C-000-Section-005:Fascination
ほのかに香る香水の匂い。可愛らしいピンクのふかふかのベット。おびただしい数の動物のぬいぐるみ。誰もがここが医務室だと言われたら耳を疑うだろうが、この部屋が学院ヴィータの医務室である。メルヘンチックな様式で部屋を着飾っているカンナという保険医は、その趣味に沿った不思議な感じの女性であった。セクシー保険医の異名を持つ彼女の治療を受けたくて仮病を使って訪れる男子生徒達は多い。学校の運営を厳しく請け負っていた風紀にうるさい教頭も彼女の色香の誘惑に負け、そうした経緯でこの医務室の仕様で部屋が完成するに至ったのだ。
瀕死の彼をここまで運ぶのに手伝ってくれた生徒達はテオリアの判断により、教室へと既に返されており、ゾーニングは魔族襲撃の報告を理事長へ伝えに行っており、運ばれた重傷のブラッドはベットに横にされ、カンナに治療を施されていた。
「ったく、大げさだよな。このぐらいの傷で」
強気で振る舞うブラッド。「ん~。強がりは良くないわ~」とおっとりした口調で、ブラッドを窘めながらカンナは治療を続ける。その治療する手つきは色っぽく見え、横目で見ていたリルはブラッドが誘惑されてしまわないか心は不安になっていた。
「ん~、魔族ちゃんは、ナイフの数を多く形成しようとして、毒素自体を強く生成されるまで魔力が回らなかったみたいね~。まあ、ナイフの数を多くされたのは、却って良かったのかも~。毒素がもう少し濃かったら~、私の精霊因子でも取り除くのは難しかったわ~」
自分の手をカンナはブラッドの傷口一つ一つに翳すと、光のような粒子に包まれた患部はみるみると再生していき、腐食していた部位も綺麗な肌に戻っていった。「はい、終わり」と最後の傷口が塞がるとその患部をポンと手で叩く。そして、傷口の治療は完了すると、カンナは治療箱から、液体が入ったボトルを取り出すとブラッドに差しだした。
「出血が多かったから、ヒールポーション。飲んでおいてね~。飲めば、傷口は完璧に塞がるし、ポーションのエキスが血に変わって血管に回るから~」
差し出されたヒールポーションを受け取るとキャップを開けて、ブラッドは大胆なまでに一気に飲み干す。「不味い。このポーション」。ブラッドは吐きそうな仕草をしながら、飲み干した感想を述べると、からになったボトルをゴミ箱に捨てた。
「…カンナ先生。ありがとうございます。助かりました」
カンナに礼を言ったのはブラッドではなくテオリアであった。「構わないわ~。これが仕事だし~」と、カンナは気にしてない様子を見せたが、テオリアの複雑そうな態度は変わらなかった。
「ブラッドちゃん。きちんと病院で診てもらったほうが本当はいいわよ~? 後、エルンスト病院は今、ゲマインシャフト協会の会長さんが危篤らしくて、報道陣に囲まれて入れないわね~」」
医療機関で治療を受ける気など毛頭ないブラッドにとって意味の為さない忠告であり、カンナの心配する言葉に「大丈夫だって」と根拠などない自信を態度で示し続けるブラッドに、一同安心など出来なかった。
「ブラッド」
複雑な表情のテオリアはブラッドを呼ぶ。「ん?」と完全に無防備であった彼は呼ばれた声に振り返る。テオリアの表情は厳しく、「何だよ」と彼が問う寸前で彼女から平手打ちが頬に叩きつけられた。突然の出来事に驚くリルとカンナ。
「テオリアちゃん。どうしたの~!?」
唐突に起こった事に、動揺しながら、テオリアに駆け寄るカンナ。だが、テオリアは厳しい表情でブラッドだけを見つめていた。
「…やっぱり来たよ。このお節介ババアが…」
冷笑しながら吐き捨てるように呟くブラッド。引っ叩かれた理由をテオリアの性格を察して理解しているようであった。
「何でいつもお前はそうなんだ!」
そして、真面目な表情で叱責し、強く非難するテオリア。「何がですか?」と真顔でブラッドは敬語で言い返す。目上への無礼と感じ取ったのではなく、単純にテオリアに信頼を向けていない事の現れに過ぎなかった。信頼を重ねれば親近感も沸く、格式ばった敬語では歯が浮く。ブラッドにとって敬語を使わない会話こそ信頼の現れなのだ。それが為されない今のテオリアは失望の対象でしかない。だが、そんな風に思っているとは気づいていないテオリアは更に怒気を強める。
