5 屋敷にて(3)
母や兄とこれほど長く話したのは初めてかもしれない。
子どもの頃は、食事で家族が揃ってるのに厳格な父が会話を禁じていたし、兄が十六歳を過ぎ経営に関わって忙しくなってからは、顔を合わせることすらほとんどなくなっていた。
だから今このときが嬉しくてつい、
「セルシオのお姉さんが拾った仔猫をセルシオが飼っていいって言うので、ぼくがソラって名前をつけてねっ」
夢中になって話しているといつの間にか普段の喋り方になってしまい、母が優しい声で諌める。
「そんな喋り方をしていたら、そのお見合い相手に呆れられますよ」
「あっ、いいえ。セルシオはこの喋り方がぼくらしいってっ。違う方がヘンだって言われました」
てへっと照れ笑いするので、母がまあ、と笑う。
「ありのままのあなたを受け入れてくれたのね。素敵な人ですね。母もお会いしたいわ」
ぜひっ、とアルトが嬉しそうに言う。
「そうね。ああ、だったらこの家に住めばいいのではないかしら?」
アルトが笑って「無理ですよ」とたしなめる。
けれど母は名案とばかりに手を打ち合わせて、
「大丈夫よ。研究というのはほとんど一人でするのでしょう? ここからお仕事先へ通うのが難しいのなら、ここに設備を整えればいいわ」
働いたことのない母はいとも簡単そうに言うが、悪気はない。
夢見がちな母に、アルトがしょうがなさそうに笑う。
「ダメですよお母様。セルシオはあの研究所じゃないとーーー」
言いかけたところで強くズキンと胸が痛む。急に息が苦しくなり、動悸がする。
な、何これ……。
だってセルシオはあの場所じゃないと。あの研究室じゃないと。
あそこにはーーーナナリーさんがいるから。
ドクン、ドクンという鼓動が耳に響く。
震えを誤魔化すようにサイドテーブルのカップを取り、紅茶を一気に飲み干した。
ふう、と息を吐いて肩を下ろす。
大丈夫。それでいいんだから。
ずっとナナリーさんを想ってる、そんなセルシオのままでいい。
兄が母に向かって真面目な声で、
「母様は知らないだろうが、国立魔法研究所は国で一番でかい研究施設だ。その一部だとしても、同等のものをここに造れないだろう」
あらそうなの、とあっさり諦める。
アルトが動揺を勘づかれないよう、調子を合わせて微笑んだ。
「でも俺も会ってみたいな。この脳天気なおてんば娘のどこを気に入ったのか、訊いてみたい」
兄といえど失礼なところに興味を持つので、アルトがむくれる。
「返答次第では破談にする」
スパッと言い放って、アルトが驚き汗をかく。
くっくとまた悪い顔で笑うので、アルトがほろほろ泣く真似をして、
「兄様ー。セルシオに会ってもいじめないでくださいねー」
ぞくっと寒気を感じて、砂を入れた盥を床に置く。
レナードソンが気づいて「何だ?」と声をかける。
昇進したというのに、息抜きなどと言って相変わらずサボりに来ている。
セルシオは腕をさすりながら、
「いや、何か寒気が」
「マジかよ。今風邪引いても看病してくれるアルトちゃんいないんだろ?」
大丈夫だとセルシオが首を振り、魔法石を砕いた砂を盥からすくって袋に移し始める。
そういえばとレナードソンが気づき、
「今日はもう行ったのか? 地下室」
ピタッと手を止めた後、「ああ」と答える。
レナードソンはそうか、と首を傾げた。
「まあでも、会いに行くよりうちに来る方が早いんじゃないか?」
兄の言葉に、アルトが頭上に疑問符を浮かべる。
「そのうち挨拶に来るだろ」
その意味するところに思い至ると疑問符が感嘆符に変わり、アルトがボンっと頭を沸騰させた。
「何だ、まだ求婚されてないのか」
アルトが頭を抱えて困惑する。
赤くなって手で口を押さえながら、
「そ、その、こっ、交際も……始めて日が浅く、け、けっけ結婚など」
動揺してどもるアルトに、兄はアルトの手土産のドラジェをつまみ、首を傾げて眺めてから口に放り込んだ。
「見合いして何ヶ月も一緒に暮らしてるのに、交際は最近なのか。一体どういう男なんだ、そいつは」
「まあまあ、人にはそれぞれペースというのがありますから」
母が優しく取りなす。
兄がどっかとソファの背にもたれかかって、
「まあお前が気に入ったのならいい。お前は見合いを仕方なく受けては当日になって嫌で逃げ回っていたが、ちゃんと相手と向き合えば何てことないだろう。会ってすぐ結婚するわけじゃないんだし」
そうですね、と伏し目がちにうなずく。
見合いの最初は我慢しておとなしくしているが、終盤で肝心な話に差し掛かると、理由をつけて逃げ出していた。
今思えば、相手の人たちには失礼なことをしたと反省する。
「容姿とか年収とか、もっとわがまま言っても良かったんだぞ」
母がふふっと笑う。
