人生攻略本
男は本屋さんに来ていました。
男の唯一の趣味は読書でした。日々の仕事で疲れた男を癒してくれるものは、現実を忘れ、たくさんの本に秘められた、たくさんの世界に浸ることでした。
だからその日も男は、新しい世界を探して本屋さんに来ていました。
天井まで届くほど高い本棚を眺めているうち、ある一冊の本の背表紙が、男の目に留まりました。
「『人生攻略本』」
男は声に出して本のタイトルを読み上げると、本棚から抜き出しました。昔懐かしいゲームの攻略本を思い出させるようなきらびやかなフォントと、『勇者』じみた甲冑を身に着けた少年のイラストが描かれた、見ているだけで心躍る装丁のその表紙には、大きな飾り文字で『人生攻略本』と綴られていました。
よくある自己啓発本だろうと、男は嘲笑気味に本を開きました。
『本書は人生攻略本。キミが人生においてつまずいたり、苦しかったりしたときの攻略法を教えるよ。本ははじめ、真っ白のページばかりだ。でも、キミが人生の苦難に阻まれたとき、きっとこの本には新たなページが書き込まれるだろう。
じゃあいいかい?最近困っていることについて考えながら、次のページをめくってくれ!』
最近困っていること。つい先日、男は仕事上で、とあるプロジェクトのマネージャーを任されました。ところがプロジェクトのメンバーはそれぞれ好き勝手にやる連中ばかりで、いまいち統率が取れません。今日も男はメンバー間の意思疎通のために四苦八苦してきたのです。そこで男は、このことを考えながら次のページをめくりました。
『今のキミはプロジェクトマネージャーだ。メンバーが言うことを聞かなくて困っているね。そんなときはまず、メンバーの主張をそれぞれ聞いてみるんだ。それから最近プロジェクトに入った○○、彼女は買収先の社員だったはず。彼女については一度メンバーみんなで話し合う機会を作ろう。』
それから数ページにわたって事細かに、それもプロジェクトメンバーの氏名や、行動の日時まで指定されて、『攻略法』が記されていました。
はじめ皮肉った笑みを浮かべていた男は、次第にその口角を下げていきました。普通外部にまで知られないメンバーの名前やプロジェクトの進行過程までが詳細に記されているのです。男は不気味さを感じると同時に、秘密の宝物を見つけたようなわくわくした童心を抱いていました。
それから数ページをめくると、突然本は白紙のページばかりになりました。どうやら冒頭に書いてあった通り、次に困難に直面したときにページは書き込まれていくようです。
男は、他の客の目を気にするように本を抱えながら、レジに向かいました。
男はそれから度々『人生攻略本』を開きました。
男が困ったことに直面すると、その都度『人生攻略本』のページは書き込まれ、男に的確なアドバイスをもたらします。
『十二月七日十八時二十四分、○○駅東口にいれば君のあこがれの彼女と出会うことができるぞ! 実はこの時、彼女はまだ晩御飯を食べていない。丁度その時間は彼女のお気に入りのレストラン○○に誰一人お客さんがいないので、勇気を出して夕食に誘ってみよう!』
『三月十日十五時十分、会社に一番近い××テニスコートでは最近将来性のある新しいプロジェクトを始めようとしている支部長が体を動かしているぞ。初期のプロジェクトメンバーに加わりたければ是非とも行こう! なお、その場合は支部長お気に入りのスポーツブランド○○のスポーツウエアを着ていこう。多少の出費を惜しんでいては、将来得られる収益が遠のきかねないことを憶えておこう!』
『八月二十六日三時三分、君の恋人は酔って帰ってくるだろう。実はこの日、彼女は合コンに誘われていたのだが、決して彼女を怒ってはいけないぞ! 付き合いには不思議な縁もついてくるものだ。というのも、その合コンで彼女のことを気に入った男が一人いる。彼は翌月から君の上位プロジェクトに異動してくる、つまり上司だ。しかもまだ彼は君のことを知らないから、しばらく彼女と男の関係を泳がせつつ、時を見計らって自分の存在を知らしめるんだ。そうすれば彼の弱みを握ることができる。君は自分のプロジェクトを最優先に扱ってもらえるだろうし、口封じに昇進の機会も得られるぞ!』
などと、少年向け雑誌の口調でありながら、その実書かれる内容はひどく大人っぽく毒々しい、人心を弄ぶようなものであったので、男はなんとなくそのアンバランスさに気味の悪さを感じてはいましたが、攻略本の言うことはなんでもその通りだったので、ついつい男は攻略本に頼ってしまうのでした。
やがて男は、意中の女性とも結婚し、満足できる地位を獲得し、裕福な家庭を持つことができるようになりました。円満に職場を退職してからは、攻略本に勧められるまま、投資によってその財をさらに膨らませていきました。男の人生が何もかもうまくいくと、それはそれで周囲の人に妬み嫉みを受けてしまうので、攻略本は適度に失敗をするよう、男に助言していました。失敗とはいえ、それは男にとっては些細な事でも、周囲の人にとっては男に対する同情や心配を抱かせるような、絶妙な具合の失敗を攻略本は提案したのでした。
そうして何もかも思い残すことはなく、安寧のままに男は、とうとう抗いがたい寿命に直面したのでした。
男は、いや、老人は、妻や子供に世話をされながら、布団の上で静かに死を待つ年頃となりました。しかし老人には、今この時になって一つの不安が、恐怖が訪れていました。
すなわち、死でした。死んだ後がどうなるか、地獄なのか、天国なのか、幽霊か、無か、宇宙か、それともいまだ誰も考えたことの無い不思議な世界、そんな中に自分ひとりだけ放り出されてしまうのだろうか。老人はそう考えると怖くて怖くてたまらなくなってしまいました。
これまでの人生半世紀以上、老人は攻略本に頼って生きてきたのです。自分で困難を乗り越えてきたようでも、実際には攻略本の適切な助言あってのことです。助言はその場では役に立っていましたが、それが老人の人生に、処世術に、生き方に定着した訳ではなく、困れば攻略本を見ればいい、そんな考えのせいでいちいち助言を憶えてもいなければ経験則も備わっていないのでした。
つまり老人には、すぐ先に待つ死を受け入れられるほどの豪胆さも、余裕も持ち合わせていないのでした。老人は、これが最後か、と押し入れに隠した攻略本をよっこらよっこら引き出しました。表紙は色褪せ、ページは広辞苑も六法全書も足下に及ばないほど分厚く、座るのにはちょうどいいくらいの厚さにはなっていました。
老人はその攻略本のページを必死の思いでめくり、一番最後のページを開きます。これで死の恐怖を乗り越えられる。死にだって、攻略法はあるはずだ。さあ、教えてくれ攻略本よ、死の攻略法を! 僕は一体どうすればいいのだ!
死に怯える老人が、最期の希望と思い見たものは、
『この先は、君の目で確かめろ!』
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