5 屋敷にて(2)

 高い天井にはシャンデリアが取りつけられ、床に敷き詰められた美しい毛織物の絨毯にさんさんと日が当たっている。

 この部屋は、玄関ホールとはまた違う花の香りがする。


 おどおどしながら中に入るが、豪奢な応接セットに人影はない。

 左手に天蓋つきのベッドがあるので客間のようだ。


「……どなた?」


 ベッドから聞こえた女性の弱々しい声に、アルトが目を見開く。


「ア……アルトローザ、です」


 胸が詰まり、声が震える。

 ベッドにいる人物が息を呑む気配がした。


「アルトローザ……っ?」


 アルトは目を潤ませ、思わず駆け出した。


「お母様っ!」


 ベッドの上には、カナリヤ色の髪で小柄な女性が座っていた。


 アルトの母が驚いた顔を微笑みに変え、アルトを迎える。

 広げられた両腕に飛び込んで、母があらあらと背中をさすった。


「おかえりなさい、アルトローザ。会いたかったわ。元気でしたか?」


 優しい声に、アルトが震えて涙をこぼす。涸れた声ではい、と小さく答えた。


「お母様、お身体の具合が悪いのですか?」


 アルトが家を出た頃より痩せている。

 しかし母はにっこり笑った。


「大丈夫よ。あなたがお屋敷を出て寂しくて、少し気が弱っただけ」


 見合いだけのはずが、そのまま九ヶ月も戻らなかったのだ。元々身体が強くない母にはこたえたのだろう。


「ごめんなさいお母様。長らく家を空けました」


 母が首を振って、


「あなたが元気でいてくれて本当に安心しました。ずっと心配していましたよ」


 ごめんなさい、とまた謝るので、母がアルトの手を撫でる。


「これでも随分良くなったのよ。たまに外へお出かけだってしています。こうしてるのは、まだ寝てるようにって、お父様が日当たりの良いこの部屋を与えてくださったから」


 それを聞いて、アルトがはっと気づく。


「お母様っ。あのっ、謝らなければならないことが」


 急くアルトに母がふふっと笑って、後ろの椅子にかけるよう促す。


「まずは家を出た後どうしてたのか、お話を聞かせてちょうだい」


 はい、と答えたところで扉がノックされる。

 母が返事をすると、眼鏡をかけたインディゴブルーの髪の男性が入ってきた。

 振り返ったアルトが目を丸くする。


「兄様っ」


 変わらないしかめ面を懐かしく思いながら、兄の前でスカートを軽くつまんで頭を下げる。


「ご無沙汰しております、ユアン兄様。アルトローザ、ただ今……」


 挨拶の途中なのに唐突に頭の上にゴンと拳を置かれ、アルトの目から小さく火花が散る。


 兄はぎりぎり歯ぎしりしながら、


「今回は随分長い迷子だったな。どこまで行ってた」


 その言葉に、やっぱり手紙届いてなかったんだとアルトがしょぼくれる。


 暗い顔で「申し訳ありません」と謝りかけたところで、兄が片手でぐいっとアルトの肩を引き寄せた。


「元気そうで良かった。心配したぞ」


 背中をぽんぽんと叩く。

 アルトは目を閉じて微笑み、


「ご心配おかけしてごめんなさい、兄様」


 再会を喜ぶ二人に母が声をかける。


「さあ二人とも座って。アルトローザの話を聞くのを母は楽しみにしてるのよ」


 うきうきする母に、アルトが申し訳なさそうな顔で椅子に座る。


 兄は息子とはいえ男性なので、使用人に言ってベッドの母の姿が見えない位置にソファを移させてから腰かけた。


「お母様、兄様。まずは謝らせてください」


 出し抜けに真剣な顔で言うので、母も兄も揃って首を傾げる。

 足を組んだ兄が、何のことだと尋ねる。


「ぼ……私はこの家を出て九ヶ月、お見合い相手の家で暮らしました。その方はお金持ちとは言えない一市民で、もちろんこんなお屋敷ではなく小さな家に住んでいます。毎日勤勉に働き、家事も自分で行うつつましやかな生活です」


 料理も洗濯も買い物も全て自分でする暮らし。アルトが経験したことのないことばかりで、使用人なしで生活できるのかと最初は戸惑うこともあった。


 でも、それも含めて。


「私は、自分で物事を選択し毎日を歩けることに初めて自由を感じました。これからもそんな暮らしを続けていけたらと望んでいます。……けれど、ずっとこの家で息をひそめて暮らさなければならないお母様と兄様を思うと……後ろめたくて」


