれ」

 男は投げやりな口調で言いながら、さっさと歩みを進める。

「待て、貴様とわらわでは歩幅が違う……」

 女は男の後を追おうと片足を上げたが、すぐに思いとどまり、持ち上げたその足を勢いよく地面に叩きつけて言った。

「ふふふ、さすが無知にはわからなかったか。わらわを置いていくなど、貴様は鬼畜以下だな!」

 女の声が背後から聞こえるが、その距離は確実に広がっていった。

 女の表情は、男の背が遠ざかるにつれて平静から苦虫をかみつぶしたようなものへと変わっていく。

「だから待てと……。なあ、おい! 阿戸部!」

 名前を呼ばれた男は一瞬動きを止めそうになるが、頭を振ってその考えを追い出し歩き続ける。

「わ、わらわを……」

 女の声が急に小さくなる。

 それに釣られて男は耳を澄ませた。

 すると、女の声とは違う音が聞こえてくる。

 それは風を切るような高い音をまとって、唸るような低い音を響かせ近づいてくる。

「キリエ!」

 後ろを振り向いて阿戸部は走り出した。

 その視線の先には、黒服の少女へと向かってくる車の姿があった。

「え?」

 突然名前を呼ばれたキリエは驚き、駆け寄ってくる阿戸部を見てあたふたする。

 車とキリエの距離が縮まる。

「きゅ、急に乙女の名前を叫ぶなんて、あ、あんたは、やっぱり獣ね。で、でも、たまには……」

 車に気づいていない様子のキリエは、赤い顔を俯かせて体をくねらせている。

 車は、ぎりぎりキリエに触れないラインを走っているが、そのタイヤが描くライン上には青空を映す一つの水たまりがあった。

 阿戸部は地面を蹴り飛ばして体を前に加速する。

 車とキリエが横に並ぶ直前、阿戸部はぶつかるような勢いのままキリエを抱きしめる。

「なっ!」

 反射的に離れようとするキリエを力で押さえつけると、阿戸部はそのまま車からキリエをかばうようにして数歩を駆け抜けた。

 後ろでは、水の弾ける音と雨のような盛大に水の落ちる音が聞こえる。

 阿戸部は、徐々に小さくなる車のエンジン音を聞きながら、腕の中でもがいている黒い塊を見つめた。

「ちょ、ちょっと阿戸部、放しなさいよ!」

 しばらくその様子を見ていた阿戸部だったが、不意にキリエが力を抜いておとなしくなった。

「!!!」

 直後、阿戸部は小さな猛獣を檻から急いで解放すると、後方に飛び退いて距離をとった。

 キリエの手に握られた得物が光を放つ。しかしそれは傘ではなく、一振りの剣だった。

「おい、キリエ。落ち着け」

「高貴なわたしの体を無断で、だ、抱きしめるなんて……、あんたのようなエロ魔人は即刻一刀両断!」

 真っ赤な顔で焦点の定まらない瞳を向けてくるキリエに、阿戸部は冷や汗を浮かべながら話しかける。

「お、俺は、おまえがずぶ濡れにならないようにしただけだ。別に好き好んで、おまえのその特徴の乏しい体に触れたわけじゃない!」

「貴様、わらわの体をさんざん汚しておいて……」

 キリエは唇をかみ締めて俯くと、先ほどとは一転して冷たい声で言った。

 そして切っ先を阿戸部に向けたまま、黙って肩を震わせている。

 しかし、しばらくするとキリエは大きく息を吸い、剣を腰だめに構えた。

 その様子に、阿戸部は慌てて口を開く。

「いや、だから、おまえが濡れたら大変だろ?」

 その言葉に、キリエの力が緩んだような気がした。

 阿戸部は若干の安堵を覚えつつ話を進める。

「その、ひらひらした服の洗濯とか……」

 キリエの震えがぴたりと止まり、その顔が阿戸部のほうへと刺すように向けられる。

「泥水で顔を洗って出直してこい! この汚泥が!」

 罵声とともに、目尻に涙を浮かべながらキリエが踏み込んできた。

「なんでだよ!」

 自分の顔目掛けて爆音とともに迫り来る剣先を、阿戸部は体を回転させながらのけぞるようにかわす。

「避けるな! 木偶の坊風情が!」

「避けなきゃ痛いだろうが!」

 言葉を交わす間にキリエは次弾の構えをとる。

 そして、再び爆音が轟こうとした瞬間、それを遮るように女性の悲鳴が空に響いた。

              ◆

「おいおい、そんなに嫌がらなくてもいいだろ? 愛ちゃん?」

「そうそう、別に出来ないことを無理してやれって言ってんじゃないんだからさ」

 校舎裏の体育倉庫で、一人の女子生徒を六人の男達が取り囲んでいた。

 女子生徒はマットに腰を下ろして俯いている。そして、一人の男がその肩をつかんでいた。

 そんな中、閉じられた大きな扉の前にいた男が、外を気にしながら隣の男に話しかけた。

「なあ、さっきの悲鳴、外まで聞こえたんじゃね?」

「大丈夫だって、すぐに黙らせたし、今日は雨が降ってたから運動部はほとんど部活ないからさ。ちょっとくらい大きな音がしても誰も気にしないって」

「なにビビってんだよ」

 扉の前の男へと、別の男がからかうように言った。

「ビビってねえよ」

 扉の前にいた男は、そう言って自分を笑う視線から目をそらした。

 騒がしい後ろの様子に、女子生徒の肩をつかんでいた男は、後ろに視線を送って黙らせる。

 すると、その隣にいた男が女子生徒の前に一枚の紙を出して見せた。

「俺らは、これと同じことをしてくれって頼んでるだけなんだからさ。出来るでしょ?」

 紙には一枚の絵が印刷してある。

 それは少女の裸婦像だった。

「俺たちも芸術に興味があるんだよ。なんて言うの? この、青春はリビドーの爆発だ!みたいなやつ?」

