第四章

そんなお願い、聞けないよ。

 黒いモノは鳥居のすぐ前にまで迫っていた。


 み地の中に封じられていた、煮凝にこごりのような悲しみの心。

 リクが忌み地の中で感じたトヨの気配は、まさに忌み地の中にあった。


 神様の、トヨの痛みが固まったモノ。


 リクが以前に出会ったとき、それは大きくて、見上げるほどのモノだった。


 そして今、鳥居の外にいるモノは、その比ではない。


 腫れ上がり、膨れ上がり、見る見るうちに大きく伸びあがっていく。

 気が付けば、空を隠し、それほど広くない境内の周囲を覆いつくし、こちらに襲い掛かる機会を伺っていた。


「これはどちらかと言えば私の専門のようですけど」


 マナの言葉を聞いて、トヨが鋭く睨みつけた。


「手を出さないで」

「でしょうね」


 マナはあっさりと引き下がった。


「トヨ、一体・・・」


 何が起きているのか、リクにはまるでわからなかった。


 世界のことわりに従わないモノを、消し飛ばすことが出来る力。


 この力があれば、あの黒いモノを消し去ることが出来る。

 トヨを、助けることが出来る。


 そう考えていたのに。


 呆然と立つリクに近付くと、トヨは優しくその手を握った。


「リク、ありがとう。でも、これは私がどうにかしなきゃいけないの」


 トヨの手は柔らかく、そしてあたたかい。


「頑張ってみるけど、もし・・・」


 うつむいたまま、トヨはリクの顔を見ようとはしなかった。


「もし私が、私に飲まれるようなら、その時は・・・」


 声が震えている。


 夏祭りの日。

 誰もいない暗がりに向かって語りかけるトヨの姿を、リクは思い出した。


 あの時と同じだ。


 まだリクの知らないトヨ。

 リクの前でずっと隠してきたトヨ。


 多分、長い間誰にも見せることが出来ないでいたトヨが、そこにいる。


 リクは、握った手の上に何かが落ちたのを感じた。


 熱くて、冷たい何か。


 それがトヨの涙だとわかって。

 リクは言葉を失った。


「この手で、私を消して」


 トヨはリクの手を離してきびすを返した。


「トヨ」


 リクの伸ばした手が空を掴む。


 振り返ることなく、トヨは駆け出した。




 鳥居を抜け、神社の境内から外に出る。

 そこはもう何も見えない真っ黒な世界。


 夢に沈めた町は、すっかりトヨの痛みに飲み込まれてしまっている。

 これがこのまま現実の世界に入り込めば、町はただでは済まないだろう。


 トヨは両手を広げ、その黒いモノを自らの身の中に取り込もうとした。


「ずっと逃げてきた。これは、私だ。私が向き合わなくちゃいけないんだ」


 胸の奥が痛んだ。

 忘れていた痛みが、悲しみが、トヨの中に渦巻き始める。


 無数の死霊と、切り離してきた想い。


 その奥に懐かしい面影が見えた。


「ヨウシュウ・・・」


 痩せ細った、不健康そうな、人形師の男。


 そのカタチが、トヨの目の前で崩れる。


 封じてきた記憶が、濁流のようにトヨの心を押しつぶし、粉々に打ち砕いていく。


 独りで、暗い部屋の中で、誰にも看取られることもなく。


 愛した人の名を呼んでも届かず。


 何かを残すことも出来ずに。


 命の炎が、消える。


 最後に彼は誰の名を呼んだだろう。

 誰の姿を求めただろう。


 何を残そうとしたのだろう。


「嫌だっ!」


 トヨは絶叫した。


 自分が壊れていく。

 自分が形を失っていく。


 せめて、彼の最後の姿を見ていたかった。


 命の火が消える時、そのかたわらにいたかった。


 話したいことが、伝えたいことがまだ沢山あった。


 最後まで、そばにいたかった。


 せめて。



 もう一度、会いたかった。



 悲しみも痛みも、まるでその勢いを失っていない。

 それはむしろ、長い時を経て強く、より確かなものとなっていた。


「ヨウシュウ、私は・・・」


 トヨは暗闇の中でもがくように手を伸ばした。


 どんなに求めても、決して届くことの無かった、この手。


 触れることのかなわない想い。


「私は・・・」


 ヨウシュウの手が伸びて。


 トヨの手が。


 触れることなく、すり抜ける。

 掴もうとして、空を切る。


 こうやって、何度となく繰り返した。


 繰り返すたびに、胸の中が苦しくなった。


「貴方に触れることは、出来ないんだ」


 まただ。


 また、繰り返している。


 肩を抱くことも。

 指を絡めることも。

 ぬくもりを知ることも。


「貴方の子を成すことは、出来ないんだ」


 何も。


 何も得ることが出来ないままに、全て消えてしまった。


 触れられないのなら。

 失うことしか出来ないのなら。

 求めることに意味などないのなら。


「貴方と共にあることは、出来ないんだ」


 好きでいることが、苦しみしか生まないのであれば。


 もう。


 もう、ここにいることに。


「私は」


 存在していることに。


 自分が自分であることに、どんな意味があるのか。


「私は、消えてしまいたい・・・」


 自分の姿が黒い霧になり、薄れていくのを感じる。


 トヨの目から、涙がこぼれ落ちた。




「リク、来るぞ、覚悟を決めろ」


