無罪放免 arrest
鹿王は
膝を折り、氷の支配する大地につける。
「うごぉぉぉぉぉ」
悲痛の咆哮を上げ、天を仰ぐ。朝靄のかかる天には、まだ薄らと星が姿を見せている。
何億光年も過去に放たれた光が時代を越えて、現世の夜空に降り注ぐ。
儚く消えようとしているそれを何千年の時を経て、巨人が見るなど誰も想像のつかなかったことだろう。
鹿王はふと口元を緩めた。それが刻三には笑ったように見えた。
そしてそのまま鹿王は大地へとひれ伏した。
刻三は滑るようにして、インテグラの作り上げた氷の坂道を下る。
スーツは風を受けて、音を立てて靡いている。
伸びてきた髪も風邪を影響で逆立つ。
頬や手など、覆っているものが無いところでは冷たい風が容赦なく皮膚に突き刺さる。
針を突き立てられ続けているようで、とても痛い。
しかし、下の状況だって気になる故に、刻三は降りる速さを緩めることはない。
見下ろす景色は一言で表すならば、絶景。全面を氷で覆われた世界を一望できるのだ、絶景でないはずがない。
本当はもっとゆっくり眺めたが、状況が状況なだけに刻三は一瞥するだけで、地上へと
走った。
***
刻三が鹿王の頭目掛けて氷の道を上がった瞬間、インテグラは吹き飛ばされたストークの元へ駆け寄った。
「大丈夫か!?」
強い意志のこもった声で訊く。
「ごほっ……。い、や……っ。ごほっごほっ、もう、無理だ……」
額から鮮血を垂れ流し、右腕もあらぬ方向に曲がっている。
咳き込みながら血を吐き捨て、氷の大地に毒々しい花を咲かせた。
「何いってんだよ!」
インテグラは込み上げてくる涙を思いのままに流し、鼻声になりながらも訴える。しかし、思いは届かずストークは小さくかぶりを振った。
「あとは……任せた」
ストークはインテグラの顔に触れようと手を伸ばすも、寸前で力尽き、容赦なく大地に叩きつけられた。
「ストークぅぅぅぅ」
断末魔にも似た叫びが轟き、インテグラは死んだストークの胸に顔をうずめた。
「来る!」
千佳のその声は突然だった。拳が降ってくるわけではない。しかし、鹿王は世界樹の如く脚を動かし始めたのだ。
それだけでも威力は常軌を逸している。
リアナは巫女の能力を解放し、
「何……?」
クララからあがったその言葉は、その場にいる全員の言葉を代弁したものだった。
それもそのはず。鹿王の脚は動いた。しかし、それは攻撃というにはあまりにも雑で先ほどまでのそれとは、別人のようにすら感じる。
上で何が起こっているのだろうか、リアナはそんなことを考えながら、襲い来る脚を回避する。
地団駄のような脚の強襲に全神経を研ぎ澄ませ、リアナやクララ、千佳に美紗希は避ける。
だが、インテグラだけは未だに声を上げて泣いていた。
***
「ただいま」
刻三は氷の坂道に下りきりそう洩らす。しかし、大地を見て刻三は息を呑まざるを得なかった。
見渡す限りにクレーターが存在し、明らかに刻三が上に行くまでより酷くなっている。
──何があったんだ
悔しさからか、刻三は奥歯を強く噛み締めていた。
そして次に巨大な不安が押し寄せてきた。
千佳は……、リアナ……は、みんなは無事なのか? 頼む、生きてくれ……ッ!
何度周りを見渡しても、誰1人と見当たらない。
潰れた……とかないよな?