 男達から下卑た笑いが漏れる。

 そんな笑いを否定するように、女子生徒はつかまれていたほうの肩を後ろに引いて、男の手を無理矢理引き離した。

 つられて揺れた栗色の髪からのぞく瞳は、肩をつかんでいた男ではなく影に隠れるように少し距離をとっていた男へと、なぜか一瞬向けられる。

 しかし、彼女はすぐに俯いて視線を外した。

「いやー、強気だねー」

 手持ち無沙汰になった手をひらひらと振りながら、肩をつかんでいた男は彼女を一瞥すると、彼女が一瞬向けた視線の先へと目を向ける。

 男達の視線も、それにつられて一点へと収束していく。

 それに応えるように、男は影から出ると冷笑を浮かべて、手にしたノートの歪んだ表紙を見ながら口を開いた。

「やっぱり、あんた面白いな。上瀬・愛」

 男の呼びかけに愛は何も答えない。

 声の男は、廊下で愛にぶつかった白髪の青年だった。

 白髪の青年は愛の前に来ると、目線を合わせるようにしゃがみ込んだ。

 そして、丸めたノートの先端を愛の顎に押し当て、無理矢理顔を上げさせる。

 愛は苦しそうにしながらも顔を背けるが、その動きで差し出されるようにあらわになった耳へと、青年は口を近づけて言った。

「あんた、俺の女になれ」

 そして、そのまま愛の耳全体を下から上へと、息を吐きながらゆっくりと舐め上げた。

「ひっ!」

 愛の体が身震いして硬直する。

 静まり返る体育倉庫の中で、男達の生唾を飲み込む音がやけに生々しく聞こえる。

 一気に湿度を増した空気が体にまとわりつき、愛は息苦しさを覚えた。

 ほとんど動きのない空間の中で、心臓だけが破裂しそうな勢いで鼓動を打ち鳴らし続けている。

 その音にめまいを起こしそうになったとき、愛はノートの落ちる軽い音を聞いた。

 意識を青年に戻せば、彼は自分の耳に口を寄せたまま大きく鼻で息を吸い、そして、そのまま首筋へとゆっくり息を吐き出した。

 ノートを失った彼の手が、代わりを求めるように自分の胸元へと指先を伸ばしてくる。

 愛は息を詰めて、現実から目をそらすように目を閉じることしか出来なかった。

 ブラウスのボタンに青年の指がかかる。

 しかし、それを遮るように扉の向こうから声が聞こえてきた。

『バカか貴様は!』

 倉庫内の空気が変わる。

『なんだよ。壊すんなら一緒だろ?』

『一緒なものか! この愚か者が!』

 女の怒鳴り声がしたかと思うと、何かを叩きつけるような鈍い音が聞こえる。

 そして、男の呻き声がそれに続いた。

 青年以外の体育倉庫にいた男達が、互いに視線を交わす。

『まったく。中の娘まで吹き飛ばすつもりか?』

 呆れるような女の声に、視線を交わしていた男達は頷き合って扉のほうへと身構えた。

 すると、一瞬男達を耳鳴りが襲った。

 思わず耳を押さえる男達の前で、扉は表面に光の直線を幾筋か浮かべると、大きな音を立てて崩れ落ちる。

 そして現れたのは黒い傘を差した黒服の少女と、うずくまってすねをさする黒ずくめの男だった。

「な、なんだてめえ!」

「いててて……。それはこっちのセリフだな」

 隠しきれない動揺とともに怒鳴りつけてきた男子生徒に、うずくまっていた黒ずくめの男は立ちあたりながらそう言った。

 そして、男子生徒に不敵な笑みを向けながら問い掛ける。

《おまえは誰だ?》

 男の声と視線が男子生徒を直撃する。その直後、男子生徒は急に痙攣し始めた。

「おい!」

 隣の男子生徒が、その様子を見て彼に手を伸ばそうとする。

 しかし、その手を擦り抜けるように、痙攣していた男子生徒は力なく崩れ落ちた。

 地面に倒れた男子生徒は、痙攣したまま泡を吹いている。

「もろい奴だな」 つまらなさそうにつぶやく男に、女が傘の下でため息をつきながら言った。

「阿戸部、貴様の頭は本当にニワトリ以下だな」

「なんだよ、キリエ。女以外は壊していいんだろ?」

「手加減も出来ない筋肉バカが! 人格まで壊していいわけあるか!」

 そう言った女――キリエのかかとが男のつま先に落下する。

 声にならない悲鳴を上げて、男――阿戸部は再びうずくまった。

 阿戸部を無視して、キリエは男子生徒よりも低い身長を気にすることなく胸を張って見下ろすような視線を男子生徒に投げつける。

 そして一通り見渡すと、口の端を上げて鼻で笑った。

 呆然としていた男子生徒の一人が、我に返って怒りをあらわにする。

「こ、こいつらなめやがって……」

 ほかの男子生徒達も、奇妙な黒い二人組を睨みつけて身構えた。

「やっちまえ!」

 誰ともなく発せられた、その声を合図に乱闘が始まった。

 まずは、二人の男子生徒が阿戸部に殴りかかる。

 阿戸部は楽しそうな笑みを浮かべると、

「いいね。もっと俺に教えてくれよ……」

 そう言って、向かってくる二つの拳に自分の拳を向かわせる。

「おまえらのことを!」

 そして、二組の拳がぶつかり合う。

 鈍い音とともに男子生徒の拳がひしゃげ、それでも勢いで押し返してくる拳を、阿戸部は拳を引いて迎え入れた。

 その間を擦り抜けるようにして、阿戸部は続いて迫り来る二つの体へと一発ずつ拳を叩きつけ、そのまま二人の男性生徒の体を持ち上げる。

 男子生徒二人は、阿戸部の拳の上で体をくの字に曲げたまま意識を失っていた。

「六二キロに七十キロって感じか?」

