エクヴィルツ薬草店の小さな物語
鹿江路傍
第1話 死にたがりの女
『有史以来、我々は魔王との戦いを余儀なくされてきた。
伝説上の初代勇者、老賢者エンピレオによる三度の討伐などを含めれば二十回以上、史書に確かな記録が残っているものに限っても十四回に渡り、魔王は現れ、そしてその度に勇者たちの手で倒されたのである。
魔王とは何者なのか。何度討伐しても復活するのはなぜなのか。これらの謎は永年の課題であるが、未だ解決を見ない。魔王に関して、現時点で判明していることは限られているのだ。
ただ、魔王が復活すると魔物たちの活動が活発化することと、魔王が我々に対して強い敵意を抱いていること、それだけは確実である』
――――アリアス・フォシェル他 『エミレア万物事典』 「魔王」の項より抜粋。
*
――魔王が復活した。その報せは、瞬く間に世界を駆け巡った。
しばらくもしないうちに、我こそは、という人々が世界中で魔王打倒に立ち上がった。
彼らが目指すのは、大陸の北西。魔王復活の地である。
*
大陸南東部、雄々しくそびえる山脈を背に、カンナラの街はある。鉱山で栄えた街であり、また鍛冶においても高名だ。
そのカンナラの街の、一軒の宿屋。カンナラは山がちな地勢もあって交通の便は良くないが、鉱山へ出稼ぎに来る者、鉱石や加工品を買い付けに来る者などで、出入りする人間は多い。彼らのための宿屋も、多様なグレードで存在する。
この宿屋は、さしあたり中級といったところ。貧しい労働者たちが詰めているわけでもなく、かといってごうつくばりな商人が貸し切っているわけでもない。
そんな普通の宿屋で一夜を過ごした若い女、それがサトヴァナと自ら名乗る女性だ。女にしては背が高く、旅慣れた服装で、長い黒髪はやや埃っぽい。
それなりに整った顔立ちと、十分なスタイルを持っているのに、身なりに色気、なんてものは皆無で、とことん実用的な装備だった。
「さて。一つ聞きたいんだがね」
サトヴァナは、よく肥えた宿屋の主人にそう切り出した。彼女の声色にもまた、色気なんてものはない、ただただ実務的な口調だ。
「何だい、お客さん。昼飯を食うなら三軒隣の悠遊亭がオススメだが」
「そうじゃないよ。私はイリストーンを探しているんだ。なにか知っていることがあれば、教えてほしい」
「イリストーン? あの、万病を治すっていう幻の霊薬のことか?」
「そうさ。ちっと厄介な病に罹っちゃってね。なんともしてもそれが欲しい」
「しかしなあ、イリストーンの製法はとうに失われたって話じゃないか。悪いが、俺には心当たりはねえよ」
「そうか、ありがとう」
サトヴァナはなんの情報も得られないだろうとわかっていたのか、さして気落ちした風でもない。
「けどあんた、そんな霊薬が必要になる病ってのは、一体何だ? 見たところお客さんは健康そうだけど」
「ああ、それが問題なんだよ」
サトヴァナは宿代を清算して、くるりと背を向ける。肩越しに、太った宿屋の主人に答えた。もっとも、彼には聞こえないほどの小声だったが。
「――私が罹っているのは、不死の病さ」
*
扉に取り付けられた、小さな鈴が可憐な音を奏でた。
「失礼するよ」
宿屋を出て、その三軒隣りの悠遊亭で昼食をとった後、サトヴァナが訪ねたのは薬屋であった。
それも、このカンナラ一と評される薬屋。数年前に店主であった父親が行方不明になり、今は兄妹で経営している小さな、けれど確かな信頼を得ている薬屋。
――――エクヴィルツ薬草店が、その薬屋の名前だ。
「いらっしゃい。……おや、誰かと思えばサトヴァナじゃあないか。久しぶりだな、一年ぶりくらいか」
カウンターの奥に座っているその男は、ひと目では少年にも見える。実際には二十代の半ば。その童顔に比して、声の方はずっしりと重く、低く響くものだ。少し聞き取りづらくはあるが、聴いていて悪い気分にはならない。
「お久しぶり、ディルク。元気だったかい」
「まあね、薬師が病気じゃあ格好がつかないだろう?」
ディルク・エクヴィルツ。それがこの童顔の店主の名だ。サトヴァナとディルクとの付き合いは彼の父親が姿を消す以前からのものだから、もう十年にはなる。ただ、どちらの風貌も大して変わったようには見えなかった。
ディルクの方は前述した童顔のせいだろうが、サトヴァナの方は彼女の特異な体質、あるいは病によるものだ。サトヴァナは一切年を取らない。ディルクはそれを知る人間の一人だ。
「レネは? 店にはいないようだが」
「午後からは山に薬草摘みに行ってる。しばらくは帰ってこないだろうな」
「そうか、それは残念だ」
レネ、というのはディルクの妹のことだ。確か八つ違いだったろうか、年の離れた兄妹だったと、サトヴァナは記憶している。
「さて、例の奴か? お前の分は取ってあるぜ。あいにく、イリストーンについての情報はないが」
「それで十分」
ディルクは立ち上がると、奥の棚から袋を下ろした。中には乾燥させた薬草が詰まっているらしい。
