聖紋の花姫

左安倍虎

ヒベルニアの調香師

 頬を上気させながら、カルナは王宮庭園への道を急いでいた。

 最近ようやく一級国家調香師の試験に合格したため、この王宮庭園への出入りを許されたのだ。

 入口近くに咲き誇る谷ラベンダーの香りに目を細めながら、カルナは庭園の中へと歩みを進める。

 

 ヒベルニア王国では香道が盛んだ。調香師が草花から抽出した素材から作り出す独自の精油は精神安定から安眠、そして免疫力の増加など幅広い効能を持つことが知られており、その技術は他国の追随を許さない。そんな恵まれた環境で働けることをカルナは誇りに思っていた。


(ええと、ヒベルニアヤマユリはどこかな)

 

 世界各国の草花が咲き乱れる王宮庭園の中で目的の花を探すのは簡単ではない。本当は名札でもつけていてくれれば楽なのだが、必要な花を素早く探し当てる能力も調香師に求められる資質のひとつだ。

 庭園の端を時計回りにしばらく歩くと、薄桃色の百合が逆さに垂れている一角があり、カルナはそこで足を止めた。


「薄紅色に細い白線……うーん、実際に見たことなんてないからなあ」

 

 ついカルナの口から独り言が漏れていた。香道長からヒベルニアヤマユリの特徴については聞いているものの、実物を見たことのないカルナにはただのヤマユリとの区別が難しい。

 淡い紅色をにじませるヤマユリはそこらへんに咲いているけれど、この中からヒベルニアヤマユリを見つけ出すのは至難の業だとカルナには思えた。


「もしかして、お探しの花はこちらではないですか?」

 

 カルナの背後から優しげな声がふりかかった。振り返ると、そこには白皙の青年が微笑を浮かべてたたずんでいた。黒曜石のごとき黒髪はまっすぐにその背中に流れ、名匠が大理石から切り出したような顔面の造形美をさらに際立たせている。あまりに整った青年の容姿に、カルナは思わず息を呑んだ。


「ああ、すみません、驚かせてしまいましたね」


 青年の指さした先に咲いている百合の薄紅色の花弁には、一筋の白線が走っている。これは確かにカルナの探していたヒベルニアヤマユリに違いない。


「どうして、私がこれを探してるってわかったんですか?」

「こちらには調香師の方がよくこの花を探しに訪れるのでね」


 青年はよくこの庭園を訪れているらしい。


「あ、やっぱりわかっちゃいましたか」


 今日は休日だから普段着で訪れていたのに、花の香を嗅ぎまわる仕草から青年はカルナが調香師だとすぐに見抜いたようだ。


「あなたは、よくこちらに訪れるんですか」

「ええ、ここは落ち着けますからね。こうして花を眺めながら過ごす時間が、僕の一番の楽しみなんですよ」

「調香師の方じゃないですよね?ここに出入りしているということは、非番の衛士さんですか?」


 カルナは思いついたことを言ってみた。青年は穏やかな笑みを絶やさないが、その瞳の奥にはどこか鋭さも感じさせる光がある。


「衛士、か。彼らほど何を守るべきかはっきり決まっている立場なら、僕も楽なんですけどね」

「ということは、植物学者さんとか?」

「植物の探求に一生をかけることができるなら、それは理想の生涯と言えるかもしれない。でも、今の僕にはそれはできないんです」

「うーん……じゃあ何だろう?ここに自由に立ち入ることができて、花が好きな人と言ったら……」


 カルナが首をかしげながら推理を働かせていると、白皙の青年はカルナの右手の方向を指さした。


「立ち話もなんですし、よければあちらに座って話しませんか」


 青年の指さした方向には、大理石で作られた椅子があった。カルナは勢いよくうなづくと、青年の示した方向へ歩き出した。


「へえ、花のこと、ずいぶんお詳しいんですね。私なんかよりずっと」


 カルナは青年の名も聞かないまま、いつの間にか半時ほども青年と話し込んでいた。青年の知識は草花の種類からそれぞれの薬効、地域ごとの分布など幅広い範囲に及んでいて、職業柄草花に詳しいカルナも目を開かれる思いだった。


「でも、やっぱり何をしてる方なのかは教えてくれないんですね」

「人には、知らないほうがいいことだってあるものですよ」

「これは知っておいたほうがいいことだと思いますけど」


 カルナは表情を引き締めた。いくら感じの良い青年でも、正体不明な人といつまでも話し込んでいるのは一抹の不安が残る。


「まあ、それはこの次にお会いしたときにでも話しましょう。では、私はそろそろ行かないと……」


 青年はそう言って立ち上がると、カルナの方を振り向いた。その途端、青年は急にぐらりと体勢を崩し、カルナの方へと倒れ込んだ。


「あ、あの、大丈夫ですか?」


 上背のある青年の体は思っていた以上に重い。カルナはようやく青年の体を受け止めると、大理石の椅子に横たわらせた。


「大丈夫です。ときどき、こんな風になるんです。しばらく休めば治ります」

「全然大丈夫じゃないでしょう。顔、真っ青じゃないですか」


 青年は椅子の上で荒い息をついている。調香師であるカルナにも医学の基礎知識はあるが、そのカルナの目から見ても青年の容態はとても放置して良いものには見えない。


「私の寮ならこの近くですから、そこでしばらく休んでください。今はとにかく安静にしないと」

「ですが、女子寮になど入るわけには」

「今はそんなこと言ってる場合じゃありません。調香師だって国民の健康に責任を負ってるんです」

 

 カルナは青年を背負うと急いで王宮庭園を抜け出し、国家調香師の女子寮へと駆け込んだ。

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