 阿戸部は両腕を天秤のように上下させながら言うと、二人を地面へと投げ捨てる。

「さあ、君たちも俺と楽しくおしゃべりしようぜ」

 青ざめた表情の男子生徒三人を見ながら、阿戸部は軽くステップを刻む。

 男子生徒達は構えを見せるものの、中々踏み込んでこようとはしなかった。

「まったく、最近の若者はシャイな奴が多くて困るな」

 阿戸部は、その場で軽くジャンプしながら残念そうに首を横に振る。

「まあ、俺は関係なく話しかけるけどな!」

 鋭い目を向けながらそう言うと、阿戸部は勢いよく三人へと跳びかかった。

 そして開始から五分もせず、乱闘は乱闘になることなく一方的に終了した。

              ◆

「なあ、起きろよ。まだ、話し足りないん、だ・け・ど!」

 阿戸部が、倒れている男子生徒達に容赦なく蹴りを入れている。

「…………」

 その様子を黙ってキリエは見ていたが、体育倉庫のほうに目を向けると、骨の潰れる音と悲鳴を後にして歩き出した。

 扉をなくした倉庫の中には、一人の女子生徒がいる。

 扉の手前で歩みを止めると、キリエは女子生徒に話しかけた。

「貴様、大丈夫か?」

 女子生徒はこちらに目を向けたが、それ以上は動かない。

 衣服に目をやれば、胸元のボタンが一つ外れているだけで、それ以外に乱暴されたような形跡はなかった。

「その女、大丈夫か?」

 背後から阿戸部が話しかけてくる。

 その視線は、キリエではなく女子生徒に向けられていた。

 キリエも女子生徒を見たまま、阿戸部に質問を返した。

「楽しいおしゃべりはもういいのか?」

「ん? ああ。これ以上聞いても無駄みたいだから、もういいや。それより……」

 阿戸部は女子生徒を指さしてキリエに言った。

「あいつと話しちゃダメか」

「まあ、待て」

 短く言うと、キリエは扉の残骸を乗り越えて中へと入っていく。

 女子生徒の前に来ると、キリエはしゃがんで彼女の頬に手を差し伸べた。

「嫌!」

 とっさにキリエの手を払いのける女子生徒を、キリエは動じることなく見つめる。

 すると女子生徒は、ゆっくりとキリエのほうに視線を合わせた。

「安心しろ。貴様は、もう大丈夫だ」

 そう言ってキリエは、女子生徒の手を握りしめた。

 女子生徒の固まった表情が、ゆっくりと徐々に歪んでいく。

「大丈夫だ」

 繰り返される言葉に、女子生徒はキリエに抱きついた。

 その目からは安堵の涙が溢れ、こらえていた恐怖は口からこぼれ落ちていった。

              ◆

「貴様、落ち着いたか?」

 背中をさすりながら、キリエが女子生徒に話しかける。

 彼女は小さく頷くと、キリエから体を離して顔を上げた。

 目の前にいる黒服の小さな女の子を泣き腫らした目で見つめると、女子生徒はぎこちない笑みを浮かべた。

「な、なんだいきなり? わらわの顔に何かついておるのか?」

 顔をほのかに赤く染めて言うキリエに、女子生徒は笑顔のまま首を横に振る。

「なら、良いが……」

 キリエは一度せき払いをすると、自分の胸に手を当てて、女子生徒の目をまっすぐに見て言った。

「わらわはキリエ。キリエ・ローレンツという。貴様、名は何という」

「上瀬」

 小さな声だったが、女子生徒ははっきりと答えた。

「下の名は?」

「愛です」

「ふむ、上瀬・愛か」

 腕を組んで頷く小さな女王様に、愛はくすりと笑って微笑んだ。

「おい、なんか楽しそうだな」

 しかし、そう言ってやって来た影に、愛は表情を消してしまう。

 キリエはため息とともに立ち上がると、声の主へと振り返り、手にした傘の先を突きつけながら怒鳴りつけた。

「貴様は待ても出来んのか! この犬以下のナメクジが!」

 大きな影に立ち向かうキリエの小さな騎士のような背中に、愛は昔母に読んでもらった童話を思い出して、懐かしい温かな気持ちを感じていた。

「へいへい、わかりましたよ」

 そう言って阿戸部はキリエ達に背を向けた。

 キリエはその背を傘でつついて遠ざけると、愛のほうへと振り向いて言う。

「上瀬・愛。わらわと、場所を変えてもう少し話さぬか?」

 そのとき、学校全体に最終下校時刻を告げるチャイムの音が鳴り響いた。

 その音を聞いた愛は、何か思い出したのか突然立ち上がると、

「ごめんなさい!」

 そう言ってキリエに頭を下げ、そのまま彼女の横を駆け抜けていく。

「なあ、追っていいか?」

 呆然と立ち尽くすキリエに、遠ざかる愛の背中を見ながら阿戸部は言った。

 しかし彼女は振り向きもせず、小さな声で「ははは、わらわの誘いを断るなど……。ありえん。そうか、これは夢に違いない」と引きつった笑みを浮かべていた。

 そのとき、体育倉庫の中へと風が舞い込んだ。

 そして、キリエの視界の隅で何かが舞うように動く。

 それに目を向けるとキリエは表情を厳しいものに変え、一歩を踏み出そうとする阿戸部の肩に傘の先を乗せて言った。

「ナメクジは黙ってここにおれ」

 キリエの視線の先には、マット上に残された一枚の絵があった。

              ◆

「貴様ら、さっさと起きんか」

 校舎裏で川の字に並べられた五人の男子生徒の頭を、キリエが閉じた傘の先で軽く叩いていく。

 叩かれた男子生徒は、呻きながらも目を覚ました。

「ん? 俺……」

 起き上がろうとした男子生徒が、しかし苦痛に顔をしかめて起き上がるのを諦める。