「勝手な行動でどれだけの人達に迷惑を掛ければ気が済む!?」
責任感のある教師なら、当然の言葉であろう。だが、素直に受け取らないブラッドは、その言葉を真剣に耳を傾けようとしない。
「お前は倒しちゃいけない。特にあの存在はダメだろう? 憎しみなんかでお前の苦しみは癒えない」
「…いいじゃないですか。倒せたんだし。そっか、オレの心配してくれてるんですか? だったら余計なお世話ですよ」
言い聞かせるテオリアの顔に同情が滲む。それが、心底胸糞悪く感じたが、ブラッドは感情を表に出さず、あしらう様に返した。
そして、そのあまりの態度の悪さに、冷静さを欠いた言葉がテオリアの口から言い放たれた。
「ご両親の事は同情する。だが、ご両親が魔族に殺された事は、もう忘れるんだ。過去の事だ。それにお前の人生に良くない汚点を残す事になる」
決して、簡単に言う内容ではないその言葉と言い方に、ブラッドは一瞬、憎しみにも近い大きな怒りを抱いた。だが、同時に起こった虚しさが、心を包む。自分の過去の自分がどう思っているか、自分から理解など求めてはいない。だが、相手から無理解な見解を感じ取った自分の心そのものは虚しさだった。
「…ったく、うぜえよ。マジで。アンタ、自分の意見を通すために、苦しみを積むのが相手だものな。楽でいいよ。本当。でも、聞いてて滑稽だぜ? あんたの自覚のない真面目を気取った精神論」
これ以上、話すのが馬鹿らしくなったブラッドはテオリアを視界の外へ遠ざける。
「リル。行くぞ」
そして、リルを呼び、従う様に黙ってついてきた彼女を確認すると、医務室のドアの前へと一緒に移動したブラッドは、「治療ありがとうございました」と、カンナに一言礼を言い、ドアを開く。
「もう大丈夫~? 痛くなったら、また来てね」
立ち尽くすテオリアの横でオロオロとしていたカンナであったが、ブラッドに礼を言われ、医務室を後にしようとする二人を見送ろうとした。
力強く握って、自分の中の見えない怒りを手で主張しているテオリアだったが、溜まらず再び失言にならない言葉を繰り返す。
「お前のご両親が見たら悲しむぞ!」
意を決して開口された言葉。
「…アンタには関係ないだろ?」
しかし、返ってきた言葉は熱は込められていない。今はもうこれ以上、言葉を重ねたくない。それがどうしてかを理解できるほど、思いやる気持ちはテオリアの心には存在しなかった。
ドアは静かに閉められ、二人が去り、医務室に残されたテオリアはぶつぶつと自分を言い聞かせるように自分を納得させている。精神的に苦しいのはテオリアも同じであるように思えたカンナは自分の見解を述べる事にした。
「テオリアちゃん。真面目に徹するのは、気重になる事もあるわよ~。自分にとっても、相手にとっても」
カンナの言い分は自分でも頭では理解できている事であった。だが、理屈が心を妨げている。それも分かっていた。
「私は…、そうなっても、生徒と向き合いたいんです」
そして、その言葉に対して切実な願いの内を吐露した。その声は消え入りそうにも聞こえたが、自分の持ち前の真面目さがこもってもいるようにも感じられる。
「…紅茶でも飲む?」
暗い雰囲気の空気を変える案をカンナはテオリアに進め、「…そうですね」と落胆した気持ちを気休めになるならと思い、彼女はその気遣いに甘える事にした。
ティーバッグが差されたティーカップにお湯が注がれ、カンナは出来た紅茶を「はい。熱いから気を付けてね~」と優しく差し出す。テオリアは忠告された通り、熱さに注意を払いながら味わった。リラックス効果もあるというその紅茶の効果からか、感情的な波は和らいでいくような感覚をテオリアは感じ、落ち着いてきた為、暫くカンナと話した後、挨拶を交わし医務室を出ていった。
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