私のことも考えてくれ。

 その日は朝から酷く暑かった。


 運悪く、リクの家のクーラーは故障してしまっていた。

 少しはりょうが取れるだろうと思ってリクは神社にやってきたが、まったく当てが外れた。

 強い日差しに照らされて、いつもは涼しい境内もうだるような暑さだった。


「リクー、暑いよー」


 トヨもすっかりだれていて、木陰で両足を放り出して地面に座り込んでいた。


「だらしないな、神様なんだろう?」

「まあ、神様なんだけどさ、それでも暑いってのは感覚として認識可能なわけで」


 汗をかかないだけマシ、とトヨは言った。


 トヨの細くて白い首筋に目が行き、リクはタダでさえ暑いのに、と激しく首を横に振った。


「今年はちょっとすごいね。取り決めがあるからあんまり勝手出来ないけど、この辺だけもうちょっと雨増やそうかな」


 あまりに暑いためか、神社の中には全く人影がない。

 見えないモノの姿も、今日は少ないようだ。


「・・・リクー、ガリガリ君買ってきて。ソーダ味」

「なんで俺が」

供物くもつだよー。神様をあがめようよー、日々の守護を感謝しようよー」

「そういうのはもうちょっと威厳のある時に言ってくれよ」

「えー、威厳を持ってガリガリ君を所望する神様が信仰の対象になるなら、私はそういう神様になりたいよー」


 暑さで壊れたトヨを放っておいて、リクは拝殿の方に向かった。

 拝殿の中なら少しは暑さをしのげるかと思ったが、れた空気がこもっているだけだった。


「これは、ダメだな」

「普段人間が使ってるわけじゃないからな。冷房のたぐいはついてない」


 サキチがいつの間にか横に立っていた。


「リク、悪いがちょっと一緒に来てくれるか?面倒があってな」


 サキチが頼みごとをするのは珍しいと、リクはサキチについて行った。




 神社の近くにある河原、以前ユイと一緒にモノたちが泳ぎたわむれる光景を見た場所だ。

 そこから少し歩いたところ、川辺に近い所までサキチはやってきた。


 背の高い、まだ青々としたススキのカーテンを抜けた先にいたのは、ユイだった。


「あ、リク。良かった」

「ユイ、こんなところで何を・・・」


 ユイの後ろにあるモノを見て、リクはすぐに何事かを察した。

 陽炎かげろうのように揺れる、うすら寒い気配を放つ、今は亡き者の記憶。


 死霊だ。


「ユイが言うことを聞かなくてな。リクの言うことなら聞くというので連れてきた。説得を頼みたい」


 ユイの話によると、いつものように河原の道を歩いて神社に向かおうとしていた時に、この死霊を見つけたということだった。


 死霊は生きているものとは異なることわりに従うものであり、猫たちは見つけ次第死霊を消し去ってしまう。

 そのことを知っているユイは、この場所にとどまって、死霊を守っていたということだった。


「死霊に魅入られたのかとも思ったが、どうもそういうことではないらしいし、こちらとしても困っているんだ」


 サキチは心底迷惑している様子だった。


 トヨのお気に入りであるユイの命令となると、その辺の猫ではおいそれとは逆らえなくなる。

 猫たちの報告を受けてサキチが出向いてみると、ユイはリクを呼んでくれと要求したということだった。


「・・・さあ、ユイ、わがままはここまでだ。リクからも言ってやってくれ」


 サキチに睨まれても、ユイは全く動じなかった。


「確かに死んだ人の想いなんて、生きてる人には関係のないことかもしれない」


 恐らく、ユイはあの小さな塚の死霊のことが引っ掛かっているのだろう。


「でも、その理由を知らないまま、何もかも消してしまうなんて、私には・・・」


 サキチがため息をついた。


「あのな、理由を聞けば情が生まれる、情が生まれればその願いを聞き届けたくなる。だがな、その願いが生きてる者にとって真っ当である保証はないんだ」


 恨みを晴らしてほしいと願われれば、どうすれば良いのか。