「無理して起きんほうが良いぞ。まだ仮止めみたいなものだからな」

 全員が目を覚ましたのを確認して、キリエは真ん中の生徒の頭上へと移動した。

 そして、そこから数歩下がると彼らに問い掛ける。

「貴様らがあそこに連れ込んでいた、あの娘。たしか上瀬・愛と言ったか。あの者のことについて聞きたいことがある」

「けっ、お子ちゃまに何を話せって? おとぎ話でも読んでほしけりゃ、ママに頼みな」

 五人の内、キリエから見て左から二番目の男子生徒が、動かない体のまま強気に言った。

 キリエは彼のほうに視線だけを向けると、傘をゆっくりと振り上げる。

「ははは。そんなお子様用のおもちゃみたいな傘で……」

 そこまで言って、男子生徒は傘の先が鋭く陽光に輝くのを見た。

 キリエは無表情に、傘を彼の眼前へと勢いよく振り下ろす。

「ひっ!」

 思わず男子生徒は目を閉じるが、何も起きないことに恐る恐るまぶたを開けた。

 すると、何か銀色に光るものが目の前にあった。

 その先端は鋭く、眼球すれすれの位置でぴたりと静止している。

 キリエの左手には、傘ではなく剣が握られていた。

 剣の切っ先を男子生徒に向けたまま、キリエは剣と同等かそれ以上の鋭さで彼を睨みつけた。

 男子生徒は、とっさに視線を避けようと顔を動かそうとする。しかし、首に走る痛みがそれの邪魔をした。

「下手に動けなくてよかったな。動いてたら死んでたぞ」

 キリエの背後にいた阿戸部が、笑みを浮かべながら楽しげに言ってきた。

 男子生徒の首筋を吹き出た汗が流れ落ちる。

「あのバカの言うことは信用するな。死んだりはせん。ただ人様のために従順に働く下僕になるだけだ」

 そう言って不気味に笑うキリエに、男子生徒達は既に生きた心地がしなかった。

 その後の問い掛けに、男子生徒達は従順に答えた。

 上瀬・愛は一人っ子で、特に目立つようなこともない普通の生徒だったらしい。

 ただ、母親が一年前に自殺していて、そのときには多少の注目を集めた。

 しかし、それも一時的なもので、しばらくすると愛のことを気にする生徒はほとんどいなくなったという。

 ところが一ヶ月前、一枚の裸婦像が学校中で噂になると、愛を取り巻く環境が一変する。

 それは愛の父親――上瀬・登が描いた裸婦像だった。

 父親が画家であることは母親の自殺をきっかけに知る者は多く、父親自身も自分の作品をインターネットで公開していて、その中にも裸婦像は何点かあった。

 だから、それがほかの物と同じ「名も知らない」女性の裸婦像であったなら、噂にもならなかっただろう。それが、自分の学校にいる生徒の誰かでなかったのなら。

 それから愛は、学校中の注目の的となった。

 裸婦像のコピーは大量に出回り、男子生徒の多くからは好奇の目が向けられ、女子生徒の多くからは軽蔑の目が向けられた。

 そして、向けていたその視線を、より具体的な行動で表す生徒が徐々に現れ始めた。

 学校側は対策を講じようとしたが、父親が芸術と言っているものを卑猥なものだとは言えず、ほとんど野放しの状態が続いていた。

 そんな状態でも愛は、母親が自殺したときもそうしたように、決して学校を休むことはしなかった。

「わらわの誘いを断るだけのことはあるようだな」

 キリエは、学校を後にしながら一人つぶやいた。

 隣では、阿戸部が「ほかの奴とも話したかったな」と学校を見ながら言っている。

 男子生徒達は結局あのまま置いてきたが、暗くなる前には動けるようになるだろうと、キリエは最近の若者を信じてみることにした。

 ただ、一つだけ気になることがキリエにはあった。

 キリエは黒兎のぬいぐるみを手前に寄せると、そのお腹にズブリと手を差し込んだ。

 そして、中をかき回すように手で探ると、そこから四つ折りの紙を一つ取り出す。

 それを静かに広げると、そこには愛の裸婦像が描かれていた。

 しかし、キリエはそれではなく、紙の上にある細い糸のようなものを見つめていた。

 それは、一本の白髪だった。

「なあ」

 斜め後ろを歩く阿戸部の声に、キリエは紙を折り畳んで黒兎の腹にしまうと、言葉を返した。

「なんだ? さっさと言ってみろ」

「良かったのか? あんなに力を見せびらかして」

 やはり阿戸部はバカだなと思いつつ、キリエは手にした傘で夕日を指しながら言った。

「手品は、ガキを喜ばすためにあるものであろうが」

              ◆

 爽やかに晴れた朝の日差しの中を、学生達が歩いてくる。

 すぐ横の校門へ次々に入っていく若者の流れを見ながら、阿戸部はあくびをかみ殺した。

「少し寒くないか?」

「貴様の自覚の無さはスフィンクスキャット以下だな」

 開いた傘の下で、キリエは缶カフェオレを両手で握りしめながら答える。

 阿戸部は両腕をさすりながら、「スフィンクス? 砂漠?」と疑問符を浮かべていた。

「ねえ、あの人、ちょっと格好良くない?」

「誰か待ってるのかな?」

「あの子の服、かわいー。お人形みたい」

 時折、学生達――特に女子がこちらを見ては何やら小声で話をしていたが、キリエは気にすることなく傘の下から学生達を見ていた。

「わらわを待たせるとは、いい度胸だな」

 含み笑いを浮かべるキリエに、阿戸部はため息をついて言った。

「だから、別にこんな朝っぱらじゃなくても……」

「黙れバカ」

 阿戸部のつま先をかかとで踏みつぶしながら、キリエは学生達の流れを遡るようにして、校門からその先へと上瀬・愛の姿を探す。