「紅雪草だ。ちょっとまけといてやるから、多めに持っとけ。これからはいつでも手に入る、とはいかなくなるだろうしな」
「なぜだ?」
「魔王が復活しただろう? おかげでカンナラは大賑わいだけどな、武具が売れるってんで」
ここのミスリルは質がいいから引っ張りだこだ、そうディルクは付け足す。ミスリルで作られる武具はただでさえ高品質なことが多い。腕の良い鍛冶屋の揃うこの街ではなおさらだ。
「なるほど。魔王との戦いに備えて、ってわけか」
サトヴァナは、ディルクからたっぷり薬草が詰まった袋を受け取る。紅雪草。どこにでも生えている薬草ではないが、需要は高く、市場には広く出回っている植物だ。
その効用はというと――。
「もちろん、魔王や魔物との戦いには痛み止めもたくさん必要になるだろ? そうなれば値上がりは必至、買い占める奴も出てくるだろうから、市場に出回る数も減りかねん」
「紅雪草も簡単には手に入らなくなる可能性が高い、ということだな?」
「ああ、急には薬草の生産量は増えないからな。需要に追いつかないだろう。だから多めに持っていけ」
「お心遣い、有難く頂戴しよう。流石にいい薬師に育ったな」
そりゃどーも、と言ってディルクは肩をすくめる。
サトヴァナがこれだけの痛み止めを必要とするのは、その体質に理由がある。不死といえど痛みは感じる。死なないなりに彼女の体は傷ついており(何十、いや何百年と生きているのだから当然かもしれない)、治るより痛みが悪化するほうが早いらしい、というわけだ。
見た目こそ健康に見えるが、治ったように見えるだけ。死ぬような大怪我や難病は、簡単には内部まで治らない。
彼女が不死の病を治したがっている、それがどういうことを意味するのか、ディルクにもわかる。さらに、紅雪草は有益なだけの代物でもないことが、彼女に一層それを必要とさせた。
「しかし、考えてみると魔王が復活した今は、薬屋にとっては儲け時ってわけだね」
サトヴァナは背嚢に紅雪草を仕舞いこむと、腰につけた革袋の口を緩めた。中には貨幣が入っている。その中から鈍く輝く数枚の銀貨を取り出して、ディルクに渡した。
「まあね。あんまり喜ばしくはないけどさ」
ディルクは銀貨を受け取りながら言う。銀貨は無造作に真鍮の壺に投げ入れられた。ちゃりん、と音がする。壺の中身はほとんど銅貨だが、様々な硬貨が一緒くたになっている。おざなりな扱いだ。
「喜ばしくない? それは、どうして?」
「薬ってのは乱用すると副作用が強く出るからな。紅雪草なんかは特にだ。サトヴァナ、あんたみたいにどうしようもない場合はともかく、若い連中にぽんぽん使わせるのは気が引ける」
自分も二十そこそこなのを棚に上げたディルクの言葉に、サトヴァナは可笑しそうに言う。
「へえ、商売人って奴はもっと血も涙もない考え方をするのかと思ったけど、違うのか」
「俺は人の病気や怪我を治すのが仕事だからね、金儲けは二の次三の次さ。まあ生きてかなきゃならんから、それ以上には軽く扱えんが」
「銀貨を放り投げておいて、金儲けを軽く扱っていないなんて信じられないな」
「別に銀貨が偉いわけじゃない。なくしさえしなけりゃ丁重に扱う必要はないよ」
「なるほどね。さてと、邪魔したな。そろそろ行くとしよう」
サトヴァナはそう切り出すと、背嚢を背負った。ディルクはふと思案してから声をかける。
「諦めないのか?」
「何をさ」
「イリストーンを」
「ああ」
短い受け答えは、淀みなく。製法も失われたとされる、幻の妙薬。見つけられる可能性は、限りなく小さい。
そこまでして不死の病を治したいのか、とはディルクは訊けない。代わりに、こう訊ねた。
「イリストーンが存在すると、本当に思っているのか?」
「さあね。ただ、もしかしたらどこかに製法が残っているかもしれないし、使われずに眠っているものがあるかもしれない。なに、時間は十分ある。それでも世界中を探し尽くすことは出来ないだろうけどね。でも、だからこそ私は諦めない」
そう言い残して、サトヴァナは去っていった。彼女の前途には、果てしない旅が待っている。
魔王が復活した以上、その旅はより苦難に満ちたものになるはずだ。それは、悲劇的と言っていいだろう、とディルクは思う。
何も、魔王と戦っているのは剣を振りかざした勇者だけではない。大きなうねりに巻き込まれるように、幾つもの小さな物語が存在している――。
そう、この小さな薬屋も、その一つなのだ。
「――――あなたがいつもなさるように、私の友をお守りください」
ディルクは小さく祈りの文句を唱えた。世界への祈りだ。答えるように扉の鈴が小さく震えた気がする。
エクヴィルツ薬草店を舞台にした小さな物語は、こうして新たな変革の時を迎えたのだった。
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