第四章

1 忘却(1)

 屋敷から帰ってきた日の夜、アルトは余程嬉しかったようで、晩ご飯を作りながら、そして食べながらうきうきとセルシオに話して聞かせた。


「それでお義姉様に会って、あと厨房で料理を教えてくれた子にも会えてねっ」


 夢中になって喋るアルトを見つめ、セルシオが微笑んで相槌を打つ。


「良かったな。ちゃんと家族と話せて」


 うんっ、と大きくうなずく。


「お父様がぼくを大事に想ってくれてたってことが一番嬉しくて。遠いからなかなか行けないけど、また会いに行きたいなっ」


 行く前は怯えるほどだったのに、今度は行くのが楽しみになったようだ。


 あっ、と気づいてアルトが席を立ち、ぺこんとお辞儀をする。


「セルシオ、これからもよろしくお願いします」


 改まった挨拶にセルシオがふっと笑みを浮かべ、こちらこそ、と頭を下げる。

 アルトがてへっと照れ笑いした。




 ナナリーの笑顔が浮かんではっと目を覚ます。

 ゆっくり起き上がって片手で目元を覆い、


「ーーー夢か……」


 そして深いため息をついた。


 キッチンへ行くと、アルトがおはようっ、と元気よく挨拶する。

 ああ、と力なく答えて椅子に座った。


 そのままぼんやりとダイニングテーブルのどこか一点を見つめているので、アルトが目を丸くする。


「どうしたのセルシオ、疲れてる? もしかしてぼくがいない間、仕事で夜遅くまで起きてた?」


 ーーーまた徹夜したの?