 すると学生達の流れの横を、速度の違うものが走ってきた。

 それは一台の自転車だった。

 通りの向こうから近づいてくる自転車に、キリエは眉根を寄せると手にした傘を目深にかざした。

 自転車は、阿戸部の前で甲高いブレーキ音を立てながら止まる。

 そして、乗っていた男は自転車から降りると阿戸部に話しかけてきた。

「ちょっと君、ここで何をしているのかね?」

 それは水色のシャツに紺色の防刃ベストを着た警官だった。

「最近、ここら辺で暴行事件が多発していてね。目撃証言によると、黒い服を着た二人組ということなんだが……」

 そう言って警官は、阿戸部を上から下まで疑わしげな眼差しで見回す。

 その様子に、学生達は歩く速度を緩めて視線を向けてくる。

 阿戸部は、警官が何を言いたいのかよくわからない様子だったが、取り敢えず質問には答えた。

「俺は、ここで人を待ってるだけだ」 淡々と言う阿戸部に、想像していたリアクションと違ったのか、警官は少し驚きながらも笑顔を向けて尋ねてきた。

「誰を待っているのかね?」

 しかし、その目は笑っていない。

「誰って……。誰だっけ?」

 いきなり話を振られた傘は、驚いたように一瞬動いた。

 しかし、それだけで傘は沈黙を保ったまま佇んでいる。

「おい、聞いてんのか? 誰を待ってるのかって、このおっさんが聞いてるぞ」

 阿戸部は強めの声で言うが、傘が反応することはなかった。

 それを見て、警官は眉をひそめる。

「君、本当に人を待って……」

 そう言いながら、警官は阿戸部の肩に手を伸ばそうとした。

 すると、それに合わせるようにして、両腕をさすっていた阿戸部の手が音もなく静かに下ろされ、阿戸部の口元に微かな歪みが生まれた。

 警官は、そのことに気づくことなく手を伸ばしてくる。

 阿戸部の肩に警官の手が触れようとしたそのとき、それまで沈黙していた傘が大きく動いて音を立てた。

「ね、ねえ、お父さん。お姉ちゃん、まだかな?」

 傘の下から可愛らしい声とともに、駄々をこねる子供のような表情で、キリエが阿戸部を見上げてくる。

 それを見た瞬間、阿戸部は露骨に怪訝そうな表情を浮かべて彼女に聞き返す。

「は? なに? その気持ちの悪い声」

 キリエは少しこめかみをひくつかせつつも、今度は阿戸部のデニムパンツを引っ張りながら可愛らしく頬を膨らませて話を続けた。

「何って、お姉ちゃんだよ。忘れ物届けに来たんでしょ? もー、お父さんしっかりしてよー」

 そして、眉間に小さな皺を寄せながら唇をとがらせてみせた。

 それを見た阿戸部は、青ざめた顔で引き気味に言った。

「うわ、マジで気持ち悪いんですけど。おまえ、何かおかしなものでも食べたか?」

 警官と学生達の注目が集まる中、怯えるような表情を向ける阿戸部に、キリエは俯いて再び黙り込んだ。

 よく見ると、その肩は小さく震えている。

「あのー、キリエさーん」

 阿戸部は、キリエに向かって小さな声で呼びかけてみた。

 すると、彼女の肩の震えがぴたりと止まる。

 そして、小さな声が聞こえた。

「貴様は……」

「ん?」

 阿戸部が声をよく聞こうと、かがんでキリエの顔に耳を近づける。

 そして次に阿戸部が聞いたのは、聞き慣れたキリエの怒鳴り声だった。

「寒いとか言うくせに空気も読めんのかあああああ!」

 阿戸部の耳に、直接キリエの怒声が叩き込まれる。

 しかし、キリエはそれで終わらない。

 傘を素早く畳むとその柄を逆手に持ち、自分の顔の高さまで下がっていた阿戸部の顎を思いきり下から、すくい上げるような動きで打ち上げた。

 阿戸部の背が一瞬で直立し、さらにはかかとが数ミリ浮き上がる。

 突然起きたその光景に、警官だけでなく周りで見ていた生徒達も目を丸くした。

「ここは戦術的撤退だ! 行くぞ!」

 唖然とする周囲を尻目に、キリエは一目散に走り出した。

 遠ざかるキリエの背を見ながら、阿戸部は顎をさすりつつつぶやく。

「なんなんだよ。一体」

 すると、遠くのほうでキリエがこちらを振り向いて何かを怒鳴り始めた。

 阿戸部は返事代わりに軽く手を上げると、キリエのほうへ歩き出そうと一歩を踏み出す。

「ま、待ちたまえ!」

 警官はそう言うと、背を向ける阿戸部の肩を力強くつかんだ。

 その瞬間、なにやら慌てた様子で自分に手を伸ばすキリエの姿を見ながら、阿戸部は呼吸をするかのごとく無意識にしゃがみ込んで言った。

「だから……」 突然つかんだはずの感触を失った警官は、その声につられて下を向こうとする。

 しかし、それは下から来た衝撃によって押し返された。

「なんだ、よっ!」

 そう言って、阿戸部はキリエのほうを見ながら警官の顎を掌底で打ち上げた。

              ◆

「まったく、貴様のせいで追われる身になってしまったではないか!」

 キリエは通りの角から顔をのぞかせて、その先の様子を窺いながらぼやいた。

「そうなのか? 俺は挨拶しただけだぞ?」

「貴様の挨拶はしゃれにならん」

 後ろであくびをしている阿戸部にそう言いながら、キリエは警官がいないことを確認すると歩みを進めた。

 気絶した警官は、取り敢えず自転車の横に寝かせておいたが、気の早い学生が通報したらしく、すぐに別の警官がやって来て、あっという間に学校周辺は警官だらけになってしまった。

