夜に飛ぶ

出汁殻ニボシ

第1話

 一月の終わりから学校に姿を見せなくなった高島田先輩には、例えば全身から発散されるその妖怪じみた雰囲気のために「人間にしては見込みがある」と本物の妖怪に拿捕され、今も深山の巒気ただよう鞍馬山の奥深くに監禁されたまま天狗ぬらりひょんその他の大妖怪たちを相手に軍人将棋に打ち興じているとか、あるいは受験勉強中におかしくなって、鞄にわずかばかりの生活用品と「学問のすゝめ」文庫版をぶち込み「高等遊民になってやる」と叫んで出奔、山間のひなびた民宿にこもって人生について呻吟苦悩した挙句奇声を上げながら竹林へと飛び込み、その日から竹林には人食い虎が現れるようになったとか、また参考書を買い漁り塾に通い詰めながらも見事に玉砕し、郷里の親から「大学行くだけが人生じゃない」と切実に説得されて泣く泣く埼玉の県北にある実家に帰り家業の豆腐屋を継いだとか、その信憑性はともかく、様々なうわさがあった。

「でも、まさか魚になっているとは思いませんでした」

 小さな鰭を忙しなく動かしながら、そうだろうなと先輩はうなずいた。

「俺だっていまだに信じられんさ。だけどまあ、なってみればそれなりに楽しいものだぜ」

 二、三回その場で回転してから、すうっと僕の方に顔を寄せると、三角にとがった口の上あたりをもごもごと動かしながら、、

「どうだ、蔦森。なってみないか、魚に」



 二年の初めに二次関数との壮絶な対決、そして決定的な大敗を喫して以降、僕は数学的な諸々と袂を分かつと決意した。もとより僕と数との蜜月は、小学校も高学年になろうかと言う時期には、既に破綻を迎えていたのである。二次方程式や因数分解が出現する中学時代に至って、僕は初めて数学を敵と認識するようになった。それから今に至るまでは、あえて語るほどのものでもないだろう。別離を決心した時、既に僕は数学と言うものへ多大なる恐怖と、その反作用としての大いなる憎しみを抱えるようになっていたのである。

問題は、こちらがいくら絶縁状をたたきつけようとも、数学の方が僕をその魔手から逃がそうとはしない点にあった。元より良くはなかった内申点は急激に降下し、僕は徐々に学校生活へのやる気を失い始めた。一時は不良になってやろうとも考えて、授業をさぼって屋上に寝転がるということもしてみたが、誰か親しい生徒が尋ねてくるのならともかく、一人で空を仰いでいると、先期のテストの具体的な点数や、赤本の裏に見え隠れする受験と言うものの重圧と言った将来への不安に押しつぶされかねないので、これは三回でやめてしまった。

かくして順調に成績は低下し、期末試験のころには立派な阿呆学生となっていた僕は、当然の帰結としてろくでもない成績をとり、とうとう先生から「三年に上がる気があるのかないのか」という趣の警告をいただくまでに転がり落ちた。

 だから十二月の真夜中に、行方知らずになっていた先輩が魚に変じて窓から忍び込んできて「魚にならないか」と誘ってきた時も、二つ返事で了承したのかもしれない。その頃の僕は、自殺を考えるほど精神的に追い込まれていたわけではないが、学業その他の不安から逃げられるのなら、例えばいきなり自分の部屋に車が突っ込んできて、痛みもなく死んでしまえるならそれもいいかもしれない、といった消極的な自殺願望があったのである。そして魚になる、というのは、その現実逃避的なあこがれを十分に満たしてくれそうに思えたのだ。

「だって魚は学校にいかなくてもいいしな」

「メダカには学校がありますよ」

 僕が馬鹿なことをいうと、先輩は露骨に顔をしかめた。

「それで、魚になるにはどうしたらいいんです」

「ついてこい」

言うなり、先輩は入ってきた時同様、薄いひれを使って上手に窓を開け、そこからするりと外へ逃げ出してしまった。あわてて首を突き出した途端、冬の風に吹きつけられて一気に鳥肌が立ち、すぐに部屋へ引っ込んでしまった。マフラーを巻きつけながら窓の外へ目をやると、向かいの家の物干し竿の横に、ちらちらと光るものがある。あれが多分先輩だろうと見当をつけると、窓をしっかりと閉じ、分厚い緑のダウンジャケットに腕を通して、外出の準備を始めた。



なるべく高い所へ行きたいのだ、と先輩は言った。

「二階三階程度じゃあだめだ。もっと高所でないと、夜の魚は見つけてくれない」

街灯に照らし出された先輩は、頼りない僕の記憶の中にあるどの魚にも似ていなかった。図鑑に載っている魚の、一番地味な部分ばかりをつぎはぎにしたかのように目立たないので、部室の中央で「油壷男」なる奇怪な作品を振り回していたあの頃の輩の姿とはどうにも重ならなかった。それなのに、その鼻にかかるような喋り方も、奇妙に甲高い声色も、記憶の中の先輩そのものなのである。僕は何度も首をかしげた。魚になると落ち着きが増したりするのだろうか。

