口下手な彼女

虹色

第1話 完結

 人が今際の時に、最後の力を振りしぼって書く、最後の命の灯。高度に文明化された社会では、それも人によって随分違うようだ。

 僕の目前で服を着て、パソコンのキーボードに手を乗っけて突っ伏している肉塊(推定死体)の側に、血で書かれたと思しき彼女の伝言が残されていた。だが、残念なことに浅学菲才な僕には理解することを実に困難だった。

『(*^ω^)つ』ってなんだよ。元よりネットの世界の住人として日々を過ごし、『働いたら負けだ』と嘯きながら、株取引や宝くじ等で僕を遥かに超える収入を得ていた彼女。そんな彼女は自身の口で言葉を話すということは滅多になく、大抵は僕と同じ空間を共有しているときも、メールで事を済ませていた。

 しかし、どうしたものか。彼女にメールで呼ばれたと思ったら、部屋に入れば死体(推定)が転がっている。うーん、実に非日常な光景だ。まだ、彼女の体に触れてすらいないので、死んでいると断言する事はできないけれど。

 けれど、今の彼女の姿を見る限りにおいて、生きているか死んでいるかのどちらかに賭ける必要があるとするならば、僕は後者に賭けるだろう。だって、彼女の白い首筋には赤い、そして深い切り傷があるし、呼吸をしている様子はまるでない。さらに、血文字のダイイングメッセージらいきもの。後者に傾く事象がこの部屋には数多く転がっていた。

 だけれど腑に落ちない事もいくつかある。彼女が僕にメールをしてから、ここにつくまでに五分と経っていない事。その間に僕は悲鳴、あるいは物音の類を一切耳にしていないこと。そして、理解不能の顔文字。今のところ登場人物は僕と彼女の二人だけ。現実には他に六億ほどの登場人物がいるはずだが、この事件に関与している主要人物はその二人だけだ。当然、僕が彼女を殺していない事は、僕自身が立証できる。また、この状況が自殺でないのも明らかである。凶器らしきものが転がっていないし、それ以前に、彼女には道具を用いようとも、人体を傷つけるほどの筋力を持ち合わせていない。そうなると、主要でない六億人を疑うはめになる。だがそれもすぐに終わる。入り口は僕が通過したこの扉しかないし、残念ながらこの部屋に日の光を提供をしているのは窓と呼べる代物ではなく、重厚な鈍色の鉄格子なのである。そこからでは人間一人侵入するのすら不可能である。

 そうなると、目の前の死体(推定)の存在が根底から揺るがされる。ならば、僕は遺憾ながら彼女が生きている方の可能性を思考してみる。でも、面倒だったので、思考よりも確実な実証のほうを行う事にした。死体であるのが不可能ならば、残された選択肢は生身しかない。単純な消去法。もし、これで違うなら名探偵でも呼ぶしかない。

 僕はなけなしの勇気を振り絞り、彼女に触れた。死体ではありえない、生命活動をしている温かみを感じる。どうやら僕の初めの勘は外れたらしい。良かった、良かった。

 僕が嘆息していると、先ほどまでピクリともしなかった彼女の手がキーボードを叩き始めた。スリープモードが解除され、ディスプレイに文字が現れる。

『(・ε・)ノ おっー! 遅かったね。男なら私のこの姿を視認した瞬間、抱きかかえて安否の確認をしなよ。この臆病鶏が( ̄ヘ ̄)凸』

「死んでなくてなによりだよ。それで、一体全体どうしてこんな真似を? 僕は額に汗して働いている一般人だから、亜里沙(ありさ)ほど暇ではないのだけれど」

 溜め息交じりに言う僕に、彼女はまたキーボードを叩き出す。こんなに近くにいるというのに、僕との距離は遠いな。思えば何年、彼女の生声を聞いていないだろうか。

『それは君が無能だからだよ(^▽^笑)』

 顔を上げず、画面上で僕をあざ笑う彼女。そういえば、彼女の性格は昔からこんなんだったと思うけれど、パソコンという武器を手に入れてからそれに磨きがかかったような気がする。僕としては、行動力零で収入零だった彼女が、ある意味社会復帰をすることができたので、この文明の発達には一応の感謝をしているのだが。