「しかし、あの警官も不運であったな。時間さえあれば、わらわが嫌なことは全て忘れさせてやったのだが……」

 不気味な笑みを浮かべながら、キリエは意味ありげに含み笑いをした。

 すると、そんなキリエに向かって目の前から制服姿の男子が走ってきた。

「やべえ! 間にあわねえ!」

 そう言って向かってくる男子を指さして、キリエは軽く阿戸部に言った。

「阿戸部、あいつにちょっと挨拶してこい」

 その言葉に、眠そうにしていた阿戸部の表情が変わる。

「い、いいのか?」

 嬉しそうに聞き返す阿戸部に、キリエは男子生徒のほうへと傘を突きつけながら言った。

「貴様はチキンか! さっさと行け!」

「おう!」

 元気な返事とともに阿戸部が男子生徒に突撃する。

 そして、その結果として男子生徒は軽く五メートルほど吹き飛んだ。

「なあ、こいつ挨拶も出来ないぞ」

 大の字で気絶している男子生徒を指でつつきながら、阿戸部がキリエを見上げて言う。

「最近の若者は躾がなっていないからな」

 そう言いながらキリエは、近くの塀に男子生徒をもたせかけるように阿戸部へと指示を出した。

 塀に背中を預けてぐったりしている男子生徒の額に、キリエは人差し指を当てて顔を持ち上げると声をかけた。

「おーい。貴様、起きておるか?」

 返事はない。

「仕方がないな」

 キリエは人差し指で顔を固定したまま、足を肩幅より少し広めに開くと少し腰を落とした。

 そして、空いたほうの手を男子生徒の頬に当てて位置を確かめると、短く「ハッ」と息を吐いて猛烈な往復ビンタを始めた。

 頬を打つ平手の連続音が、岩を打撃する削岩機のように鳴り響く。

 そして、男子生徒の頬が熟した桃のように赤みを帯びた頃になって、彼はゆっくりと目を覚ました。

「あぇ? おぇ……、いつっ!」

 痛みに表情を歪める彼の顔を両手で挟みながら、キリエは質問を始めた。

「貴様、上瀬・愛は知っておるか?」

「かみへ、はい?」

 いきなり目の前に現れた少女に質問され、男子生徒はわけのわからない頬の熱さと口の中の痛みに疑問を抱きながら、問われた名前をただ繰り返した。

「そうだ。貴様と同じ高校の生徒だ」

 冷たい瞳で淡々と言う少女に、男子生徒は少し上に視線を向けて考えていたが、何かを思い出したのか「ああ」と言葉を漏らした。

「彼女の家を知っておるか?」

「ひってる」

 男子生徒の返事に、キリエは両手を離すと黒兎の腹から紙とペンを取り出した。

 そして、頬をさすりながら不思議そうな視線をこちらに向けてくる男子生徒に、それらを渡して言った。

「これに学校から上瀬・愛の家までの地図を描け」

「へ?」

 理解の追いつかない男子生徒に、キリエは両手で頬を挟むようなジェスチャーをしながら睨みつけて言った。

「こ・れ・に、学校から上瀬・愛の家までの、地・図・を・描・け!」

 男子生徒は頬を押さえてコクコクと頷くと、キリエからペンと紙を受け取って地図を描き始めた。

 そして描き上がった地図を見て、キリエは満足そうに頷いた。

「貴様、なかなか絵がうまいな」

「ひょ、ひょうも」

 男子生徒が苦笑いを浮かべながら礼を言う。

「では、褒美を授けよう」

 そう言ってキリエは黒兎の腹に地図をしまうと、その中から小さな包装紙にくるまれたものを取り出した。

「ほれ。口を開けろ」

 キリエは包装紙を開けて、真っ白なビー玉のようなものをつまんで男子生徒へと差し出す。

 一瞬悩む男子生徒だったが、キリエの「わらわの褒美が受け取れんのか」という視線に大人しく口を開けると、放り込まれたそれを口の中で転がし始めた。

 それを確認したキリエは、もう男子生徒に興味はないというように横を向きながら言った。

「鎮痛剤だ。しばらく舐めておれ。直に今起きたことも忘れる」

 既にうつらうつらし始めた男子生徒を置いて、キリエはさっさと歩き出す。

「女って、こえー」

 阿戸部は、塀にもたれて眠る男子生徒と先を行くキリエを見て、そう独りごちた。

              ◆

 喫茶店で早めの夕食をとりながら、キリエは窓の向こうに見える家に視線を向けていた。

 いわゆる閑静な住宅街の中に、白い直方体をずらして重ねたようなシンプルながらも印象的な家がある。

 その二階部分は一面が鏡のようになっていて、暗くなりつつある空模様を映していた。

「なあ、帰ってきたか?」

 食器の音をさせながら阿戸部が聞いてくるが、キリエは黙って家を見ていた。

 麺をすするような音とともに、爽やかなトマトの香りと挽き肉やタマネギの甘い匂いが漂ってくる。

 キリエは自分のお腹に手をやって、ゆっくりと息を吐いた。

