エピローグ
Harmonized Ending(1)
Tシャツにショートパンツ、ボーダーのニーハイソックスを履いたボブカットの女の子が、息を弾ませて通路を駆ける。
突然現れた子どもに白衣の研究員たちが驚き、身体を縮ませたりひねったりして避けた。
ノックの音に書き物をしながら返事をするが、入ってくる様子がないので訝しんで扉を開ける。
目線の先にあると思っていた顔がなくて、セルシオが視線を落とす。
膝に手をつき肩でぜえはあ息をしている女の子がいて、セルシオが汗をかきしゃがみこんだ。
「大丈夫か」
苦しそうに呼吸を繰り返す女の子が、ぷはっと顔を上げる。
「おとーさん、じーじ来た」
無表情で言う女の子に、は? とセルシオが目を点にした。
「お義父さんが? またあの人はいきなり……」
片手で目元を覆い、がくりとうなだれる。
「だから今日は早く帰ってきてね、っておかーさんが」
そうか、と手を差し出して、
「分かった。ありがとう」
優しく頭を撫でると女の子が頰を緩め、にへっと笑顔を浮かべた。
セルシオもつられて微笑む。
そして女の子は無表情でぶんぶん手を振りながら走り去っていった。
入れ違いにスフィアが入ってくる。
「あれっ? ルカちゃんを追いかけてきたんですけど……っ。同行者が要るのに、一人でっ、走って……っちゃって……」
そう腰を折ってぜーはー息を切らすので、こっちは大丈夫じゃなさそうだな、と椅子を出してやる。
腰かけると、だらしなくもたれてはーと大きく息を吐いた。
ルカの代わりに持ってくれてた通学鞄を受け取り、
「すまないな。家にお義父さんが来たと伝えに来たんだ。早く帰ってこいと言ってるから、スフィア、後の仕事はよろしくな」
ぽんと肩を叩かれ、スフィアがあからさまに嫌そうな顔をする。
「ええっ、私だって今夜は旦那とディナーなのにっ。小鳥の階の、夜景の見える高級レストランですよっ。副所長ずるーい」
ぶーぶー口を尖らせるので、セルシオがはいはい、と生返事をした。
また見慣れた人物がひょっと顔を覗かせる。
「あれ? 今ルカちゃん来てなかった?」
ああとうなずき、
「ちょうどいい。後はお前に任せよう」
「名案ですね! というわけだからレナードソン、よろしくー」
気楽に手を振られて、状況の分かってないレナードソンが笑顔を引きつらせる。
「任せるって何の話だよ。俺より偉い奴らが二人して。まいっか。それより見てくれよ、うちの双子がさー」
デレデレ鼻の下を伸ばして分厚いフィルムアルバムをめくり出すので、セルシオは無視して背を向け、スフィアは「ルカちゃん追いかけなきゃ」と立ち上がった。
軽やかに駆けて玄関のノブを掴むと体重をかけて扉を押し開け、ダイニングに入る。
椅子に座っている禿頭の男性が振り返り、パァッと顔を明るくした。
「ただいまー」
おかえりっ、とキッチンに立つアルトが振り返り、すぐまた手元に目を戻す。鍋とフライパンとグリルを同時並行で使って忙しそうにしている。
デレデレと目尻を下げたアルトの父が、ルカに向かって腕を広げる。
とことこ近寄ってきたところを抱き締めようとするが、目の前ですっとかがむので腕が空振りする。
ルカが足元で丸まって寝ていたソラを抱き上げ、祖父が悔しそうに泣き真似をした。
アルトがあわわと慌てて、
「ルカ、ソラ寝てるんだから、起こしたら引っ掻かれちゃうよっ」
前足の脇で抱えられ、だらんと身体を垂れさせたソラは、慣れてるよとばかりに気にせず目を瞑っている。
ソラを寝床に運んで寝かせると、
「おとーさんにじーじ来たって言ってきたー」
「ありがとうっ! お父さん何て?」
分かったって、と答えるので、そう、とアルトが安心して微笑んだ。
「忙しいようだな、セルシオくんは」
「当たり前ですよ、副所長様ですからねっ。というか、お父様が急に来るのが悪いんですよ。いつも事前に連絡もなく」
アルトが口を尖らせちくちく言う。
しかし父はまったく取り合わず、
「だってルカちゃんに会いたくなったんだもーん」
もーんて、とアルトが呆れて目を細める。
父はルカを抱き締め、顔をすり寄せている。
ルカが無表情で「じーじくさーい」と言うので、ガーンとショックを受け涙目になった。
そんなやり取りを見て、アルトがため息をつく。
昔はこんな父じゃなかったのに、と眉を寄せてこめかみを揉んだ。
ーーー四年前。
外出から屋敷へ帰ってきたアルトの母と、出かける前の父が玄関ではち合わせる。
母がただいま帰りました、と頭を下げた。
「またアルトローザのところに行ってたのか?」
顔をしかめ、苦々しげに言う。
母はまたそんな風にと言いたげに、
「アルトローザが家を出てもう五年ですよ。セルシオさんもよくお話しに来てくださるというのに、孫にだって一度も会わないで」
父はふんっと鼻を鳴らして、
「うるさい! うちに孫は二人だけだ!」
すると母がハンドバッグから映像のフィルムを取り出す。さっと侍従が映写機を用意してセットした。
「見てください。二歳になったんですって」
父が見たくもなさそうな顔をするが、ちらっと片目を開けて覗き込む。
頭にとんがり帽子を乗せたミルクティー色の髪の女の子が、取り分けられた誕生日ケーキをフォークでつついている。
何度差しても上手く掬えないので隣のアルトが掬おうとすると、何を思ったか無表情のままべちっとケーキに顔を突っ込んだ。