『それは置いといて、この状況はちょっとした実験だったんだよ(ノ*゜▽゜*)ニパパパ』

「実験?」

『そう、実験(*^▽^*) ニョホホ』

 画面上の彼女はいやらしく笑っている。だけれども、僕の視界にかろうじて入っている彼女の切れ端にはそんな様子は微塵もなかった。今に始まった事ではないけれど、やはりそれは寂しいものだ。

『もしも私が倒れたら、君はどうするのかなと(「・・) ドレドレ』

「それで、どうだった? ご期待には添えたかな?」

 僕の問いに、彼女のキーボードは動かず、当然画面上にも言葉は表示されない。流れる沈黙、流れる吐息。室内の空気が、少し重くなる。

 突然、彼女は足をばんっと伸ばし、腰掛けていた回転椅子から転落する。鈍い音が響き、彼女は仰向けに床に倒れた。

 久方ぶりに見る、彼女のフルフェイス。やはり温室育ちのせいか、肌が雪のように白い。ただ、その代わりなのか闇のように暗く深いくまが目元にこべりついていた。ネットの住人は不摂生というのは本当のようだ。でも、その他の部分においては、紫外線の魔の手から逃れた、プロアクティブ要らずの肌をしていた。その嫌に鋭い目付きを除けば、年頃の可愛い女の子、という設定が生じる顔の作りをしていた。

 観察はそのぐらいにしておいて、思考に移行しよう。はてさて、どうして彼女は僕に素顔をさらしたのか? それもこんな自分に負荷のかかる方法で。しかも、床に倒れこんでしまっては、キーボードに触れる事ができない。そうなると、彼女が僕と意思疎通を図るためには、言葉を口で発するしかない。けれど、彼女はそれが嫌だったから、あんな面倒な手段で僕と会話をしてきたのである。一体どうするつもりなんだろう。

 僕がシャッターアイランドを見ているときと同程度頭を回転させていると、空気の振動を鼓膜が捉えた。蚊の鳴くような声、よりもさらに小さい音。床に針を落としたような、そんな小さくて高い音。その音は連続していて、僕へ向けられて発されていた。発信元は、無論彼女だった。小さな口がゆっくりと動いている。慣れていないせいか、彼女の表情は険しく、不快そうだ。

「や、っ、ぱ、き、み、は、だ、め」

 僕は声を聞き取るために、彼女の口元に近づいた。小さな声と、それによって生じる吐息を鼓膜に感じた。

「わ、た、し、が、い、な、い、と、だ、め」

 途切れ途切れに発せられる言葉。半介護人の僕に向けられる言葉としては冗談がきつい。

「駄目なのは君のほうだろう? 僕がいないと、生物らしい生活できないから」

 僕の軽口に彼女は口をへの字に曲げる。そして数秒おいて、口を動かした。

「た、た、せ、て」

 視線をパソコンに動かして呟く。自分で立つ事すらできなくなったらしい。本格的に廃人化している。そろそろ手を打たないと不味いかもしれない。

 僕はこのままスローな会話を送るのも満更、悪い気はしなかったが、話がなかなか進みそうになかったので彼女をキーボードに向わせた。すると、水を得た魚の如く、彼女の指先はキーボードの上を跳ね回った。

『もう、失礼だね( ̄へ ̄; ムムム 誰の賃金で生活していると思っているんだい? 私のだろうよ! それなのにその恩も知らずによくそんなことが言えたものだね( ̄д ̄) エー お姉さんビックリだよ(°д°;;) ナント! それに、さっきは慣れないことをしたから上手く伝えられなかったけれど。とにかく、私が言いたかったのは、君には私が必要だという事だよキミ (;⌒▽⌒)σ』

 途端饒舌になる亜里沙。ホームとアウェイではこれ程までにテンションが違うとは。顔はまた最初と同じで机に伏せてしまっているので見えない。うーん、今のこいつの表情がとても気になる。

 僕の反応が遅かったのか、またキーボードが音を奏でる。

『君はさ、私が殺されているというのに、ただ入り口でボケッとしているだけで、何もしなかった(  ̄_ ̄)ボー もし、私が本当に死にかけで、一秒を争う事態だったらどうするんだい? 君は私を見殺しにすることになるんだよヾ(--;)ぉぃぉぃ』

