君と僕のリサイタル
灯火野
『恋人』と『仲良し』と『好き』
普段通りに呼吸しているだけなのに、吐息が白くなる現象はどこか生命を感じさせる。ただ、誰にも生じるこの現象のはずなのに、彼女に対してだけは誰よりも神秘的で清白でどこか妖艶なものに映るんだから僕は恋をしているんだろうと認めざるを得なかった。
クリスマス近づく年内最後の登校日、レポートを提出してから学校を出たら校門辺りに彼女の姿を見た。僕も彼女も大学付近に居を構えているけれど、大学から見たらその方角は全く別々だ。
「おつかれ、今帰り?」
彼女のことを追うような形になって、少し小走りになってしまったかもしれない。内心の焦りを悟られまいとしながら声をかけるのは存外に難しかった。
「ううん。これから塾のバイトで、駅まで。そっちは?」
「僕はもう帰るだけだけど、少し買い物していこうかなと思って。駅の向こうの店まで」
「そうなんだ、じゃあ途中まで一緒に行こ」
やっと冬休みね、と笑う彼女。先ほどの嘘に対する罪悪感は微塵もなかった。
もっと正確に言えば、その罪悪感を打ち消すほどの幸福感に全身が満たされていた。
先ほど終えたばかりの試験の出来や年末の過ごし方といった、他愛無い話をしながら歩いていた。今日は12月22日。周囲の様子がわくわくしているのは、明日から冬休みが始まるからというだけの理由じゃないと思う。
『クリスマスか、今年も縁のない日がやってきたぜ』
『その日バイトでレジに立たなきゃなんだよな……幸せそうなカップルを何組見ることになるんだろう……辛い……』
男子が多い理系学科だと、どうしても独り身の男子が目立つ。そして彼らはこぞってこの時期になるとひがみっぽくなる。話は学科女子の話に変わる。
『女子で暇な子いないかなぁ。うちの学科で今彼氏持ちなのは確か……』
そこから先の会話もちゃんと耳にしたはずなのに、時間が経つにつれ情報が僕の中で歪んでしまいそうで怖かった。
『あの人は、いるってさ。遠距離らしいけどね』
「年末は、部屋の掃除しなきゃかなあ。もう汚くて大変……あっでも」
その情報がそもそも間違いであれと思った。
その情報が古くて、実はもう別れてて……みたいなことも願った。
付き合っている人はいるけど実は心は冷めてて……という展開もなくはないだろうと期待した。
「明々後日から友達と一泊二日で遊ぶんだ。だから掃除は帰ってきてから、急いでやらなくちゃ」
その笑顔は僕に向けられているようで、きっと違うんだと僕は悟った。
彼女と話す機会は、少なくとも他の男子よりは多いはずだと自負している。仲良くなったきっかけって何だっただろうか、とぼんやり考えていた。
「電車、いつくる?」
「んーと……あと20分くらい待たなきゃかな。帰る?」
「いや、僕ももう少し時間あるから、見送るよ」
「ありがと。電車待ってる時間って、そんなに悪いもんじゃないよね」
そういいながら彼女はポケットからスマホを取り出す。ふと見た待ち受け画面には大映りしたアコースティックギター。
「ギター変わってる?」
「うん、最近こっちのギターを使ってることの方が多いの」
楽しそうに話す彼女は本当に相変わらずで、そうなんだ、と僕はいつも通りに答えることが出来た。僕はギターを弾くことは出来ないけれど、楽器には興味があった。いろいろな楽器会社の目玉商品や新商品を調べてはその特徴を調べたり、有名なアーティストが使う楽器について調べたりするのが好きだった。
そんな僕がその待ち受けについて言及したのが確か、彼女とのささやかな関わりのきっかけだったように思う。
そうこうしているうちに電車がやってくる。ドアやヘッドライトをはじめ車両のところどころが凍り付き、冬の深さを物語る。
「それじゃあ帰りも気をつけてね。……よいお年を」
「またね」と言いたかったけれど、なんとなく言えなかった。
先ほどの会話、ギターを使っている、の主語は彼女ではない。その主語は、彼女が敬愛してやまないアーティストのことだ。
『この待ち受けにしてると99%楽器やってると思われる。残りの1%、正解に辿り着いたのは今のところあなただけだよ』
『なんでその人の画像にしないの?』
『……いつも見る画面に好きな人がいたら、照れくさいじゃん。好きな人が好きなものを身につけてるだけで十分』
僕は確かに、彼女がどれだけ趣味に対して愛情を注いでいるかを知っている『仲良し』だけれど、『恋人』じゃない。しかし『仲良し』のくせに彼女に彼氏がいることは知らなかった。クリスマスを前にして、恋人でない彼女に「またね」と言うことは、なんとなく良くない呪文を彼女にかけてしまうような気がしたのだ。
「うん、よいお年を。またね」
そんな僕のためらいなどまるで知らぬかのように、彼女はぱっと花咲くような笑顔で僕に手をふりかえす。自動改札に定期をかざし、ドアに群がる群衆に彼女がまぎれる。
もう一度振り返って僕に手を振ってくれないだろうかと、僕は彼女の背中を見つめ続ける。車両に乗り込んで窓越しに誰かに手を振る人の姿も見えた。僕の胸の鼓動は少し高まる。
あっと気づいたような表情の彼女。
僕の方を振り向いてくれるかと思いきや空いている他の乗降口を見つけただけのようで、駆け寄って乗り込み、やがて彼女の姿は見えなくなった。
笛の合図とともに扉が閉まり車両がレールを滑り出すまで、僕は改札の手前でぼうっと立ち続けていた。さっきまで多くの学生でごった返していたのに、なんと閑散とした駅に早変わりしてしまったのだろう。
「またね」の呪文は、なんてよくない呪文なんだ。
僕はなにかあたたかいものを胸に投げつけられたまま、ぎゅっと新雪の上に足跡を付けながら帰路についた。
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