「夜の魚?」

「夜の間だけ空を飛んでいる、馬鹿でかい魚だよ。本当の名前とか、学名とかは知らない」なんていう種類なのかも知らない。便宜上、適当な名前で呼んでるだけだ、という。

そいつに食べられると、魚になれるんだ。

「それより、どっか高い場所の心当たり、ないか」

ないですよ、と反射的に答えてから考え始める。六階に僕の通っている塾のあるビル。週ごとの小テストの成績が悪くなり始めた頃、なんだか教室まで行く気がしなくて、奥の方にある扉を抜けて、非常階段の途中からぼんやりと外の景色を眺めていた。

「あー、でも駅前のビル。書店の横の。あそこなら非常階段使って上の方行けるかもしれません」

よし、と尾びれをはためかせながら僕の周りをぐるっと一周すると、

「よし、決まりだ」



四階を過ぎたあたりで、先導していた先輩が一瞬体をこわばらせたかと思うと、慌てて僕の目の前まで泳いできて、

「もう魚が来てる。おい、もうちょっと早く登れないのか」

先輩が騒ぎ出した方に顔を向けると、通りの奥、ほとんど消えかけた電飾の向こう側に、ふらふらとうごめく白い帯が見える。注意して見ていなければビニール紐か何かと見間違えそうだが、ビルの横を抜けた時、ネオンの明かりが向かいの建物に巨大な影を映し出しているのが見えた。

「俺の時はもっと高いところを飛んでいたんだ。冬休みが始まってすぐだ。そうだった」

僕が泡を食って階段を登りだす横で、不意に先輩は熱のこもった声でそう話し始めた。

「言ったことがあったっけ、マンションの六階なんだよ、俺の家。六〇三号室。今ぐらいの真夜中にノート開いてたんだ。妙に目がさえてた。そしたら窓の外が急に真っ白になった。魚が来たんだよ」

六階。先輩はしゃべり続けていたが、僕にはその顔を見る勇気がなかった。声は変に熱っぽく懐かしい、あの頃の先輩のものだったが、なぜだか僕にはそのことが恐ろしかった。七階。

「今考えると変な話だけど、でも俺は窓を開けて、魚の前に立ったんだ。すごく変な気分だった。風邪になる前の夜みたいな、体の中で何か気持ちの悪いものが煮え立ってる感じで、だから外に出た時、夜風が吹きこんできて、その冷たさで一気に気分が良くなったのを覚えてる」

屋上へ出るドアには錠前がかかっていたが、引っかけてあるだけで閉まってはいなかった。

きしむドアを押しあけた途端、脇をすり抜けて先輩は屋上の隅まで泳いで行ってしまった。慌てて追いかける必要もなかった。戸口からでもはっきりとわかるほど、魚は既に屋上近くまで飛んできていた。

それは大きくて長細い、半透明の筒のような魚で、ドジョウのひげを引っ張って伸ばしたような、長々とした白い管を二本、口元からゆらりと垂らして、一月の風の中を、それとは無関係に蛇行しながら、僕と先輩の居る屋上の横を通り抜けようとしている。街の明かりを下から受けてちかちかと反射する腹部には、何やら細かくうごめくものがたくさん詰まっていて、よくよく眼を凝らして見れば、それは見たこともないような魚たちの群れだった。白く透き通った夜の魚の腹に、更に多くの魚群がひしめき合っていたのである。

腹の魚たちは奇妙に様々な表情をしている。ひげの先っぽが揺れているあたりにいる魚は、何が不満なのか、他の魚を無理にかき分けて憤然と泳いでいて、それに非難の目を向ける者もいれば、わざと笑みを浮かべて頭を下げるものもいた。黄色いネオンの反射する部分には、小さく固まっている集団があって、その中心で阿呆面をして周りをわらわせているものもある。どの魚もにぎやかで活力にあふれているように見える。

それが僕には、たまらなく恐ろしかった。

「やっぱり、僕は遠慮しときます」

「なくなるのは足からなんだ。次に腕が消える。それから頭が胸の中に沈み込んでいって、今何て言った?」

魚になるのは、またの機会にします。今日はやめときます。そういうと、先輩はしばらく黙っていたが、ぽつりと「そうか」とだけ言った。

「まあ、無理強いしても悪いしな」

夜の魚はビルの横を、音も立てずに騒がしく泳ぎ去ろうとしていた。ゆったりと揺れる尾びれが、屋上の柵を通り越しても、僕と先輩は黙ったままぼんやりと魚を見ていた。そうして真っ白な体が帯になり、ビニール紐になり、風にあおられたゴミになってから、「そろそろ帰ろうか」と先輩が声をかけた。

僕は反対しなかった。



目を覚ましてから、以前塾をさぼってビルの屋上へ行こうとした時、カギがかかっていて早々に諦めたのと、お気に入りだった緑のダウンジャケットは、雪に降られたのをストーブで乾かしているときに、うっかり焦がして捨ててしまったのを思い出した。

 僕の部屋に変化はなく、窓はしっかりと閉じられている。風が吹きこんだ様子もない。なんとなく起き上がる気になれなくて、布団の中で携帯をいじっているうちに、ふと気になってアドレス帳を開いた。

高島田先輩の連絡先は残っていたが、僕は迷った挙句に、そのアドレスを消去した。

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