第17話

 その日、母さんが帰宅したのは22時頃。

 俺は、キッチンに据えられたテーブルに座る母さんに夕方に起きた出来事を話した。。



「へえ、そんなことがあったの」



 と言って、反応を示す母さん。

 大原美涼――それが女手一つで、俺を育てくれた母さんの名前だ。

 ばっさりと切られた髪はサバサバとした性格も相まって、とてもよく似合っていると思う。母さんが長い髪をなびかせていたなんてことがないから、俺にとってもこの短い髪型が母さんのイメージだった。

 普段は、派遣社員とスーパーの店員の二足のわらじを履いて働いている。

 そのため、いつもこの時間に帰ってくることが多い。

 夕食は、常に又従兄弟の渡瀬家で用意してもらっていて、この時間は唯一の憩いの場。大好きな母さんと話せる貴重な時間だった。


「もうこれがさ、ヒドいのなんの……。アレで許してもらえたからよかったものの、その人絶対怪我してたと思うんだよ」



 と、スーパーの半額弁当を食す母を前に愚痴をこぼす。

 そんな俺の言葉を母さんは優しい眼差しできちんと聞いていた。



「でも、睦己も意外なことするわね」

「意外なことって、何をだよ?」

「いや、だって。フツーは、そんな他人の絡まれてるところに首を突っ込まないわよ」

「そう? 俺は、首を突っ込んでも助けるべきだと思っただけだし……」

「フフッ、睦己って案外そういうとこがズレてるわよね」

「おかしいかな?」

「そんなことないわよ。でも、母さんとしてはあんまり無茶して欲しくないかな」

「……あっ……ゴメン……」



 聞いた瞬間、胸が痛くなった。

 言われてみれば、かなり無謀だったかもしれない。当たって砕けろとか、どうにかなるぐらいの曖昧な気持ちで事に当たっていたとも言える。

 そのことを鑑みるに母さんの気持ちをないがしろにしてしまったのだと思う。直後、俺は悲しそうな表情で見つめる母さんを直視できなくなっていた。

 刹那、インターフォンが鳴り響く。

 その音は即座に母さんを反応させ、「はぁ~い」という呼び声と共に玄関に向かわせた。俺は深夜の来客を不自然に思いながらも、廊下の向こうに消えていく母さんの背中を見送った。

 しばし、物思いに耽る。

 馳せていたのは、夕方のポニーテイルの女子高生のことである。ギャル風の女子高生に睨まれ、危うく警察沙汰になるところだった。

 もし、あのまま彼女が絡まれていたら、いったいどうなっていたのだろう?