「なあ、キリエ。さっさと食って、カミなんとかの家に行こうぜ」

「上瀬・愛だ。相変わらず貴様の記憶は……」

 ため息をついて、その続きを言おうとしたキリエだったが、次に音を発したのは口ではなく彼女の小さなお腹だった。

「!?」

 どこか動物の鳴き声を思わせる可愛らしい音に、キリエの顔が一瞬で赤くなる。

 阿戸部は、フォークに巻いていたミートソーススパゲティを口に放り込むと、何もなくなったフォークでキリエを指しながら言った。

「だから、さっさと食えって、その……」

 そして今度は、キリエの前に置かれたプレートを指しながら続きを口にする。

「お子様ランチ」

 キリエは、横目で小さな旗の立ったチキンライスを見るが、すぐに外へと視線を戻した。

「なぜ、このわらわがお子様ランチなどという、ままごとのようなものを……」

 偉そうに言うキリエだったが、それを否定するようにお腹は可愛らしい鳴き声を上げる。

 お腹を押さえて顔を赤くするキリエに、阿戸部は呆れた表情で言った。

「別にいいだろ? お子様ランチ。そんな小さな体じゃ、大して食えないし……」

 鳴り続ける自分のお腹に、キリエは阿戸部の言うことにも一理あるかと渋々自分を納得させると、お子様ランチのほうへと顔を向けた。

「それに、そんなわがまま言ってると、ただでさえツルンツルンの真っ平らな体がミイラみたいになっちまうぞ?」

 スプーンを手にしたまま、キリエの動きが止まった。

 その顔は俯き、スプーンの先は天井を向いたままぷるぷると震えている。

「貴様、今なんと言った?」

 キリエの静かな声が、俯いて出来た影の中から獲物を狙う蛇のように這い出てくる。

 しかし、阿戸部はそれに気づくことなく小馬鹿にしたような口調で話を続けた。

「まったく……、聞いてなかったのか? だから、こうペッタンコでツルンと真っ平らなおまえの体が、ミイラみたいなガリガリゴツゴツになっちまうぞって……」

 そこでようやく、阿戸部はキリエの異変に気がついた。

 キリエの手にしたスプーンが九十度に曲がっている。

 そして、彼女の髪の毛が蛇のように逆立っていた。

 なぜそうなったのか阿戸部にはまったく理解できなかったが、本能がパニックを起こしたかのように危険だと告げている。

 緊張して鼓動は速くなり、危険から目をそらしてはいけないと、脳が視線をキリエに固定して動かせなくなる。

 すると、キリエがゆっくり顔を上げ始めた。

 それは冷笑とともに、まとわりつくような闇を周囲に漂わせていく。

 そして闇を背に現れたキリエの顔には、この世のものとは思えないほど不気味な般若の形相が張り付いていた。

 滝のような汗を流しながら、阿戸部は勇気を振り絞って尋ねた。

「アノー、アナタハキリエサンデスカ?」

 しかしキリエは答えることなく、隣の席に置いてあったぬいぐるみに手をかけた。

「ふふふ、もう許さんぞ。今こそ、この人形の真の力を思い知るがいい!」

「ちょっ! キリエ、それだけは!」

 慌てる阿戸部に、キリエは席の上に仁王立ちして黒兎を自分の前に掲げる。

 そして大きく息を吸うと、これでもかと言うくらい可愛い声で呪いの言葉を口にした。

「やあ。僕は阿戸部っていうんだ。話しかけられると、つい殴っちゃうんだけど、実は寂しがり屋なんだ。ごめんね。てへぺろ?」

 ポーズを決めさせた黒兎の横から顔をのぞかせて、キリエは阿戸部の反応を窺った。

 しかし、目の前にいたはずの阿戸部の姿が見当たらない。

 キリエは周囲に阿戸部がいないことを確認すると、テーブルの下をのぞき込んだ。

 そこには、両耳を押さえて震えながらうずくまる、子供のような阿戸部の姿があった。

              ◆

「よ、よお」

 上瀬・愛は、自宅の門扉を開けようとしたところで声をかけられた。

 声のほうに目を向ければ、茜色の空を背に二つの黒い影が立っていた。

 一人は長身の男で、よく見ると顔を引きつらせながらも何とか笑顔をつくろうとしているようだった。

 もう一人は小柄で、フリフリの黒いワンピースを着た兎のぬいぐるみを抱える少女だった。

「あなたたちは……」

 彼らのことを思い出すと、愛は門に手をかけながらも一歩を後ずさり、手にしたスーパーの袋を握り直した。

「上瀬・愛」

 少女――キリエは動くことなく話しかける。

「わらわは貴様と話がしたいだけだ。少し時間をくれぬか?」

「え、でも……」

 怯えるような表情を浮かべながら、愛がキリエの隣を見上げる。

 そこには、未だに引きつった笑みを浮かべる阿戸部の顔があった。

 キリエはため息をつくと、大きく頷きながら愛に言った。