 父に従い、自由のない暮らしがアルトには耐え難かった。この世界のしきたりにも馴染めなかった。

 しかし二人はアルトよりもっとそれらから逃れられないのだ。


 申し訳ありません、と頭を下げる。


 いたたまれない間を置いて、母がふふっと笑った。


「いいのよ、アルトローザ」


 顔を上げると、母が肩を揺らして笑っていた。

 兄はソファにふんぞり返って呆れた顔をしている。


「何かと思えばそんなことか」


 そんなことって、とアルトが目を点にする。


「気づいてなかったかしら? お父様が見ていないところで、母は自由に暮らしてましたよ」


 母はお喋りが好きで、お茶会やパーティで友人と会って気楽に過ごしていたという。習い事なども、父がやめろと言えば従ったが、いくつも掛け持ちして楽しんでいたらしい。


「で、でも、では兄様はっ。お父様から厳しく教育されて」

「それくらいのこと。あのクソ親父がくたばったら、この家も会社も全部俺のものなんだから。いっくらでも言うこと聞いてやるよ」


 くっくと悪どい笑い声を立てるので、アルトが拍子抜けする。


 父の言いなりになってると思ってたが、あえて素直に言うことをきいていた。そしてアルトだったら心が折れそうなくらい厳しい教育は、優秀な兄には耐えられることだったようだ。


 アルトが悲劇のヒロインさながらのショックを受けていると、兄に手招きされ何だろうと近寄る。


「おかしな気遣いをするな。家のことは心配せず、お前はお前の好きなようにしてろ」


 言って指先でアルトの額を弾く。


「あたっ」


 頭に響くほど痛くて、アルトが額を押さえて悶絶する。


 赤くなった額を涙目でさすりながら、笑顔ではいっと答えた。


「けれど、では時々食事を出されなかったのは、私が不出来だったせいですね」

「そんなことがあったのか? それは侍従たちの嫌がらせだろう。親父は使用人にもきつく当たるからな」


 捌け口にされたんだろう、と後ろに控えていた侍従を鋭い目で睨むと、さっと顔色が変わる。


 使用人が主人以外の家族に冷たく当たるのはままあることなのだが、父の存在が大きくて混同してしまっていた。


 そうだったんだ、と思い込んでいたことを反省する。


 母が肩を上げてくすっと笑う。


「自由だと思える場所は人によって違うのよ。あなたが居心地の良い場所に出会えたのなら、母は嬉しいわ。だから聞かせてくれますか? 今の暮らしのことや、そのお見合い相手のこと」


 穏やかに微笑み、アルトがえへっと照れ笑いした。




「しかし、随分遠くにいたんだな」


 セルシオと見合いをして一緒に暮らし始めたと話したところで兄が驚く。


 チッと舌打ちをして、


「見合いして従者に置いていかれただと? 何がしかるべきところに嫁に出した、だ。どこへと訊いても親父は『教えん、絶対に探すな』の一点張りだし」


 苛立つ兄に、母が目を伏せる。


「あの人はね、目が前にしかついてないのよ」


 しんみりと言うのでうなずきかけたが、


「……お母様、人間はみんなそうだと思いますよ」

「横や後ろにある人間はまだ見たことがないな」


 二人が揃って呆れた顔をするので、母は口に手を当ててあらあらと笑った。


「あの人はいつも目の前のことしか見えてないの。視界からほんの少し外れただけで、何にも気づけなくなっちゃう」


 そうなのだろうか、とアルトが黙り込む。

 それならアルトは常に父の目につくことをしてしまっていたのだろう。


「親父は探すなと言っていたが、一通り探させたんだぞ。前の見合い相手やまだ受けてない縁談、学校にお前の友人や、会社絡みも全て。けれどそれらしい手がかりはちっとも出てこない。国の外れにある研究所だなんて、そんな話一体どこで拾ってきたんだ、あのバカ親父は」


 イライラと足を踏み鳴らす。

 どこからの縁談など考えたこともなかったアルトが、不思議そうに小首を傾げた。


 母がきらっと目を輝かせる。


「そのお見合い相手の方とはどう? 仲良くしていますか?」


 はい、とっても、とアルトが顔をくしゃっとさせて笑う。


「セルシオは優しくて思いやりのある、とてもまっすぐな人です。私がおかしなことを言って呆れられることもあるけど、一緒にいるとすごく楽しいんです」


 幸せそうに話すアルトに、母も笑顔を浮かべた。


 その後もセルシオのこと、研究所のみんなのこと、街のことなどを話し、母は一つ一つに相槌を打って、兄は時折質問しながら談笑した。

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