記上のクーロン

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序章

「師匠、手紙出してきましたよ」

 そう言いながら字医文章(あざいふみあき)は薄暗い書庫の中へと降りていった。

 年期の入った木製の階段を一段一段降りていくにつれて、微かに流れる風は徐々に涼しくなり、それと同時に紙とインクの匂いが濃くなっていく。

 階段の半ば、およそ大人二人分の高さを降りたところで、文章は書庫の中へと目を向けた。

 そこには広大な闇があった。床や天井を見ることはできず、柱の代わりに天地の間を巨大な本棚が見渡す限り整然と並んでいる。さながら、本棚で造られたジャングルといった様相を呈していた。

 棚の作り出す幾つもの平行線の先には闇しかなく。その闇を見つめていると、得体の知れない何かが蠢いているかのような錯覚に囚われそうになる。

 師匠である祖父の書道(かきみち)から、この書庫のことを知らされて約三年。

 文章が未だに安心して行動できるのは、ベースと呼ばれる書庫の入り口にあるデッキ付近だけだった。

 それより先に進もうとするのなら、それ相応の覚悟と力が必要となる。

 そのことを彼は、体を這い回るような不快感とともに身をもって体験していた。

「…………」

 文章はしばらく見つめていた闇から視線をはずし、階段を再び降り始めた。

 下に見えるベースの第一研究室に目を向けるが、師匠の姿は見当たらない。

 この書庫を見せられて師匠と呼ぶようになるまで、文章は祖父のことをただの変人だと思っていた。

 考古学者として世界的には有名らしいが、その豪快な性格と奇怪な言動には常軌を逸したところがあった。

 それでも多くの友人から信頼を得ているらしい祖父を理解し、ましてや、その後を継ごうと決意したのは、この場所を見せられたことが一番大きかったと言っていい。

「一番古い友人との絆か……」

 そんなことに思いを馳せていると、ゆったりとした足音とともに聞き覚えのある声が聞こえてきた。

「おお、文章君。商店街の様子はどうだったかね」

 落ち着いた声の主は、暗闇の向こうから大柄な柔道着姿で現れた。

「師匠、商店街は相変わらずでしたよ。レアな駒が手に入ったとか、とある国の機密文書にはアレなことしか書かれていないとか、俺には何のことだかさっぱりです」

「そうかそうか。変わってないのならいいんじゃが……。こっちは少し面倒なことになってな」

 豪快に笑いなが言う師匠――書道の手には一冊の本があった。

 小さいながらも金色の錠前のついた鮮やかな赤表紙の本。

 書道が肌身離さず持ち歩き、誰にもその中身を見せたことのない書物。

 そして、この広大な空間の管理者の証。

 その表紙にはアルファベットが五文字並んでいた。

『SEALS』

 それを見た文章の顔色は、その表紙とは対照的なものになった。

 書道は「英知の宿りし書」と言っているが、それからは人に畏怖の念を抱かせるような息づかいを感じることがある。

 未知への恐怖ともいえるような、できれば近づきたくないと思わせる雰囲気がそれにはあった。

 文章は、自分が緊張していることを自覚しながら、それでも平静を装って口を開いた。

「それじゃあ、俺は用事があるので、師匠の邪魔にならないように帰りますね」

 書道は帰ろうとする文章の言葉を無視し、その頭をわしづかみにすると大机の前へと立たせた。

「まあ、遠慮するな。多少緊急を要するのでな、文章君も手伝ってくれ」

 そう言うと書道は大机に本を置き、胴着の内側から小さな金色の鍵を取り出した。

 本の小口側で表紙同士を繋いでいる錠前の鍵穴へと、その鍵を差し込み、右へと回す。

 文章の耳には、解錠を知らせる小さな金属音が、やけにはっきりと聞こえた。

「例のページを」

 書道は、本に向かってそう言うと表紙を軽く二回叩いた。すると、開いてもいない本からページが一枚だけ音もなく滑り出し、そのままの位置で静止した。

「文章君、これをどう思うかね」

「どうって……、真っ白ですけど」

「そうなんだ。真っ白なんだよ」

 書道は、腕組みをしながら険しい顔を浮かべている。

「はあ……」

 文章は何も書かれていないページを前に、ただ気の抜けた返事しかできなかった。

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