「いや、お前の方がもっと……」


 ぼそぼそと言うので、


「えっ、ぼく? ぼくは全然……」


 セルシオが弾かれたように我に返り、慌てて席を立つ。


「か、顔洗ってくる」


 ぎこちない足取りで洗面所へ向かう背中に、アルトは首を傾げた。




「もーっ、今日も遅刻?」


 腰に両手を添え、ぷりぷりとナナリーが頬を膨らませる。


 セルシオはまだ眠気が取れないようで、ぼんやりと研究室のどこか一点を見つめている。


「また昨日も徹夜したんでしょ。ダメよ、ちゃんと睡眠とらなきゃ。人より早くおじいちゃんになっちゃうわよ?」


 セルシオがははっと軽い笑い声を立てた。


「ナナに言われるとはな」


 研究職というのは仕事とプライベートの線引きが難しく、そのため没頭しがちで、いつも顔色が悪く眠そうな研究員が多かった。


 そんな中、毎日早出に徹夜でかなり過剰労働状態であるはずのナナリーは常に元気だった。

 なぜなのか訊いてみると、したり顔で「お化粧の力ってすごいよね」と自慢げに笑っていた。


 ナナリーは胸を張って両腕を組むと、


「私はいいの。おじいちゃんにはならないもの」


 そりゃそうだろ、とセルシオが吹き出す。


 ナナリーはセルシオの髪を手で撫でつけて、


「寝癖までつけて、もうっ」


 怒るナナリーに、セルシオがくすぐったそうに微笑んだ。




「今日すごく天気良かったでしょ。ソラが日当たりのいいところで日向ぼっこしててね。あんまり気持ちよさそうだから、ぼくもうとうとしちゃって。気づいたら……」


 反応がないので目を上げると、セルシオはスプーンを持ったまま目線を落として固まっている。

 セルシオ? と声をかけると、びくっと身体を震わせた。


「あ……何だ?」

「どうかした? やっぱり疲れてる?」


 いや、とセルシオが首を振る。


「大丈夫だ」


 言ってスープを掬って口へ運ぶ。


 アルトが不審に思って眉を寄せ、


「気になることとか心配事とか……あるなら言ってね?」


 セルシオは焦った様子で食べながら、また大丈夫だ、とだけ答えた。




 自室の机で持ち帰った仕事をこなしていると、頭の片隅にナナリーの姿が浮かぶ。


 セルシオは万年筆を机に叩きつけるように置くと、肘をついて両手で目元を覆った。一つ大きなため息をつく。


 ふとカーテンの隙間から夜空の明かりが見え、おもむろに立ち上がった。




 キイ、と少し錆びついた扉が開いて閉まる音がして、ダイニングからアルトが顔を出す。


「……セルシオ?」


 足元でソラがとたたた、と駆け出した。




 ベランダで椅子に腰かけ星空を見上げる。下を向けば、街の明かりがきらめいている。

 そんな美しい景色に向かって、また深いため息をついた。


 アルトが戻ってくればと思ったが、まだナナリーのことを思い出す。


 アルトも家族と向き合ってきたのだから、自分も現実と向き合わなければ。


 ーーーこれからもよろしくお願いします。


「これから、か……」


 多分そこに含みはない。今まで通りセルシオと同居を続けていきたいという、額面通りの言葉だろう。


 けれど。


 ーーーその原因というのをお早く解決くださいませ。お嬢様のために。


 膝に頬杖を突いて思いに耽っていると、


「だめだよソラ。危ないから」


 諌める声とソラの鳴き声がして目をやると、マグカップを持ったアルトが入ってきた。


 ソラが出ないように扉を閉めて、はい、と笑顔でホットコーヒーを手渡す。

 セルシオが受け取ると、隣に椅子を並べて腰かけた。

 黙ってコーヒーをすする。


「そうだ。見てセルシオ」


 思い出して、ワンピースのポケットから写真フィルムを取り出す。


 本型の映写機にセットすると、セルシオの真面目くさった顔が映し出された。


 セルシオがあからさまに嫌そうな顔になる。


「グレイスからもらってきたんだ。セルシオのお見合い写真」


 アルトがんふふと楽しそうに写真を眺める。

 セルシオはげんなりと、


「あまり見たくないな……」

「そう? そういえばセルシオだけだよ、写真だったの」


 くすくす笑うアルトに、セルシオが不思議そうに首を傾げる。


「お見合い写真がね、セルシオ以外の人はみんな映像だったんだ。ビシッとブランドのスーツ着て、すごく丁寧に自己紹介してた。趣味や特技、勤めてる会社のこと仕事のこと、思想に将来の展望まで。なのにセルシオはほとんど情報がないんだもん。どんな人だろうって思ったよ」


 アルトが困った顔で笑うので、悪かったな、と苦い顔を浮かべた。


「お前のも映像じゃなかったが」


 一枚は全身の、もう一枚は顔がアップの、お嬢様らしい清楚な姿の写真だった。


「だって喋るなって言われたから」


 ああそうか、とセルシオが納得するのでアルトがむくれた。


 ふと、初めて見合い写真を見たときは、こうなるとは全く想像できなかったなと思う。

 あれだけ突っぱねていた見合いをして、一緒に住んで。互いに想い合って、こうして今、隣にいる。


 ナナリーを喪ったから彼女がここにいるのだと思うと無意識に厳しい顔つきになっていたらしく、アルトが腕を掴んで心配そうな顔で見つめてくる。


「セルシオ、最近何か悩んでる?」


 セルシオはしばし考えた後、目をそらして空を見上げた。

 黙ってしまったので、アルトも同じ方向を見る。


「……あのね、セルシオ」


 目を向けると、アルトは夜空を見つめたまま、


「ぼく、翻訳の仕事辞めようと思うんだ」


 セルシオの胸が跳ねる。じわりと嫌な汗をかく。


 平静を装って、


「ーーーそうか」

「うん。それで、この街の通訳のお仕事をやりたいと思ってっ。街に観光で来た人たちに、この街のいいところをいっぱい案内したいんだっ」


 おしゃべり好きでこの街が大好きなアルトには適役だろう。


 うきうき話すアルトに、セルシオも顔をほころばせる。


「いいと思う」


 賛成すると、嬉しそうに大きくうなずいた。


 変わっていく。周りは留まることなく時間が流れている。


 アルトに想いを告げた日、止まっていた時間を動かし前へ進むことを決めた。


 けれどこうして人が動くところを目の当たりにすると気づく。


 自分はまだ、立ち止まっていると。


 ここから前へ踏み出さないといけない。

 そのために。


 アルト、と彼女を見ずに呼んで、


「ナナの話、してもいいか?」


 アルトはにっこり笑ってうん、とうなずいた。

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