浦島貫太郎

チョトマテクダサイ

第1話

高度経済成長真っ盛りの東京から二五年経ち、立派な成人男性になった浦島貫太郎は未だ定職に就かず、日雇いでの肉体労働でもっぱらの生計を企てていた。その日も海沿いにある加工場で、冷凍のイカの固まりを一日中抱っこして過ごしており、昼休みには溶けたイカの液と相まって汗ずくみになった下着や制服を乾かしに海岸沿いのテトラポットへ足を運ばざるを得なかった。


 日がな、こうしてただ決まりきった事をやることには少々飽きも出てくる。根がスタイリストに出来ている貫太郎にしてみれば、薄汚れた作業着に、イカ臭をまみれさせながら過ごすというのもどうにも慊い。ならばいっそファミリーマートでその手の雑誌をつまみ、股座を開いてこちらを妖艶に睨み付ける女を眺めながら己のイカ臭にまみれた方が幾分ましではあった。物思いに更けながらハイライトに火を付け、ふと目の前の地平線を眺めるとまだ海水浴をするには早いというのに、そこには女が一人海岸に寝そべっている。緑色のワンピースが海水に濡れてより濃くなっているのが遠目からでも分かった。その横顔は、どんなに頭のいかれた女だろうと関係無いくらいの美貌だった。股間に熱がこもり始めるのを感じながらしばらく眺めていると、男が二人、女に駆け寄っていくのが見えた。もちろん、ここで女が奴等にニコリとでもしようものならば、ヤリマンのカマトトが、ナンパ待ちのサンピー狙いか。どうせマンコは腐った生魚の匂いなんだろうと罵声の一つでも投げかけて、仕事へ戻るつもりではあったが、どうやら状況はそうではないらしかった。貫太郎の予想に反して、女はオドオドと怯え、男たちの手を払いのけるに必死だった。


 素人女との縁は十代の時に此奴ならいけるだろうと声をかけた蓄膿症の女一人。それもおそらくだが、処女ではなかったし、恫喝につぐ罵声でもって関係を終えた後味の悪さも、今だ昨日の事のように思い出される。ならば、ここでひとつ心も体も清く美しい女の人と、どこまでもプラトニックな愛を育んで、これまでの報復にするのも悪くない。根が正義感の強さで出来ている貫太郎はようやく重い腰を上げ、ある種異様なその集団の元へ足を運んだ。


 しかし、相手は男二人。それにこれからプラトニックな関係を育む女の目の前で乱暴な姿を見せるというのはちと頂けない。


「よさねぇか、彼女嫌がってるだろ」


「部外者は黙ってろよ」


「二人掛かりで女を口説こうなんて、男のするもんじゃないと僕は思うんだが・・・」


「黙れイカ野郎。さっきから臭いんだよ」


「なに、このっ、人が下手に出てりゃ、調子に乗りやがって」


 ヘラヘラとまるで此方を相手にしていない態度には初めから苛立ちはあったものの、極めて冷静に事を運ぶつもりだった貫太郎も、最後の至極真っ当な相手の言い分にスイッチを押された態にして結局ぼかすか殴り合ってしまった。時折、キャー助けてーと女の声が聞こえるが、助けてほしいのは此方のほうである。なんでまた、欲望に負け、岡惚れしてしまった、どこの誰とも知らぬ女の為に、こうまでして体を張っているのか。これが工場に知れたら首どころか、今日の分の賃金を頂戴するのも危うい。なんとしてでも、女とシックスナインしなければどうでも慊なかった。


「おい君、逃げるぞ」


「無理よっ」


「ど百勝が、黙って僕についてこい」


 女に告げると同時に、狙いを定めていたチンピラの急所目がけてチョップをくれてやる。その場にうずくまった連中を置いて貫太郎は女の手を握りしめとにかく走った。繁華街を抜け、ドブ川にかかる橋を渡った先にある小さな古書店をめがけて突き進む。古書店は貫太郎が日雇い帰りにパトロールする店の一つだった。店の裏まで来ると、ようやく平常心を取り戻し、息を整えながら改めて女の姿を見やる。横顔は確かに美しい曲線であったが、正面から見ると、わし鼻で化粧気の無い十人並みのごく普通の女だった。それでも琥珀色の透き通る肌といい、緑色のワンピースから投げ出された太ももはどうにもそそられるものがあり、貫太郎を見つめる女の目にこもった絶対的な信頼に、無理をしてでもこの女を助けてよかったと思わされた。


「お礼をさせてください」


待ちわびていた言葉を聞くと、根がジェントルマンに出来ている貫太郎は、当然の事をしたまでだと女に告げて、その場を去ろうとしてした。もちろんこれには、どこまでも女が追いかけて来るのを期待してである。だから女が「待ってください。お礼をさせてほしいの」と背を向けた貫太郎の右腕にしがみついた時には天にも昇る気持ち。すでに相思相愛であると確信し「仕事に戻るからここに連絡ちょうだい」と三畳一間の下宿先の番号を告げた。


 いつもなら近所の安酒場で冷酒を煽り、どんぶり飯で腹を作ってから寝に帰るのだが、今日ばかりはいつ女から連絡が来ても良いようにまっすぐに帰宅する。ただひたすらに玄関先にある共同の黒電話が鳴ってくれる事を祈った。時折、帰宅してきた他の住人と鉢合わせになり冷ややかな視線を浴びるが、そんな事よりも、見知り合ったばかりの名前も知らぬ女からの電話を自分以外の誰かに取られてしまうのだけはどうでも避けたかった。こちらの名前だって伝えていないし、いたずら電話だと切られてしまうくらいならば、こうしてここに居たほうがいいのである。で、しばらくすると電話が鳴り、取ると予想通り昼間の女からで、その内容はなんとも嬉しい誘いだった。「明日、夜に○×の前にて待ちます。必ずあなたお一人でいらしてください」

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