歴詩集
鮎風遊
歴詩1 京のおなご・おりょう
you tubeで、フォト音(on)ポエムとしての紹介は次のURLです。
http://www.youtube.com/watch?v=dlYKLUXxIhc
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『京のおなご・おりょう』
悲しおした つろうおした
あんさんが
あたし ひやこいなみだ たんと 流したんえ
あんさんが いっぱいこ好いてた
あでやかに ことしも 咲いてくれはった
京のおなごは 芯が
そやさかい 今日からは
泣きめそなんか かんにんなんえ
なんしか あたしは
あんさんが 惚れてくれはった 恋女房やもん
楽しおした おもろおした
あんさんと
今も ほのかな夢に たんと 出てくるんえ
ほのぼのと あんさんと歩いた
さやさやと ことしも 風が吹いてます
京のおなごは 情が
そやさかい 今日からは
なんしか あたしは
あんさんの やんちゃで かいらしい 同志やったもん
きばりおした えろうおした
あんさんは 世直しで 命かけはった
ほんに 純な一生涯 あての 自慢なんどすえ
いっぱいこ あんさんをいやした 古都の四季
ゆるゆると ことしも
京のおなごは 欲が深おます
そやさかい
一所懸命 生きてゆきます
なんしか あたしは
あんさんが 抱いてくれはった 恋女房やもん
京のおなごは 芯が
京のおなごは 情が
京のおなごは 欲が深おます
そやさかい 今日から
泣きめそなんか
そやさかい 今日から
そうなんえ
一所懸命 生きてゆきます
なんしか あたしは
あんさんが 愛してくれはった 恋女房やもん
少々の解説を
1862年に父が亡くなり、おりょうは奉公へと出る。そして元治元年(1863年)の5月頃、おりょう(24歳)は三十三間堂南の土佐志士たちの寓居で賄いとして働いていた母と妹を訪ね、坂本龍馬(30歳)と出会う。
二人は同じ「龍」、これで意気投合する。
「
「元治元年8月1日の夕方、坂本が帰ってきました。そこで金蔵寺の住職智息院が仲人となって本堂で、内祝言をして、始めて新枕、幾千代までもと契りました。」と。
結婚式場は京阪三条駅から三条を東に5分、そこに跡が残る。──(現地石碑あり)
その前の元治元年6月5日(1864年)に池田屋騒動が起こっていた。(池田屋は今は居酒屋)
内祝言後、身の安全のためにおりょうは伏見の寺田屋へと預けられる。
そして慶応2年1月23日(1866年)、龍馬は寺田屋で伏見奉行の襲撃を受ける。いわゆる寺田屋事件だ。
この時、おりょうは階下で風呂(今も残っている)に入っていた。そして外の異様な気配を感じ、裸で階段を駆け上がり、龍馬に危機を告げる。
この機転により、龍馬は屋根づたいで虎口を脱する。しかし左手に深い傷を負う。後の龍馬の写真では左手は隠されている。
この療養のため、3月初旬、龍馬とおりょうは九州霧島へと旅立つ。これが日本最初の新婚旅行だと言われている。
二人は高千穂峰登山をし、頂上の天の
しかし、まだまだ二人には動乱の日々が待っていた。
そして1年半後、慶応3年11月15日(1867年)、坂本龍馬と中岡慎太郎は京都河原町の近江屋で暗殺される。──(現地表示板あり、今はコンビニ)
その日は龍馬の33歳の誕生日だった。
その頃、龍馬はおりょうを下関に住まわせていた。そして訪ねて来た龍馬に最後に会ったのは9月20日のことだった。そのためおりょうは龍馬の訃報を下関で聞いた。
おりょうは急ぎ京へと向かい、近江屋に宿泊し、龍馬を弔った。
龍馬とおりょう、二人は1863年5月に出会い、1867年11月に別離が。
たった4年半の年月だったが、それは100年の濃さのある時間だったと言える。
ご参考に
「You Tube」に、フォト音(on)ポエムとして画像と楽曲を付けて紹介させてもらってます。
次のURLをコピーし、http覧に貼り付けて検索し、閲覧して頂ければ幸いです。
http://www.youtube.com/watch?v=dlYKLUXxIhc
これでヒットしない場合は、you tube 画面検索で、「鮎風遊 京のおなご」でご検索ください。
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