 可能性の出来事が脳裏に浮かぶ--と、そんな時だった。



「いい加減にして‼︎もう会わないって約束を反故にしたのよっ」



 突然、聞いたこともない母さんの剣幕が聞こえてくる。

 何が起きたのだろう……? 見知った人間と話しているウチに口論になった様子が見受けられる。

 そのことが気になり、玄関先へと赴く。

 すると、中年男性が土間に立っているのが目についた。母さんが声を荒げていた相手は、どうやらこの人らしい。

 整髪剤で整えられた黒髪と、筋骨隆々とした身体。着こなしたスーツは肩幅が広く、明らかに会社員という容貌。

 さらに高い身長も相まって、その容姿は男の俺でも「カッコイイ」と思えるほど。視界に入った瞬間、目を見張るほど釘付けになった。

 けれども、俺はこの人を知らない。



「母さん、この人はいったい……?」



 我に返って、すぐさま母さんに訊ねた。

 ところが、振り返った母さんはヒドく憔悴しきった様子だった。それにどこか俺に見られたことを怯えているようにも思える。



「睦己、あっちに行ってなさい」



 わずかして、母さんの口から『らしくない』言葉が漏れた。

 いつもならば、どんな人でも笑って挨拶するよう促してくる。けれども、母さん自身笑みの1つもこぼれる雰囲気など微塵も感じさせない。

 まるで別人のように怒りを表し、相対する男性を威嚇している。

 そんな様相がとても新鮮で驚きだった。

 俺はその場の空気を察し、何も見ないフリをして去ろうとした――が、途端に背後から聞こえた「睦己か」という声に足を止めざるえなかった。

 声が気になり、後ろを振り返る。

 すると、中年男性が俺を見ていた。



「……大きくなったな……」



 まるで、昔を懐かしむような顔――だが、俺はこの人を知らない。

 知らないからこそ、余計に疑問が沸き立った。俺は、会ったことも人の顔を驚きと共に凝視した。

 ところが、視界を阻まれて男性の顔は見えなくなった。



「この子に話しかけないでくれるかしら。もうアナタとは縁もゆかりもないのよ?」



 母さんだった……。

 俺には、母さんの言っている言葉の意味がよくわからなかった。だから、男性に興味もわいたし、知りたいとも思った。

 けれども、俺を見る母さんの顔に「あっちに行け」という言葉が書いてあった。

 その空気がヒシヒシと伝わってきて、俺は促されるまま居間に戻った。



 ※



 学校、教室、騒ぎ立てるクラスメイト。

 明くる翌日、俺は代わり映えのないいつもの日常を送っていた。

 ただ、忘れられないことがあるとすれば、昨日起きた一連の出来事。置き引きをしようとしていた少女、突然の来客に豹変する母さんの様子。

 まるで人生がドラマティックに変化しようとしている――そんな風にも思える。



「次に怒ることは何だろう?」



 なんて考えたくもなったが、あまりいい予感がしない。

 むしろ、一度に色々起きすぎて頭の中が詰め込みすぎたバッグのように一杯一杯になっている。



「なあ、睦己は夏休みどこか行く予定はあるのか?」



 そんな俺の心を紛らわせてくれたのは、いつもつるんでいる友人たちだった。

 終業式を明日に控え、一足早く夏を満喫しようと浮き足立っている。

 もちろん、俺もそのことには同調せざるえない。だが、昨日の出来事が心の底に刺さった針のように根掛かりして外れなくなっていた。



「夏休みかぁ~。特に予定とかは考えてなかったよ」



 と会わせるように言葉を返す。

 すると、友人が楽しそうに語りかけてきた。



「ならさ、一緒に海行かね?」

「……海?」

「ああ、実はこの前此奴らと話してたんだが、女子も何人か誘って行けたらなぁ~なんて思ったんだよ」

「オマエ、それ夢見すぎじゃないのか?」

「いいじゃねえかよ。俺は、それぐらい夢のある夏休みにしたいんだ」

「夢のある夏休みね」



 とても楽しそうに話す友人を前に呆れた顔をしてみせる。

 決して、女子に興味がない訳ではない。だが、こうも熱意を持って話されると、気後れしてしまうものだ。

 俺は、夏休みの予定をぼんやりと考えた。



「そういや、睦己。この前、ゲーセンで女子高生と絡まれたんだって?」



 ところが、打って変わって思わぬ話が飛び出す。

 それは、先日の一件のこと――なぜ彼が知っているのか?

 口ぶりから察するに誰かに聞いたのだろう。からかおうとする目からは、いかがわしい妄想が入っているのが悟れた。



「ああ、ちょっと置き引きしようとしてた女の人を止めたんだ」

「止めた……? オマエ、よくそんなん止める勇気あるな」

「そう? 盗ろうとしてた相手にも見つかって脅されてたし、こりゃあマズいなと思って助けに入っただけだよ」



 そう言うと、友人から「それこそスゲェよ」という言葉が漏れた。

 確かに言われると、我ながら大胆なことをしたと思う。そのことは、母さんにも言われて反省はしているつもりだ。

 けれども、人間どうしても信念から譲れないモノがある。その譲れないもののせいで、俺は毎回首を突っ込んでいた。



「言いたかないが、あまり首を突っ込みすぎると本当に痛い目に遭うぜ?」

「わかってるよ。その辺は、母さんにも言われて理解してるつもりだから」

「……で、その女子高生のお姉さんはどうしたの? 名前とか連絡先とか聞かなかったわけ?」

「聞くわけないじゃないか。第一、俺は置き引きしようとしたのを止めただけなんだぜ」

「なんだ、つまんねえヤツ」

「別にいいだろ。たまたまそういう場に遭遇して、助けたってだけなんだし」

「まあ、睦己がそれでいいってんならいいんだろうけどさ……。しっかし、なんでまた泥棒みたいことすんだろうな」

「知らないよ。俺だって、聞きたいさ」



 問われてみて、どうしてそんなことしようと思ったのか自分でもわからなくなった。だから、友人の言葉に思考を巡らせてみる。

 しかし、わからなかった――とっさの判断だったからだ。

 一考した後、俺は考えることをやめた。不意に横から「あのさ」と声が上がり、意識が完全にそちらに行ってしまったせいでもある。

 振り向くと、もう1人の友人が話しかけてきた。



「俺んちの近所に超悪の高校生いるんだよ」

「不良の高校生?」

「ああ、ウチからも近いからたまにガラスとか割れて家の中の声が漏れてくるんだけどさ。それが結構荒れてるみたいで、親を罵倒する声が毎度聞こえてくるんだよね」

「それとこれと何の関係があるんだよ?」

「たぶんだけど、その女子高生も家絡みで荒れてるんじゃないかって話。ぶっちゃけ、俺も最近親がウザくてしょうがないし」

「そういうもんかな?」



 と、声に題して疑問を呈す。

 どうも彼らからすると、ウチはかなり特殊らしい。

 母さんと喧嘩するなんて年に1~2回あるかないかぐらいだし、食事も仲良く揃って食べる。

 こんな家族は今時珍しいそうだ。



「睦己んちはいいよなぁ~。母ちゃん美人だし、スゲェー優しいしよ」



 だからだろう――。

 対面に座る友人からやっかみを言われてしまった。

 俺からすれば、親と仲良く暮らすことは普通のことなんじゃないかと思う。でも、2人に言わせれば、反発がない方がおかしいらしい。

 俺は2人の言っていることがわからず、思わず首をかしげた。



「家族ってなんだろうなぁ~? いればありがてえけど、いても結局あれこれ言われてウザいったらありゃしない」

「それは、僕もわかるよ。ウチの親、来年受験だからってもっと勉強しろとかうるさいし」

「いいじゃん。二人ともきちんと両親がいて、兄弟もいるんだし」

「俺からすれば、オマエんちの方が羨ましいぜ。自由にさせてもらってる上にあんな美人な母ちゃんと一緒なんだから」

「そうか?」

「俺が睦己の母ちゃんの子供だったら、何でも甘えて色々してもらっちまうな」

「それロクに何もしなくて怒られてるパターンじゃないか?」



 俺がそう言うと、友人2人から笑い声が上がった。

 ふと、あることが脳裏をよぎる。



( あの人は、どういう理由で置き引きなんかしたんだろう……?)



 そう思うと、どうにも気になって仕方がなかった。

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