「うむ、まさに深海魚にも劣る不気味さ。見るのも不快であろう。気にせず、わらわだけを見るがよい」

「いえ、そうではなくて……」

 愛が苦笑いを浮かべながら否定する。

 そのことに少し驚いた様子で、キリエは阿戸部を指さしながら愛に問い掛けた。

「なんだ、違うのか? では、このかかし以下の惨めで貧相な体型か?」

 しかし、その問いに答えたのは愛ではなく阿戸部だった。

「え!? 俺、今キリエに貧相とか言われた!? マジ凹むんですけど!」

 阿戸部は、先ほどまで引きつっていた顔に驚きの表情を浮かべて言う。

 そんな阿戸部を睨みつけると、キリエは黒兎の背をつかんで勢いよく彼へと突きつけた。

 すると、黒兎に付いていたショルダーストラップが黒兎自身の首に巻き付く。

 そして、ストラップはキリエの背を支点にして黒兎の首を締め上げ、その体をくの字にのけぞらせた。

 がくがくと体を震わせる黒兎に、阿戸部は直立不動のまま顔面を蒼白にした。

「貴様は黙っていろ。くずの出来損ないが」

 その言葉に必死で頷く阿戸部に、キリエは黒兎を抱え直して一息をつく。

 そして、愛のほうへと何食わぬ顔で視線を戻した。

「で、何に貴様は怯えておるのだ?」

 愛の表情は、怯えではなく恐怖に変わっていた。

 何かを確信したかのように、愛は慎重に言葉を口にする。

「あ、あの、昨日はありがとうございました」

「ん? なんだ急に礼など。たまたま通りがかっただけだ。気にするな」

 そう言いながら少し恥ずかしそうに顔を背けるキリエに、愛はかろうじて笑みを浮かべながら話を続けた。

「そ、それでですね。キ、キリエちゃ……」

 キリエの瞳が鋭く光った。

「あ、いえ、キリエさんに聞いておきたいんですが……」

「なんだ? 遠慮なく聞くがよい」

 鋭さの消えた瞳に安堵しながら、愛は一度深呼吸をすると質問を口にした。

「黒い服装の二人組が暴行事件を起こしてるって……」

「ああ、そのことか……」

 キリエは軽く返事をするが、その目は星の瞬き始めた空を見つめていた。

 そして視線を愛に戻すと、まるで自分に言い聞かせるようにしみじみと言った。

「まあ、よくあることだ。気にするな」

 その瞬間、愛の中で確信が確定に変わった。

 愛はつかんでいた門を勢いよく押し開き、その中へと迷わず走り込む。

「気にするなと言っておろうが!」

 そんなキリエの声を無視して、愛は玄関へと急いだ。

 そして、その手が玄関の扉にかかろうとしたとき、

「んぎぃええええやあああああああああああああ!」

 甲高い男の絶叫が夜空を引き裂いた。

「きゃああああああああああああ!」

 突然響いた絶叫に愛は悲鳴を上げ、その場にしゃがみ込むと耳をふさいだ。

「貴様は壊れた目覚まし時計以下か!」

 キリエが白目をむいて口を開けたままの阿戸部の顔面目掛け、黒兎をフルスイングする。

 音速を超えた黒兎の飛び出た前歯が、阿戸部の鼻先を捉えて大砲の発射音さながらの轟音を通りに響かせた。

 しかし、阿戸部は地面に打ちつけられた杭のごとく直立したまま動かない。

 そんな阿戸部を鼻で笑うと、キリエは彼に背を向けて黒兎を腰に収めた。

 それを待っていたかのように、阿戸部がゆっくりと仰向けに倒れていく。

「おい! 君たち、そこで何をやっている!」

 突然の声に目を向ければ、かなり遠くだが、暗くなった通り向こうから男の声とともに明かりが向けられる。

 男の顔はわからないが、その声は学校の校門で聞いたものに似ていた。

 キリエは額を押さえてため息をつくと、倒れたままの阿戸部へと近づく。

「どうして貴様は……」

 白目を剥いたままの阿戸部を見下ろして、キリエは傘の先端を下に向けて両手で握り直すと、その眉間目掛けて一直線に急降下させた。

《起きろ!》

 耳鳴りにも似た振動音が鳴り響く。

「ん? もう朝か?」

 そう言って上半身を起こした阿戸部の背後、丁度頭のあった位置には剣が突き刺さっていた。

 キリエは剣を軽く引き抜くと、一振りして傘へと戻す。

 そして、その傘で阿戸部の頭を叩いて言った。

「阿戸部! さっさと行くぞ!」

「え? あの女は?」

 阿戸部が指さすほうを見れば、そこには気絶している愛の姿があった。

「まさか、もうキリエがやっちゃったの?」

「この……」

 キリエは青筋を立てて阿戸部を睨むと、片足を上げながら大きく息を吸って怒鳴りつけた。

「お気楽バカが!」

 そして、キリエの連続蹴りが阿戸部の背中へと降り注ぐ。

 それは警官がやってくる、その直前まで続いた。

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