周りの悲鳴にびっくりして顔を上げ、鼻から頰にまでクリームをつけてキョロキョロする。
アルトが慌てて拭き取ろうとするが、あまりにひどい顔に吹き出し笑うので、女の子もつられてにへっと笑顔を浮かべた。
場面が変わって、床で箱座りしているブルーグレーの猫に向かってよたよたと女の子が近寄り、しゃがんでそろっと背中を撫でる。
猫は慣れているのか、身動き一つせず目を瞑っている。
ただ毛先を撫でられているのでくすぐったいらしく、背筋がピクピクしている。
すると女の子がバランスを崩してよろめき、猫の上にどーんと倒れこんだ。
さすがにびっくりした猫が、痛々しい鳴き声を上げて逃げていった。
腹ばいになった女の子は、何かあった? と言いたげな顔で、撮影するアルトの母を見上げた。
ああ可愛らしい、と母が頰に手を当て顔を赤らめる。
「ユアンのところはどちらも男の子ですが、女の子も可愛いですよね」
思わず見入ってしまい、その可愛さに父の鼻の下が伸びる。
「ああ……」と小さくつぶやくので母が顔を上げると、光の速さで顔を背けた。
肩をいからせ、
「二度と見せるな!」
と喚いて出て行くので、はいはい、と母が形だけ頭を下げた。
ダイニングの椅子に腕を組んで座り、しかめ面で胸を張る。
向かい合ったセルシオとアルトが気まずそうに固まる。
父は突然セルシオの家を訪れ、席に着くなり何も言わずにただ怒った顔をしている。
アルトが肩をすぼませおずおずと、
「あの……お父様?」
じろっと睨みつけてくるので、アルトがビクッと怯えた。
するとセルシオがぎゅっとアルトの手を握る。
アルトが目を上げ、その横顔を見つめた。
「ご無沙汰しております、お義父さん。最後にお会いしたのはもう一年前ですね。今日はどうしてこちらへ?」
まっすぐ父と向かい合うセルシオに、嬉しくなって微笑む。
勇気づけられたアルトが意気込んで、
「そうですよっ。いきなりうちに来るなんて」
しかし父がまた鋭い目を向けて、アルトが身を縮ませセルシオに縋りつく。
大丈夫だから、とセルシオが背中を撫でた。
父はふんっと鼻を鳴らして、
「たまたま仕事で近くに来たから寄っただけだ」
絶っ対嘘だ、と二人が同じことを思った。
これまで行くと言っても来てと言っても頑なに二人に会おうとしなかったのだ。
何か怒らせるようなことでもしただろうかと、セルシオがこっそり汗をかく。
後ろで支えているが、アルトは緊張で目を回してそろそろ倒れそうだ。
アルトの父が、なぜかそわそわと部屋を見渡し始める。
「あー、今は二人だけか?」
奥歯に物が挟まったような言い方をするので、二人が首を傾げる。
「いえ、娘もいますが……」
「とーさ、かーさ!」
舌っ足らずな声に振り返ると、小さな女の子が壁伝いにふらふらとダイニングに入ってきた。
慌ててアルトが抱き上げる。
「部屋で待ってろと言ったのに」とセルシオが困惑した。
身体を左右に揺らし、抱っこした女の子の背を優しく叩きながら、
「お父様すみません。娘のルカチェーレで……」
言いかけて父を見ると、でれーんと目尻を下げてルカを見つめている。頰も緩み、誰だか分からないくらい人相が変わってしまっている。
セルシオとアルトの目が点になった。
ルカは初めて会った祖父を見て、拳を口に入れながら落ちそうな勢いでぐいんっ! と身体ごと首を傾げた。
焦ったアルトが床に下ろすと、両腕を突き出してよちよちと祖父に歩み寄る。
デレデレ顔の祖父が嬉しそうに腕を広げた。
セルシオとアルトが二人に背を向けてひそひそ話す。
「何だ、一体どういうことだ? そりゃうちの子は世界一可愛いけれども」
恥じらうことなく至極真面目な顔で言う。
これまでいくらお願いしても、ルカの写真すら見てくれなかったというのに。
父のあまりの変わり様に驚かざるを得ない。
アルトも真剣な顔で戸惑う。
「ぼぼぼくもよく分かんないよっ。あっ、でもそういえば前にお母様が、お父様は昔子煩悩だったって……」
すると後ろで
「ルカちゃーん、じーじですよー」
じーじっ? と二人が飛び上がるくらい驚き、首が錆びついたかのようにぎこちなく振り返る。
幸せそうにルカの小さな手を握る父。
平和なその光景に、二人がぽかんと立ちつくした。
まさかの……孫バカ。
金持ちの世界に向かないアルトを想って、断腸の思いで外に嫁に出したのだと分かっている。
世間体もあるが、アルトが安易に戻ってこないよう、あえてきつく当たったということも。
しかしその意志を貫くため、セルシオが手紙と直談判で懸命に頼んでくれたのに、結婚式にすら来てくれなかったのだ。
後で父が結婚式の映像を毎晩観ては号泣していたという話を母から聞いたが、娘の一生に一度の晴れ姿をその目で見て欲しかったと、アルトは残念に思っていた。
それだけ頑なだったのに、孫パワーであっけなく陥落した父を見て、
「ぼく……そろそろ怒りたくなってきたよ」
頰を引きつらせ、ぶるぶる拳を震わせる。
そのときは加勢する、とセルシオが眉尻を下げてアルトの肩をぽんと叩いた。
そんなことを思い出し、本当に怖い父だったのになぁ、とルカにじゃれつく父を眺めてアルトがため息をつく。
いつ怒るかセルシオと相談しよう、とうなずき鍋をかき混ぜた。
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