 仮に死んだ者の言葉に従ったとして。

 その望みが生きている者に危害を与えるようなことであれば。

 それは生きている者の世界にどんなえきがあるというのか。


「ユイの気持ちはわからないわけではない。それは良い心の持ち方だ。しかしそれはそれだ。死んだ者の想いに触れるのはやはり危険なんだ」


 ユイがリクの方を見た。

 固い決意を感じる目だった。


 サキチもリクの方を見た。

 こちらも強い意志は感じるが、どこかにあきらめを含んでいた。


 リクは肩をすくめてみせた。


「・・・で、俺はその死霊の声を聞けば良いんだろう?」


 ユイが笑顔を浮かべる。

 サキチはガックリとうなだれた。


「・・・まあそうなるとは思ったんだがね」


 ぼりぼりと首筋を掻いて、どっしりと腰を下ろす。

 それでも警戒までは解くつもりは無い様子だった。


「リク、気を付けてくれ。この死霊が何者なのか、全く判らないのだろう?」


 確かに、以前はユイの知っている人間の死霊が相手だった。

 今目の前にいる死霊は、どこの誰のものなのか、皆目見当がつかない。


「何かおかしなことがあればすぐに切り離せ。その時は俺がこいつをくらう」


 リクは死霊の方に歩み寄った。


 揺らめきが形を取り、それは女性の形を取った。

 その向こうにある記憶に、リクは意識を集中し、中を視た。


 何か強い悲しみが、リクの胸を強く締め付けた。

 女性の部屋が見える。

 まだ若い女性、ドレッサーの前、小さな箱。

 鏡に映っている姿を見ようとしたところで、目の前が暗くなった。


 小さな手。白いてのひら

 自分の手。これはこの記憶の主の手か。

 そこに何かが載せられる。


 目の前に誰かがいる。


 誰かが。



「リク!」


 ユイの叫びが聞こえた。


 次の瞬間、リクは自分が水の中に転落したことに気が付いた。


 口と鼻の中に冷たい水が入り込んでくる。

 ごぼごぼという音が耳に入る。


 慌てて水面に出ようとしたところで、何かがリクの顔に触れた。


「・・・あれ」


 水底に何かが光って見えた。


 思い切って、リクは手を伸ばす。

 固い、小さな感触を握った。


 そう思ったところで、リクは身体が強い力で引き上げられるのを感じた。


 ざば、という心地よい音。

 きらきらと光る水滴。


 スローモーションみたいに景色が流れて。


 リクはススキ野原の上に投げ出された。


「この時期、川の事故は多いんだけどさ」


 神社の外でこの声を聞くのは珍しいな、とリクはぼんやりと考えた。


「こんな大きい子が溺れてるとは思いもしなかったよ」


 トヨが鬼の形相でリクを睨み付けていた。




 神社の拝殿で、リクはタオルケットにくるまっていた。


 何か着替えを持ってくると言って、ユイは外に出て行った。


 サキチは拝殿の入り口で丸くなっている。

 リクの目の前には、怒り心頭といった様子のトヨがいた。


「リク、キミはもう本当になんというか、迂闊うかつにもほどがあるよ」


 トヨはさっきから同じような話を何度も繰り返している。


「死霊には気を付けるようにと以前言わなかったか?ましてや今回は私の管轄内での話だ。まずは私に声をかけるのが筋というものだろう」


 それでもまだ言い足りないのか、トヨの説教は終わる気配がない。


「サキチ、キミにも言ってるんだよ。もしリクに何かあったら・・・」


 そこまで言ったところで、不意にトヨの言葉が途切れた。


 リクはそっとトヨの様子をうかがった。


「何かあったら・・・どうしてくれるんだ・・・」


 うつむいたトヨの目から、涙がこぼれ落ちた。


「トヨ・・・」

「リク、キミという人間に替えは無いんだ。死んだ人間のために、どうしてキミまで命を失わなければならない」


 トヨはこぶしを強く握りしめた。