 サキチが身構えた。


「サキチさん、そんな」

「ユイもだ。あそこにいるのはもうトヨ様じゃない」


 リクはただ茫然ぼうぜんと、鳥居の外に立つトヨの姿を眺めていた。


 いつものように明るく振る舞って。

 陽射しのように暖かくて。


 花咲くように笑う神様は、もうそこにはいなかった。


 そこにはただ暗く、冷たい、世界にぽっかりと空いた黒い穴のような何かが。

 トヨの姿をして立っていた。


「あれはもう、たたり神だ」


 サキチの声は、砂を吐くようだった。


「トヨ様」「トヨ様」


 猫たちがざわめく。

 その動揺を反映して、神社全体の空間がぐにゃり、と歪んだ。


「集中しろ、向こうの夢に飲まれるな!」


 サキチの声が、リクにはまるで遠い世界の出来事に思えた。


「ウソだ・・・」


 リクは呟いた。


 力強くリクを助けてくれた彼女。

 この土地を守ってきたと誇らしげに語った彼女。

 間違えれば叱ってくれた彼女。


 それでも、最後には優しく許してくれた彼女。


 友達みたいで、なんだかとても神様のようには思えなくて。


 神様のようには見えなかったけど。


 実は家族のために、みんなのために、自らの命を投げ出して願いを叶えてくれた神様で。


 今でもみんなを、優しく見守ってくれていた彼女。


 そんなトヨが、もう、そこにはいない。


「リク!」


 サキチの声で、リクは我に返った。


 だが一瞬遅く、トヨであったモノから放たれた黒い塊がリクの身体を直撃した。


 激しい衝撃でリクの身体が浮き、そのまま地面に叩きつけられる。

 痛みが全身を駆け巡り、体中の穴という穴から冷たい炎が噴き出しているようだ。


 これが。


 トヨの中にある痛みだというのだろうか。


 こんな痛みを、トヨは一人で抱えて、耐えているのか。


「リク、しっかりして」


 ユイがリクに駆け寄り、その体を助け起こした。


「トヨちゃんを助けて、リク!」


「ユイ、アイツはもうトヨ様じゃない」

「サキチさん、おかしなこと言わないでよ。トヨちゃんだよ!」


 ユイが叫んだ。


「トヨちゃんだよ。みんな、ずっと一緒にいたじゃない。お話ししたじゃない」


 ほとんど人気ひとけのない稲荷神社で、濡れ縁に腰かけて。


「トヨちゃんが、私たちの神様が消えるわけないじゃない!」


 楽しそうに話して、笑って。


「私は信じてる。トヨちゃんはトヨちゃんだ。消えてなんかいない!」


 ユイの言葉に、リクははっとした。


 自分のてのひらを見下ろす。

 そこには最後にトヨが触れた時の感触が、ぬくもりが、まだ残っていた。


『この手で、私を消して』


 トヨの声が脳裏によみがえる。


 その言葉を残した時、トヨは。


 泣いていた。


 祟り神になるのであれば、誰にも迷惑をかけることの無いようにと。


 リクの力で、リクの手で。

 世界のことわりから外れた自分を消してほしいと。


 リクへと託した。


 そんな想いが、この掌に残されたぬくもり。


「トヨ・・・」


 リクの知らないトヨ。

 何処か遠くを見ているトヨ。

 泣きそうになるのをこらえているトヨ。


 明るくて、笑顔で、自信にあふれたトヨだけが、トヨじゃない。


 トヨは、神様だ。


 神様だけど。


 トヨは、女の子だ。


 傷付くこともある。

 痛みに耐えられないこともある。


 涙を流すこともある。


 だから。


「・・・そんなお願い、聞けないよ」


 リクはこぶしを握りしめた。


「俺は、神様じゃないからさ」




 リクはふらつく足にかつを入れて立ち上がると、トヨであったモノの方に歩きはじめた。


 それに気付いたのか、トヨであったモノの周囲から黒い塊がき出ると、リクに向かって放たれた。

 高速で迫る黒い塊は、しかしリクの身体に触れる直前に前触れなく霧散むさんした。


 驚くリクに向かって、マナが手を振ってみせた。


「約束した手前、手は出さないけど、あなたを守るのは私の勝手ってことで」


 リクはマナを一瞥いちべつすると、トヨであったモノに向かって再び歩を進めた。


 次から次へと黒い塊がリクに襲い掛かるが、一つとしてリクの身体には触れられない。

 マナの守りは万全だ。


 遠巻きに塊をばらまきながら、トヨであったモノはじりじりと後退していく。


「ヤツめ、リクが直接触れればそれで消されることがわかってるんだ」


 祟り神は、世界のことわりからはみ出た存在。

 そうであるならば、リクの力で消し飛ばすことが出来る。


 猫たちが包囲し、威嚇いかくの声を上げる。


 トヨであったモノの動きが、一瞬ひるんだ。


「リク、行け。そのままやるんだ」


 サキチが叫んだ。


 リクが走り出す。


 身をひるがえして逃げようとするトヨであったモノに、リクは素早く手を伸ばした。


 トヨであったモノが、大きく飛び退く。


 あと少し、手が届かないというところで。



 リクは相手の腕を掴む自分の手を「視た」。



 そしてその世界を自分の現実に引き寄せて。


「トヨ!」


 力強くその腕を掴んだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る