第28話

「どうして、あんなことをしたんだ?」



 促されるがまま、屋外へ出たとき――。

 道生さんがそんなことを聞いてきた。雨後の露が残る病院の中庭はヒドく湿気っていて、蒸し暑さを感じさせる。

 まだ真夏の夢から醒めていないのだろうか……?

 そんな錯覚を覚えつつ、俺は道生さんの問いかけに答えた。



「母さんが倒れたのに涙一つ流さないからです」

「だからといって、手を上げていいものじゃない」

「――なら、どうしろっていうんですかっ!?」

「どうしろとは言わない。ただ、今の佳乃の気持ちを考えてやって欲しい」

「……佳乃さんの……気持ち……?」



 いったいそれが何だというのか?

 荒ぶる気持ちを抑えて前を見る。

 すると、道生さんを挟んで向かい側。2メートル離れた先で、佳乃さんが俯いたまま黙っていた。

 道生さんの言う気持ちを表すどころか、それすらひた隠しにして静かに佇んでいる。まるで先ほどの剣幕が嘘だったかのようである。

 佳乃さんはなにもかも見なかったかのような顔つきで目をそらしていた。



「佳乃も慕っていた人が突然目の前で倒れたことで、気持ちの整理が付かないのだろう。そのことを考えれば、涙1つ流せないのは当然のこと」

「だからって何の感情も出さないってのは……」

「わかってやってくれ、睦己。少なくとも、オマエの姉さんなんだぞ」

「……俺の……姉……」



 面と向かって言われても、俺は実感がわかなかった。

 この前、佳乃さんから冗談半分に言われたときはそうでもなかった。だが、この人が俺と佳乃さんの父親だからなのだろう。

 俺には、道生さんが父親であること自体実感がわかない。しかし、母さん告げられてからは、少しは意識しているんだと思う。

 だから、父親という立場から発せられる言葉の重みに逡巡して、熟考して、躊躇せざるえなかった。

 顔を背け、道生さんを見ないようにする。



「ねえ、お父さんは美涼さんのことをどう思ってるの?」



 ところが、唐突にが発せらた言葉に吸い寄せられるように上向く。

 それは紛れもなく、佳乃さんの発したものだ。前方を向くと、いつの間にか顔を上げて道生さんを見ていた。

 それに対して、道生さんは黙していた。

 娘にどう答えるべきか、悩んでいるのだろう。

 俺も道生さんの答えが気になり、2人の会話に耳を傾けた。



「……誰よりも深く愛してる」

「だったら、どうして――っ!?」

「母さんの立場を考えれば、それは言ってはいけない言葉だからだ」

「なによそれ……。自分から不倫しておいて、よく言えるわね!」

「オマエには迷惑を掛けたと思っている。だが、同時に美涼にも苦労を掛けた。彼女は頭がいいから、私がどう思っているのかを知っていたのだろう」

「美涼さんには、面と向かってちゃんと言ったの?」

「言ったさ。しかし、それは3度だけだ」

「3度だけ……?」

「最初に彼女を抱いたときとクリスマスのとき――それと、彼女に別れを告げたときだ」



 と言って、道生さんが口を噤む。

 母さんに対する何らかの思いが込み上げたのだろう。途端に見せたツラそうな顔は、内に秘めた悲壮感を表していた。



「美涼に言われたのだ。『アナタには家族がいる。だから、私に対して面と向かって愛しているだなんて言わなくていい』と」

「…………」

「彼女もわかっていたのだろう。自分が許されざる愛の灯火をともしていることに」



 その一語一句がとても重く感じる。

 まさか母さんがそんな宣告していたなんて……。きっと母さんも俺を身ごもる前から、そうなることを予見していたのだろう。

 募りに募った母さんへの思いが粉雪のように降り積もる。

 それから、俺は心臓のあたりに手を当ててワイシャツを強く掴んだ。締め付けるような胸の痛みを押さえつけようとしたからである。

 刹那、目の前で異変が起こる――。

 突如として、道生さんが深々と頭を下げたからだ。向ける相手は言うまでもなく、愛娘の佳乃さんである。



「……佳乃。今まで本当に済まなかった」

「えっ!? ちょっと……」

「散々、オマエと母さんを振り回しておいて、こんなことを言う立場でないことはわかっている。だが、しかしオマエにはどうしても誤っておきたかった」

「……やめてよ……いまさら……」

「本当に済まなかった」



 口から出たのは、これまでの放任を謝罪するような言葉。

 けれども、謝られた方の佳乃さんはとっさのことに驚いているらしい。

 信じられないといった様子で、胸元で両手を握りしめている。かと思えば、「なによ、それ」と困惑めいたつぶやきを囁いた。



「フザけんなっ!! アンタのせいで、アタシがどれだけツラい目に遭ったかわかってんの!!」



 寸刻の沈黙の後、佳乃さんの口から爆発したような怒りが吹き出した。

 食って掛かっていきそう姿は、今にも道生さんを張り倒さん勢いである。けれども、なによりも印象的だったのは、相反してうっすらと涙を浮かべた顔だった。