「もっと気を付けてくれ。もっと自分を大事にしてくれ。もっと・・・」


 何故かこの時のトヨの言葉は。


「私のことも考えてくれ」


 リクの心に深く響いた。


 ユイがリクの着替えを持って拝殿に入ってきた。

 無言でトヨの前に出て。


 頭を下げた。


「ごめんなさい、トヨちゃん。私のわがままでした」


「キミたちは・・・本当に手がかかる」


 色々と吐き出して、ようやく落ち着いてきたのか。


「困ったもんだ。全く危なっかしくて目が離せないよ」


 顔をあげたトヨは、もういつものトヨだった。




 神社の裏でユイの持ってきた服に着替えると、リクは拝殿に戻った。

 拝殿の中では、トヨとユイ、サキチが、小さな三方さんぽうを囲んでいた。


 三方の上には、リクがあの時拾った、古びた指輪が載せられている。


「指輪って辺りが重いよね。もう装飾品の中では断トツに重いというか」

「でも、これそんなに高そうなものでもないけど」


 立派な石が付いてるわけでもない。

 綺麗な装飾がなされているわけでもない。


 薄汚れていて、貴金属的な価値はあまりなさそうに感じる。むしろ玩具おもちゃに近い。


「まあこういうのは金銭的価値というよりも、込められてる想いの問題だからね」


 トヨは指輪に手をかざした。


 ゆらゆらと、その上の空気が揺らぎ始める。

 やはりこの指輪には、死霊がいている。


「死した者よ、そなたの想いはこのトヨウケビメノカミが預かった。心安らかに、黄泉よみへと戻るが良い」


 トヨの言葉を受けて、指輪の上の空気の揺らぎは小さくなり。


 やがて、蝋燭ろうそくの炎が消える時のように、ふうっ、と見えなくなった。


「古い思い出っていうのは未練を作りやすいものなんだね。時間が経てば、なんでもないようなことでも美しく感じられるようになるというか」


 トヨが言うには、この指輪は玩具で、恐らく子供のころの約束が込められている、とのことだった。

 大きくなったら結婚しようとか、そんな他愛もない小さな約束。


「でも、そんな思い出にまですがりつきたくなるほど、つらくて、悲しいことがあったんだろうね」


 リクは指輪を受け取った小さな掌を思い出した。


 多分、それは本当に何でもない、些細な出来事に過ぎなかったのだと思う。

 普通に生きていれば思い出にもならずに忘れ去られてしまうような。


 ふと、あの時の、リクの父親の死体を前にした時のナオの泣き顔を思い出して。


 リクは胸の奥がちくり、と痛んだ。


「小さな未練だけど、こうやってくすぶっていたって事はそれなりに大切な想いだったんだろうよ」


 そこまで言うと、トヨは居住まいを正してリクとユイを交互に見た。


「さて、お二人さん。今回はだいぶ迷惑をかけてくださったわけですが」


 いつになく迫力を込めて二人に迫る。


「この代償は高くつくということは、理解していただけますよね?」


 ユイはリクの方を見て、それから素直に頭を下げた。

 リクも頭を下げる。


 その様子を見て、トヨは満足そうにうなずいた。


「よろしい」


 そして、威厳たっぷりに言い放った。


「では、ガリガリ君ソーダ味を買ってきなさい」




 二人が拝殿の外に出ると、サキチがするり、とその横に並んだ。


「すまなかったな、リク」

「いや、俺も考えが足りなかったよ。なんというか、甘かった」


 リクは頭を掻いた。


「考えが甘かったのはこっちも同じだ。トヨ様がここまで・・・」

「こらー、ダッシュで行けー!」


 拝殿の中からトヨの怒鳴り声がした。

 ユイとリクが慌てて走り出す。


「まああれだ、二人ともこれにりて、もっと自分と、トヨ様を大事にしてやってくれ」


 それだけ言うと、サキチは塀を飛び越えて境内の外に走り去っていった。

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