1 むかしの話(3)

 研究所に入ってまだ一ヶ月経たない頃。


 レナードソンは今日も自分の研究室を抜け出して、ふらふらとセルシオのところに来ていた。


 サボるなと注意する気力も失せ、セルシオは無視して自分の仕事を片付ける。


「セルシオっ。今度遊びに行こうぜ。女の子も来るぞー」


 嬉しそうに肩をバンバン叩くが、興味ない、と避ける。

 レナードソンの手がすかっと空を切った。


「何だよ頭固いなー。お前だって欲しいだろ? 彼女」


「もういる」


 平然と書類を分けながら言って、レナードソンが固まる。


「ちょちょちょ、ちょっと待てマジかよ。妄想とか仕事が恋人とかなしだぜ」


 冷や汗をかいてすがりつくので、「何でだ」とセルシオが呆れた顔をした。


 研究室の扉を開け、シェルピンク色のセミロングの女性が入ってくる。

 セルシオを見つけて手を振って、


「セルシオー。レポート用紙切れちゃったんだけどある?」


 レナードソンが、美人の先輩だ、と会釈をする。


 同期の女性は顔と名前と趣味と故郷の地域まで把握済みだが、先輩まではまだ手が回ってなかったので、レナードソンの胸が高鳴る。


 一方、セルシオは無表情で引き出しからレポート用紙を取り出して手渡す。

 「ついでにインクとメモ帳もちょーだい」と女性が勝手に引き出しを漁り始めた。


 レナードソンがぐいっとセルシオの肩を引き寄せ、


「ちょっとちょっと美人じゃねーかよ。先輩と知り合い? 紹介しろよ」

「いや、というか……」


 困った様子でナナと呼ぶと、女性が首を傾げる。


「ナナリー・リゼルロッシェ。魔法力学研究室所属」


 新人さん? とナナリーがにっこり笑顔を見せる。

 レナードソンがへらっと笑って軽く頭を下げた。


「彼女」


 そこでレナードソンの思考が止まる。


 その後に何か続くのだろうと思って待つが、セルシオは口を閉じている。


 固まってしまったレナードソンと無表情のセルシオを、ナナリーが何? と交互に見比べる。


 レナードソンが倒れこむように、机に腕を伸ばしてうなだれる。


「セルシオ……。俺は人生で初めて敗北感を味わってるよ」


 ほろほろと泣くので、失礼な奴だなとセルシオが呆れる。


 ナナリーが口を尖らせて、何よー、とセルシオの肩を掴んで揺さぶった。




 そんなほんのりしょっぱい思い出を、酒と一緒に呑み込んで、


「俺あれマジで悔しかったんだぜー。地味で奥手そうなお前に彼女がいたのもだし、ナナも見た目だけは良かったし」


 本当に失礼だなと半眼で呆れる。


「ーーー懐かしいな」


 そうセルシオが言ったきり、二人とも黙り込む。


 レナードソンが不安そうにセルシオの顔をちらっと窺う。

 いつも通りの無表情で暗くなる様子はないが、思い出してるのかもしれない、ナナリーのことを。


 目線を落とし、コップの中で揺らぐ酒をじっと見つめる。


 セルシオはアルトのおかげでずいぶん雰囲気が柔らかくなった。

 よく喋るし笑うことが増えた。

 相変わらず自分の無力感は拭えないが、喜ばしいことだ。

 このまま幸せになってくれたなら、レナードソンは手放しで祝福する。


 ーーーやっとセルシオが歩き出そうとしてるんだ。

 ナナ、見守ってやれよな?


 セルシオから見えないところでぎゅっと眉間に皺を寄せる。

 目を閉じ、開けたときにはいつもの笑顔を浮かべた。


 そしていきなり喚き声を上げて、セルシオがびくっと驚く。


「あーっ、振り返りモードやめっ! お前が研究室に戻ってきただけでも嬉しかったんだぞ、俺は」


 指差して言われて、セルシオがぽかんとする。

 レナードソンは酔っているのか赤い顔で、目が据わっている。


 勢いよく椅子の背もたれにもたれて、酒をあおる。


「しっかし戻るなりあっという間に室長になりやがって」


 悔しそうに言うので、このサボり魔にも野心があったのかと感心する。

 それとも置いていかれたと思ってるのだろうか。


 ふっと笑ってレナードソンのコップに酒を注ぐ。


「お前ならすぐ追いつくだろう。しかし人事会議でお前の名前が出てきたときは驚いたぞ。また何をやったのかと」


 そっちかよ、とレナードソンが歯を見せて照れ笑いする。


 セルシオがコップを持ち上げ、


「おめでとう。フェズラーセン主任」


 レナードソンも笑顔でコップを軽くぶつけた。

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