「あなたは散々注文をつけましたものね。お相手の容姿にも中身にも。美人でスタイルが良くて優しく聡明。共に会社を支えていく判断力とバイタリティーが絶対に必要だと」
女性のアルトからすると身勝手とも思える要望に、うわーと呆れる。
しかし兄は当然だ、と胸を張った。
「一生添い遂げるんだ。気に入らない相手と墓に入るなんてもってのほかだからな」
「それで結局言ってたのとは違う人を選んだのよね。とっても可愛くて優しい子ですけど」
ああ、と頭を仰け反らせる。
「会社は俺一人で支えられるからな。俺を支えてくれる女ならいいんだ」
そうですね、とくすくす笑う。
そういうものなのかな、とアルトが想像してほんのり赤くなった。
扉をノックする音がして振り返ると、シナモン色の長い髪に垂れ目がちな女性が入ってくる。
アルトが「噂をすればですね」と含み笑いをして、兄が「俺は呼んでないぞ」と呆れ返った。
「お義母様ー。見てください、刺繍出来ましたぁ」
気の抜けるのんびりした声でのんびりと歩み寄り、刺繍枠をはめたハンカチを持ってくる。
そこではたとアルトの存在に気づき、作品をゴトッと床に落とした。
目に涙を浮かべてふるふる震えると、
「ア……アルトローザちゃぁぁーんっ!」
アルトに駆け寄って抱きついた。
感動屋の兄嫁にアルトがわたわた困惑する。
後ろで兄が「大きな声を出すな」と苛立つ。
「お屋敷を出たって聞いて、私ずっと心配で、心配で……っ」
ぐすぐす泣きじゃくる兄嫁にアルトが微笑んで、
「ありがとうございます、お義姉様」
泣き止まない兄嫁を兄が連れ添って退室させ、母と二人向かい合う。
「お母様、ずっと起きたままで、お身体辛くはないですか」
アルトの気遣いに、母は笑ってええ、と答える。
「あなたの元気なお顔が見れましたから。そうだわ、それにね」
うきうきとベッド脇のキャビネットに手を伸ばし、侍従から写真立てを受け取ってアルトに向き直る。
「これを見てからは、もうすっかり」
映し出されたのは、夕暮れの砂時計の街を写した写真だった。アルトは嬉しそうにジャンプして、セルシオは驚いた顔をしている。
先月アルトが手紙につけて送った写真だ。
「これ……」
「この間お父様がくださったの。相変わらずお手紙は見せていただけなかったけれど」
アルトが驚いて目を見開く。
「手紙、届いて……っ?」
「ええ。ずるいのよ、お父様ったら。あなたからのお手紙を自分だけ読んで、私には見せないの。ユアンなんて手紙のことも知らないでしょうね」
読まずに捨てられていると思ってた手紙。
母と兄に見せなかったのは、アルトの居場所を知られたくなかったからか。
この写真だけ渡したのは、アルトが帰ってこなくて気落ちした母に、元気にしていると伝えたかったのだろうか。
本当はね、と母が目を細める。
「お父様はあなたが好きで好きでしょうがないのよ。昔なんて、目の中に入れても痛くないってくらい子煩悩で」
そんな姿、今の父からは想像もできないが、母が言うならそうなのだろう。
でも、とアルトが暗い顔をする。
「お父様はぼくに厳しくて……。きっと、ぼくがたくさん迷惑かけたから」
優しい笑みで母が首を振る。
「三回目のお見合いのこと、憶えてますね?」
アルトは三回目の見合いで文字通り逃げ回った挙句、吹き抜けになった三階の手すりから滑って落ちて見合い相手に受け止められ、当たりどころが悪く、相手の肋骨が折れたのだ。
思い出し、アルトが呻いて反省する。
その様子にふふっと母が微笑む。
「あなたは知らなかったでしょうけど、実はそのお相手があなたをいたく気に入られてね」
え、とアルトが戸惑う。
激怒し恨まれるのならまだ分かるが、どうして気に入ることがあるのだろう。
母が困った様子で頰に手を当てる。
「世の中面白い人もいるものね。あなたを快活でたくましいお嬢様だって思って、ぜひにって」
そのときの見合い相手を思い出す。
声が大きく筋肉でスーツがはち切れそうな、体格のいい男性だった。職業は警察か警備の幹部候補だったか。
骨を折ってまで助けたというところも、相手の強い正義感に響いたと聞いて、アルトは何とも言い難い気分になった。
「けれどお父様はそれを断って、あなたをお屋敷に閉じ込めた」
「そう……だったんだ」
母が肩を揺らして笑って、
「セルシオさんとお見合いすることになった理由、今なら分かるかしら?」
はい、と口角を上げ穏やかに微笑む。
「分かりました。全て」
あら、と母が目を丸くする。
「あなた、もしかしてーーー」
カンカン、と高い音で扉がノックされ、使用人が顔を出す。
脇に控えていたグレイスに耳打ちして、グレイスが居住まいを正す。
「アスタームス様がお戻りになりました」
アルトが顔色を変え、きゅっと唇を引き結んだ。
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