 俺が怒りを露わにしたときには、まったく見せなかった涙――。

 それをこの場で、道生さんと対立するという形で表したのである。正直、こんな形で佳乃さんの涙を見るとは思わなかった。



「お母さんの不倫のことも、小学生の頃にアタシがイジメに遭ってたとか知らないでしょ?」

「……スマン……」

「なんもわかんないクセにいまさら謝んないでよっ!!」



 激情に任せて、さらに佳乃さんが叫ぶ。

 気持ちが痛いほどわかる叫びだった――。

 最初は、あんなに母さんを逆恨みしてのに。今では、家族不和の原因である道生さんに真っ正面から当たっている。

 そのことは、俺自身にも複雑な思いを抱かせた。



「……母さんが不倫していたことは知っている」



 ところが、道生さんの口から語られた言葉思わぬモノだった。

 頭を上げて、佳乃さんを対面する道生さんは娘の言葉に向き合おうとする気持ちがにじみ出ていた。



「え? ちょっと待ってよ……」

「おまえが言いたいことはわかる。私が先に不倫してしまったモノを母さんに同じように咎めようとするのは筋違いだと言うことも」

「ちょっと待って! 自分の妻が不倫していて、アンタはそれでいいって言うの!?」



 あまりにも衝撃的過ぎる。

 対面で聞いている佳乃さんも、かなり驚かされたのだろう。道生さんの言葉を飲み込みきれていなさそうな顔をしている。

 けれども、道生さんは俺たちの驚きを予想していたのだろう。

 ただ、短く一言返事した――「それが自分の罪だから」と。



「美涼にも悪いことをした。彼女を愛さなければ、2人の愛する女性をこんなにも苦しませなくて済んだ」

「わかってるなら、なんで……」

「そうですよ。俺にも意味がわかりません!」

「2人とも大人になって、家族を持つようになればわかるさ。誰かを愛するということには、必ずどこかで矛盾が生じてくることを」

「なによ、それ! 不倫を容認するような発言はやめて」

「容認しているのではない。それは誤った愛であったということを言っているのだ」

「……誤った……愛……?」

「私はその違いを理解できなかった……。だから、美涼も母さんも苦しめてしまった。今だからこそ、こんなことを言えるが、正直に言えばそういうことだ」



 その言葉を聞き、道生さんの言葉には後悔の念が宿っているように思えた。

 実際、道生さんはわずかに身体の震わせている。

 俺はその動きを見逃すことなく察知し、道生さんの心境がなんとなくわかるような気がした。



「……本当に済まない。すべては私の責任だ」



 それだけ言って、道生さんは口を噤んだ。

 だけど、これで佳乃さんが納得するようには思えない。むしろ、逆効果だったんじゃないかと思える。

 向かい合って、3メートル先にいる姉はそんな俺の心配に気付かない。

 再び俯いて、考えて、激しく心を葛藤させているようだった。



「……せないで……」



 刹那、佳乃さんがなにかを口にする。

 それは明らかに道生さんに向けた言葉だ。

 しかし、ハッキリと届いてはいないのだろう。背中越しに見る道生さんが明確な返事はなされなかった。

 それがわかったのは、さらに次の瞬間だった。



「勝手に終わらせないでよ!! どうして、そんなに身勝手なのよ!」

「……佳乃……?」

「私だって、ずっと思ってた。子供の頃、お父さんとお母さんが仲良くしないのは、自分がいい子にしてないせいだって」

「……オマエ……そんなことを……」

「神様にだって祈った。2人が仲良くしてくれたら、また大好きな遊園地に連れて行って貰えるって思ってたわよ」

「…………」

「でも、どうして? どうして、自分だけの責任だなんて言うのよ! 私にだって、責任を押しつけてくれもいいじゃない?」

「それは無理だ。私は、私の罪を娘に背負わせることなど出来るはずもない」

「……いいよ。お父さんと一緒に暮らせるなら、私もお母さんと美涼さんに謝りたい。謝って、もう一度家族が1つになれるなら、こんなに嬉しいことなんてないよっ!?」

「佳乃」

「もうはんぶんこはイヤなの……。どっち欠けてとか、もうそういうのはイヤなの」



 堰を切ったように吐き出された気持ち。

 つらつらと並び立てられた佳乃さんの言葉には、今まで溜めていたモノが表れていた。そして、母さんから宣告された「はんぶんこ家族はお終い」の意味も。

 それは、佳乃さんが本来元に戻ることで終結するという意味だったのだろう。



「済まない……。本当に済まない、佳乃」



 ふと、目の前で1組の親子が抱き合う。

 その光景は美しくかけがえのないモノ――決して、俺が入る隙間などない家族の光景だった。

 佳乃さんは、何度も「お父さん、お父さん」と連呼していた。同時にここに来て流すことのなかった涙も……。

 そして、その日の母さんは亡くなった。

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