「まぁまぁ、実際は死んでないから問題ないだろ。それにさ、そのことでどうして亜里沙が僕にとって必要ってことになるんだ? 今の話の中に、筋の通った理屈があったとは思えないけれど」

『やれやれだね┐( ̄ヘ ̄)┌ その程度の思考能力しか持ち合わせていないから、君は低賃金で働かされるんだよ。私を見ろ、私を! この豊かな思考力を持って高収入を得ているヽ( ̄ ̄∇ ̄ ̄)ノ ランラン♪ おっと、話が逸れてしまったな。それで、頭の弱い君にも分かる論理を今から展開してあげよう。例えば、君の目の前にいるのが私ではなく他の人間……私のような神に愛された人間ではなく、才種を一粒しかもらえなかったような一般人だったとしよう。するとどうなるだろうか? 考えるまでもない、ただの一般人を養うだけの甲斐性と根性と経済力は君にはない。そうなると破滅するしかないのだよヽ(  ̄д ̄;)ノ』

「それって、亜里沙が死体のふりしていたことと関係あるのかな?」

 どんどん議論がずれていく。馬鹿と天才は紙一重、というけれど、馬鹿と天才が瞬間瞬間に入れ代わり立ち代わり現れるからなのかもしれない。

『だーかーら、もし君の目の前にいる人間が普通の人だったら、君は破滅するってことヽ(  ̄д ̄;)ノ 破滅したら、その先に待っているのは自殺、でしょ? そのためのデモンストレーションが今の。その結果、君は私をみすみす見殺しにしてしまった、助ける事ができなかった。故に失敗。そして後追い自殺。ゲームオーバー。だから、私じゃないといけない。OK? Do you understand it ( ̄o ̄ ̄ 3)ん?』

 どういう論理だよ。単なる屁理屈じゃないか。これだから引きこもりは。

 僕は嘆息して思う。だけれど、理由は違えど僕に亜里沙が必要というのは正しい。そこだけは認めてあげなくてはいけない。

 僕は突っ伏している彼女の首根っこを捕まえ、ぐいと引き起こしてやる。不摂生のためだろう、彼女の体は恐ろしく軽く、簡単に持ち上がった。

 キーボードから離されて、至近距離で素顔を見られてしまったせいか、彼女の顔が朱に染まる。元より色白の彼女なので、その変化が余計に分かりやすい。顔文字を使うのが好きな彼女は、どうやら自身の顔を使うのはあまり好みじゃないらしい。

 僕は目を合わせない彼女の顔を強引に固定する。そして、しっかりと見つめあう形を取る。端から見れば、僕はサディストのように見えるだろう。どちらかと言えばそうなので、その観測は間違いではないけれど。

「亜里沙、僕には君が必要だということは、正解だ。でもね、随分と理由が違うんだよ」

 僕は恥ずかしさのせいか、両目を瞑っている彼女に囁く。

「僕はね、君が好きだからここにいる。君が好きだから、君の側にいるんだ。それは僕のためとか、何のためとか、そういうのじゃない。ただ、君と言う存在が好きだから、それだけのことなんだよ」

 僕は恥ずかしげもなく、自分の気持ちを伝えた。我ながらキザな台詞だとは思ったけれど、仕方がない。彼女が引きこもりであるのと同じように、僕のこの性質も変え難いものだから。

「そ、ん、な、こ、と、し、ん、け、ん、に、い、わ、れ、る、と、は、ず、か、し、い」

 ぶつ切りの言葉で彼女は答える。まどろっこしいな。新鮮で、これはこれでぐっとくるけれど、僕はさっきの饒舌な彼女の方がいい。

 僕は再び彼女を椅子に座らせる。すると、僕を一瞥して、にやりと笑った。不敵でいてシニカルな、笑い方だった。

『別に、君に私が必要だからと言って、私が君を必要としている訳ではない。勘違いしないで。別に、君のことは好きだとか、大好きだとか、そんな感情抱いていないんだから(* ̄∇ ̄*)エヘヘ』

 

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