立っていることも息をすることもままならなくなり、刻三はその場に
「おーい」
そんな時だ。遥か彼方から囁くような音が耳に届いた。刻三は僅かな音を頼りに、凍りついた白いレンガのビルの隙間へと急いだ。
「千佳……。みんな……」
何も変わらぬ皆の姿に安堵を洩らしながら、刻三はニカッと笑った。
「鹿王は倒したぜ」
親指をぐっと突き立て、誇らしげに言うとクララは張り詰めいた表情を解き、柔らかな表情に一転する。
「良かった……」
「本当にやったの?」
「あぁ、たりめぇーだ」
半信半疑の目で問う美紗希に刻三は胸を張って答える。
「そうか」
そこへテンションの低いインテグラの声が洩れた。
どうなってんだ? そう思いながら刻三は言葉を紡ぐ。
「どうした?」
その言葉を聞くなりインテグラは、項垂れて何も話さないぞといったオーラを醸し出す。
「死んだのよ、ストークが」
代わりに沈んだ表情に厳かな口調で美紗希は告げた。
「──そ、そうなんだ」
刻三はインテグラから視線を逸らし、ポツリと呟く。
「そ、それより! お兄ちゃん、指名手配だよ!?」
突然放たれた千佳の言葉に刻三は目を見開く。
「な、なんだと!?」
喘ぐように叫んだ声は、まだ薄らと暗い朝靄のかかる空へと吸い込まれる。
「──ごめん」
長い沈黙の後、美紗希の短い謝罪がハッキリと刻三の耳に届いた。
「どういうこと?」
それを待っていたかのように、間髪入れず千佳が訊く。
美紗希は黙ったまま答えない。いや、実際には答えられないのかもしれない。
「AAが関わってるんじゃない?」
沈黙を破ったのはクララだった。そしてその単語を聞くなり、美紗希とインテグラはわかりやすく動揺する。
やっぱり……。そう言わんばかりにクララはため息をつく。
「あの組織は普通じゃないわね。どうやっても刻三を殺したいのかしら……」
クララは強く拳を握り、眉間にはシワを作っている。
「お前たちは……一体……?」
インテグラは弱々しく掠れた声で訊く。
「私たちは──」
クララがその問いに答えようとした刹那、けたたましいサイレン音が轟いた。
「チッ、命あるものの氷を溶かしたからか……。めんどくせぇことになったな」
刻三は小さく毒づき、落としていた腰をあげる。
「どこへ行く?」
インテグラは頭を動かさず、視線だけを動かし訊く。
「どこって言われると決めてねぇーよ。誰かさんのせいで、追われる身となったからな」
おどけるように告げ、刻三は足を動かそうとする。
「待て」
インテグラは刻三の袖を掴み、刻三をその場から動かそうとしない。
「んだよ。早く逃げねぇーと捕まんだろうが」
「悪かった……。事情は説明してやるから、ここにいろ」
インテグラは俯いたまま、バツが悪そうに頭を掻く。
「──信じて……いいんだな?」
こうしているうちにも、どんどんとサイレン音が近づいてくるのが分かる。
インテグラの表情は至って見ない。しかし、力強い首肯が全てを物語っていた。
「だから教えてくれ。AAとは何なんだ?」
ようやく顔を上げたインテグラは、真摯の眼差しで刻三やクララを見た。
「これといって知っていることはないわ」
とクララが紡ぐ。
「俺は、俺が狙われているということ以外何も知らない」
刻三も続く。
「じゃあ、何で……」
「私が、AAの指令で刻三を殺そうとした事があるからよ」
喘ぐように訊いたインテグラは、クララの言葉に絶句する。それはリアナも同じようで刻三とクララを交互に見ている。
「まぁ、そういう事だ」
刻三はそうまとめ、眼前に止まったパトカーに目をやる。
「勝負時だ」
刻三は自分を鼓舞するためにも、そう呟きビルの影から姿を出した。
「動くな!」
拳銃を構えたリバール国では平和の象徴、という花言葉のロロノアが刺繍された警吏の制服を着た、筋骨隆々で彫りの深い顔立ちの男性が声を張る。
刻三はゆらゆらっと両手を上げ、抵抗しないという意思を告げる。
だが、警吏は油断するどころか更に表情を引き締め、1歩1歩と刻三に近づく。
「待てっ!」
そんな時だった。インテグラの声が凍りついたビルや家屋に当たり、文字通り響いた。
「誰だッ!」
男は刻三の味方が出てきたと思い、拳銃を声のした方へと向ける。
だがインテグラは負けない。
「誰に銃を向けている。私はログモル・インテグラだぞ!」
「な、何……!?」
男は狼狽えながらも声を放つ。
「さぁ、銃を下ろせ」
「インテグラ様はお亡くなりになられたはずじゃ……」
警吏隊隊長の御曹司と名乗る者が本物なら、自分は警吏として大問題である。しかし、偽物ならば銃を下ろしたことが問題になる。
板挟みになった男は銃口の上半分を向けたまま、下半分を下げた。苦肉の策というやつだろう。
「スワ巡査!」
隣に立つ警吏の中では細身で若い男が、怪訝そうに銃を半分下ろした男──スワを呼ぶ。
「ミノワは黙ってろ」
スワは若い男をミノワと呼び、年長者の威圧で一蹴する。
「私は本物のインテグラだ。そして、今回の事件の首謀者だ」
俯き加減でそう吐き捨てる。スワとミノワは目を点にしている。
「そうよ。そして私もその一員」
更にビルの物陰から現れた人物が言う。ロロノアを胸に抱き、平和を掲げる警吏の服を纏った女性だ。
「えっ……。美紗希警吏殿……」
殆どが空気のような声だ。スワは信じられない、といった様子で犯行を認める発言をした美紗希を見る。
「ということだ。捕まえるなら私と」
「私を捕まえなさい」
狼狽するスワとミノワ対してインテグラと美紗希は、意思の据わった瞳を浮かべそう告げた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます