万理の恋の終わり方

@e_k7

万理の恋の終わり方

昨日の夜、万理の心は燻っていた。一緒にいる男にどう別れを切り出すか。合鍵をどうやって返してもらうか。もともと万理が住んでいた1LDKのアパートに溢れかえった男の荷物をどうしようか。

幸太郎は少し図々しすぎたのだ。合鍵を渡したとたんにあれやこれやと物を増えさせた。一人で住むには十分な広さでも、二人でいるには工夫しないと広く使えないほどの広さの部屋は、昔のギター、突発的に初めて突発的にやめてしまった家庭用の陶芸セット、普段着の洋服、仕事のスーツ、下着に靴下、電化製品のあれこれであっという間にいっぱいいっぱいにになっていた。

特に電化製品については、いつも「万理の生活が便利になるから。」とありがた迷惑な理由付けで買ってくる。

万理はそのあれこれを見るたびに、最初こそは自分だけしかいなかった空間に自分お好きな男の荷物が少しづつ足されていくことに喜びを感じていた。

女の空気しかなかった家に男の気配が漂い始めて、生活がほんの少しづつ変わって行くのに幸せを感じていたりもした。

靴下と下着を初めて洗濯して畳んだときなど嬉嬉としていたし、スーツがクロゼットに掛かっているのを見たときも嬉々とした。自分の洋服を少し処分して収納スペースを幸太郎のために空けてやったりもした。


そういったいちいちが嬉しかったのに、愛情と呼べるものが自分の体の中から薄薄と消えかけると、そのあれこれはガラクタ同然で、目の前に寝そべった大きなカラダでさえ場所だけをとる置物にしか見えなくなっていた。

光熱費と食費がかかる置物。

置物のような物なら幸太郎がクリスマスプレゼントで買ってきた万理の部屋の広さに不釣り合いな大きすぎるソファーのほうがマシだとさえ思えてしまう。ー万理はそのソファーは大きすぎるからいらないと言張ったのに結局買ってきてしまった。ー


何故なのだろう、好きで一緒にいたのに、今自分は虎視眈々と目の前の男を切り離して溢れかえった幸太郎の荷物と一緒にその男を追い出して、また男の気配のない部屋に戻そうとしているのだ。

何も知らないで寝そべってipadのゲームに熱中する光太郎を見ていると、自分が酷く残酷な女に思えてきた。

家賃も光熱費も万理がせっせと働いて払っていて、生活を助けるようなことはしてはくれなかったが、幸太郎がしてくれたことはそれなりにあったのに。

それなのに、自分は光太郎を追い出そうとしている。ここまで感情というのは急激に変わってしまうものなのか。


幸太郎は万理の部屋の近くの会社の医療機器の営業マンだった。

係長、既婚、2人の息子。家は会社からは少し遠かった。

万理は既婚というだけで相手にはしなかったが、いつまにかーどう付き合い始めたか分からないくらいー隣にいたのだ。

というものは実に厄介だった。

嫁がどうの、子供がどうの、子供会がどうの、運動会がどうの、授業参観がどうの・・・あらゆる面に置いて理由ばかりだった。ーその全てを万理は受け入れているくらい幸太郎を愛していた。ー

万理はそれらのことは仕方のないことだから説明などしてほしくないのに、幸太郎は説明してきた。

説明されればされるほど、そういったことで幸太郎が隣にいない時に一人でいると、自分がいかに愚かな女で幸太郎以上に図々しい人間で、浅ましい女かということを思い知らされてしまうのだ。

最初の頃は、幸太郎の妻以上のことをと思って、生活費の一部の負担を申し出た幸太郎の提案を断って、徹底的にくつろげるようにー例えば食事の内容、お風呂の温度、室温、リモコンの位置、ベッドの寝具、靴磨きまでーとあれこれと妻でもないのに妻ぶっていた。今の思えば愚かすぎてとんでもない勘違いな努力をしていた。しかし、いつだったか、美容院の鏡に映った自分の顔をふと見てぎょっとしたのだ。

そこには知らない誰かがいるようだった。

躍起になって人を出し抜こうとする浅ましい人女。

なんて惨めな顔をしているんだろう。頬はこけ、目はギロっとして、鋼殻はへの字に垂れ下がり、眉間にうっすらとシワ。

私はこんな顔だったろうか。こんなギスギスとした恐ろしい人相で幸太郎の為のあれこれを躍起になっていたとはと興ざめした。こんな風な人相になってしまったのに、幸太郎はきっと気づいてないのだ。幸太郎の中では私はいつだって8年前の女のままなのだ。そうでなければ、こんなに変わり果てた顔の女のとなりにいるはずがない。それすらにも鈍感な男だったのかもしれないと思うとどうしもようない焦燥感が津波のようにやってきて、何もかもを流れ去っていくような気がした。

幸太郎を繋ぎとめておく虚しい努力や、男が辛うじているというおかしな安心感や見栄、部屋に男がいるという特別感といったものも見えないし、愛情といったものも、どこかに流されて今度は焦燥感や虚無感や絶望感がやってきた。

頑張って掘っても掘っても出口の見えない穴にいるような気分だった。

何故、愛したのか。何故、この男か。世の中の男たちがたくさんいる中でなぜ幸太郎だったのか。

ー8年間。ーという長すぎる期間を一緒にいたせいで、きっとここ2、3年はお互い馴れ合いの関係になってしまったのか。変な同情や惰性が出てきたせいなのか。

万理は一緒にいる意味さえも見いだせなくなってきていたけれど、付き合いだした頃は、本当にめでたいことに日陰のままでいいとさえ思っていたのだ。たまにできる幸太郎の洗濯物や幸太郎と食べる食事の準備や後片付けが生きがいにさえ思えていて、幸太郎が疲れたらこの部屋が癒しになって、どんな時も自分が陰で支えられればと、今思えば痛々しいばかりでなくだいぶ図々しい。

幸太郎も幸太郎で、最初は色々甘い言葉をかけてくれた。今思えば都合の良すぎるまやかしだ。


万理はある夜を思いだした。深夜の中華料理のファミリーレストランで幸太郎に聞いた事があった。

「私と別れたらどうする?」

すると幸太郎が、

「多分、長いこと落ち込んで老け込む。」と答えると、万理の頭の中に、その落ち込んで沈みきった幸太郎がありありと浮かんできてしまって胸が苦しくなってしまった。

そのあとに、幸太郎は

「多分、別れは万理の方から切り出すよ。こんな男嫌だって。付き合いきれないって。」と酷く悲しい表情で付け加えていた。その酷く悲しい表情が、今まさに万理の頭の中にある落ち込んで沈みきった幸太郎に重なり合ってきて、胸がさらに苦しくなって呼吸さえ辛いくらいになった。

万理はすぐに

「そんなことはない。」辛うじて細々と絞り出すように言ったが、そんな言葉は胸の苦しさには何も効果をもたらさなかった。

胸が苦しくていっぱいいっぱいになりすぎて、注文したラーメンを半分も食べないうちに持て余してしまった。

万理は卵を幸太郎に、幸太郎はメンマを万理に、と言ったいつも二人でラーメンを食べる時の儀式じみた交換で、この時も幸太郎が万理の丼に移してくれたメンマも、もう万理には食べられないほど胸が苦しかった。

だいたい深夜のファミリーレストランというのは、どうしてそこらかしこに哀愁や軽い絶望感のような物が潜んでいるのだろう。

お腹を満たすためだけ来た寂しそうな哀愁じみたサラリーマンのせいか、携帯を何をするでもなくいじっている所在無さげな学生のせいか、会話もなく静かに雑誌をめくる帰りたくなさそうにしている退屈そうな若い女同士の客のせいなのか。

昼間であれば家族や友人同士のランチなどでファミリーレストラン本来の大いに賑やかな空気があるあはずなのに、深夜の時間帯で客もわずかしかいなくて会話も店員の業務上の会話しか聞こえてこない店内は、カラフルでやたらに目に付く案内や新メニューのポスターが昼間の賑やかさを匂わせていて、深夜の客の空気も交じると余計に静かすぎてしまう。

そんなような深夜のファミリーレストランでそんな質問をするのは良くない、深夜にラーメンを食べるのも良くない。

すっかり持て余したラーメンを見つめながら、こんな気持ちになるために聞いたのではないのに、ただ、別れというものが二人の中で最も遠いところにあるのだと確認したかっただけなのに、これではまるで別れ話をされたような感情ではないかと万理はぼーっとして、さっきの質問を後悔した。

持て余した万理のラーメンを見て幸太郎は

「こんな深夜にラーメンを食べに女性を連れてくるのはダメだよね。」と、おどけた表情で万里から丼を取り上げて、ズルズルと小気味の良い音を立てながらラーメンをすすっていくと、あっという間に持て余した万理のラーメンは幸太郎の口の中へ入っていった。

幸太郎のおどけた表情も、深夜だというのに旺盛な食欲を見せられても万理の胸の苦しさや後悔は消えなかった。

いっそラーメンのように幸太郎に食べられてしまいたかった。さっさと口の中に運ばれて消化されて消えてしまれば楽になってしまえるのに。


あんなに別れを恐れていたのに、今、そんな状況になりつつある。

何も考えていなそうで、能天気に見えていたが、おおよそ最期の予想は幸太郎には出来ていたのかと思うと、ちょっとおかしかった。


この8年。万理は不倫はいけないことなのだとずっと思ってきていたのに、どっぷりはまっている自分を心底馬鹿だと思った。

心底馬鹿だと思えば思うほど、万理はおかしな愛情確認をよくしては幸太郎の目線が自分にあることを自分に認識させて安心していた。ー例えば電話口の幸太郎の声色に飽きてしまっているような感情が滲んでいないか、家に帰った時に幸太郎の荷物がちゃんと置いてあるか(ある日突然にいなくなってしまってないか)、髪型の僅かな変化に気づくか、など考えたらキリがないー

あるいはもしかしたら、自分は愛人体質とかいうやらでこの人といるのが運命なのかもと妙な考えをもって自分を正当化しようとしたこともあった。

何が何でも別れたくないと思っていた。

いつだったか、距離をお互いおいたことがあって、その時は万理は苦しくて苦しくて死にそうなくらいどうしようもなかったが、今思えば、その時にいっそ終わりにしてしまえば、こんなに荷物も増えなかったし、なにより自分の人生の時間が余ったのだ。

こんなふうに思えるなんて、この時の自分からは想像だにできない。

思い出も思い出せなくていつまにか色あせている。

前は一言一句間違えないほどに、写真よりも正確に二人の思い出を思い出せたのに。

そしてその思い出を話すと幸太郎は

「よく覚えているね。」と、嬉しそうに言ったのだ。


しかし万理には、出せる愛情も、してやれることの何もかも、あらゆるものも、もうなんにもなくなってしまったのだ。


いつも万理の恋の終わり方はこうだった。

特段、ほかの誰かを好きになったわけでもないのに、愛情や恋していた気持ちなどを全部全て使いきって感情がどこか遠い遠い遠いところへ行ってしまって、どうしたいかわからなくなって、「あっ、もう好きじゃないな。終わりかな。」と、ぽっかり心にスペースが出てくるのだ。

車を運転しているときに、そこまで距離は走ってないはずだからとそれまで気にしていなかったガソリンのエンプティマークに、そう言えばもしかするとかなりの距離を走ってきてしまったかもしれないと気づかされるような感じに似ていた。

ガソリンのように給油出来るなら事足りるが、給油も補充も出来ないのだから別れるほかないのだ。

相手がたくさん愛情をや相手に関しての想いを持っていたとしても、それを補充してもらって万理のものに出来るわけではない。


これを友人の貴子に話すと、

「別れる べき とか強制のような感情じゃなくて、万理が心から別れたいと思わないならそれはマンネリかもね。」と言われた。

「何か刺激的な事があればまた元のように好きになれるかも。」と言われたが、万理が思うに、マンネリというものはまだ少しでも愛しているとか好きだとかと思えていたら、刺激的なことで解消できるかもしれない。実際、マンネリは何回かあったし、それはそれでちょっとした旅行などでいつの間にか消え失せていて、解消できたのはそれはやはり、少しでもまだ好きだったからだ。


やはり別れるほかないのだ。別れてしまった方が楽なのだ。平然と恋人然として他にいい人ができるまで保留にして惰性で付き合っていられるほど万理は器用ではなかった。


万理の場合、別れる時には、もう惰性などで付き合っていられるほどその男に対して労力が微塵も残ってない。

そこまで消耗してしまうまで、付き合った男と一緒にいるから万理には復縁という物はなかった。

そこまで嫌になれるほど一緒にいて、ある日エンプティマークに気づいて、そろそろ切れるかもという状況に気づけなくて、男に別れを匂わせて心の準備でもさせてやれない万理は卑怯者か恋が下手な人間なのだ。


幸太郎の物を一つ一つ目に止めた。

幸太郎の荷物はたくさん溢れているが、幸太郎と実質的に部屋で一緒に過ごした時間はそれほど多くない。

仕事や、家のことや趣味のジムで来るときはいつも遅かったし、休日は大抵いなかったが、8年という年月がそれらの僅かな時間をよせ集めて多く感じさせた。


幸太郎との恋は、水を火にかけて、ずっとずっと沸かし続けて、沸点も超えてやがて蒸発し始めて、最期はからの容器にわずかにカルキが残るくらいまで沸かし続けるような恋なのだ。結局そのままその容器を放っておいても燃え尽きて灰になって終わるのだ。

あるいはガソリンスタンドのない道をずうーっとずうーっと車で走ってきて、とうとうガス欠で止まってしまって、万理には車は押せないから車を乗り捨ててほかの車をヒッチハイクでもしなくては町に行くにも帰ることすらもできないような状況になったしまったかだと思った。


寝そべる幸太郎を見ると、だいぶ白髪が目立つようになっていて、いつも間にか横顔も少し老けてきていた。お腹周りも中年太りの陰りがある。そうやって幸太郎を見ていると、自分はいつの間にやらだいぶ遠いところまで来てしまった気がした。

ふと消えているテレビの黒い画面が鏡になって見えた万理の表情は幸太郎と付き合っていた最中の自分の顔が消えかけていた。いつの間にか出会う前の自分の顔が少しずつ顔を覗かせていた。


やはり使いきってしまったのだ。


幸太郎に視線を移しまじまじと見てしまったいたので、視線を感じた幸太郎が万理を見てきた。

「お腹減らない?食事にでもいく?」相変わらずきっと何も分かってないのか、あるいは気づいていても別れることに労力を使うのが億劫で気づかないふりを決め込んでいるのか。のんきな声でいつものように聞いてきた。

このあと自分が口にする言葉をどういう顔で聞いてくるのか万理は心の奥がざわざわと不快な気持ちになってきた。あのファミリーレストランのような胸の苦しさが蘇ってきた。そしてその時に頭に浮かんだ幸太郎の落ち込んで沈みきった表情がま浮かんできて咄嗟に足元に視線を落とした。昨日塗ったペディキュアが蛍光灯に反射してキラキラしている。こんな感情なのに、何故、キラキラしたものが視界に入って、キラキラしていると認識できるのか。

ペディキュアを見ながら何を言うのか言葉を忘れてしまったかのように、胸の苦しさで黙りこくっていると、ふいに口をついて出てしまった。

「出てってもらえる・・・・?」

ふいに言ってしまって、万理ははっとした。

これで本当に終わりだ。言ってしまったからには戻らない。


もう空っぽなのだから、どうせ幸太郎が出て行ったところで空っぽに変わりはない。


どうやって夜が更けて朝が来たのか分からないが、朝を迎えた静かな部屋で、万理は珈琲を静かにいれた。一人分。

ハワイコナだ。幸太郎が嫌いなハワイコナ。

もう幸太郎はいないのだから、万理の嫌いな玄米茶とモカブレンドを入れなくてもいい。幸太郎の嫌いなハワイコナだけいれれば良い。

牛乳を足そうと冷蔵庫を開けると、目に飛び込んできた。幸太郎の大好物のチーズとチョコレート。

これも持たせてしまえばよかった と思った。


あのあとのことはよく覚えていなかった。

何の心の準備もしていないのにふいについてでた言葉に万理自身も慌てふためいたし、何より幸太郎自身も今まで見たことがないくらい動揺していた。

辛うじてその言葉の次に万理は小さく「ごめんなさい」と絞り出すように言った。

幸太郎はしばらく黙りこくったあとで、「やっぱり」と言った。

「やっぱり前に俺が言った通りだね。」と、酷く落ち込んで沈みきった表情をした。

これだこの表情だ。

万理はもう胸が苦しくなって居た堪れなくなって、部屋を出た。


きっと戻れば幸太郎はいない。溢れた荷物もない。


そのあとどの道順をどうやってぐるぐると歩き回ってどうやって帰ったかはわからなかった。気づいたときには部屋のドアの前にいた。

幸太郎の車は駐車場にはもうなかった。

別れほかなかったのに後悔のような気持ちがどっと押し寄せてきて、脚が震えている自分がいた。

あんなに別れ方を色々模索していたくせに、後悔が胸の中に出てくるとは、情けないことだ。


まりの中にはもう何もなくなってしまっているのに。


意を決していつもより重いドアノブを回す。ガチャリと嫌な音を立てた。 ーいつもは仕事から帰ってくるときや中に幸太郎がいるときは癒される幸せな音だったのにー

この中にはもう幸太郎も幸太郎の荷物も絶対にない。


何故か嫌なドアノブのいつもと違う重厚感に打ちひしがれそうになりながら、恋の終わりなんていくつか経験済みで、気持ちがどこかにいってしまったのに後悔したりするのは滑稽だと自分を嘲笑った。


ドアを開けるとやはり幸太郎はいなかった。押し寄せてくる感情の波に押されながら部屋に進むと部屋は幸太郎の荷物はなかった。スーツも下着も靴下も普段着もギターも陶芸セットも。


片付けているところは見ていたくなかった。きっと悲しそうな顔で玄関を出ていくのだろうし、その顔を見たら憐れみで別れられなくなって、感情もないのに惰性だけで付き合うといった万理のできないことをすることになってしまうし、そうすればもっと酷い関係になってしまう。

やはり、惰性で付き合っていけるほど万理には幸太郎との恋愛に対しての余力は残っていなかった。

スペースが空いて少しスースーとした部屋を見渡しているうちに、また一人に戻ってしまって心もとないような気もしたが、ほっとしている自分が出てくるのも確かだった。

追い出してほっとする自分がいるなんて、やはり自分は残酷なのだろうかと後ろめたさも少し。


万理は気づくと幸太郎のいないまだ幸太郎の匂いの残る広くなったベッドで眠ってしまっていた。

朝が来て、幸太郎の匂いが嫌だと思った。好きだった男の匂いが嫌になってしまうなんて、きっとそれは惰性で付き合えるほどの関係ですらなくなるのだ。

幸太郎の匂いも物も何も感じることができない自分が出てきてしまったのだから。


ベッドを買いに行こうと思った。ソファーも部屋に釣り合うものに買い換えようと思った。

幸太郎の気配はまだまだ出て行ってくれそうにはない。


ふと合鍵を思い出した。返してもらってない合鍵をどうしようかと思って、電話をしようか迷ったが、もうすでに着信拒否になっていたりしたら何故か悶悶としてしまいそうな自分がいて止めた。

大家に頼んで変えてもらえばいいだけのことだ。

そう万理は納得して、ソファーやベッドを買い換えるべく着替えをして部屋をた。アパートを出るときに、いつもの習慣で郵便受けを確認すると、鍵が入っていた。

幸太郎が自分でつけたキーホルダーと一緒に。

なんだ意外と小心者の男だったのだ 思った。面と向かって、後日、鍵を渡しに来れないなんて。そう思うと、万理はおかしいような情けないような気持ちになった。

鍵からキーホルダーを外し、キーホルダーを捨てると、万理は買い物にでた。

冷静に考えてみれば、渡しに来られなくて良かったのだ。来られたら来られたで気まず過ぎる。

きっとその気まずさにはお互いに耐えられない。


恋いは終わったのだ。唐突に誰かがお湯を沸かして、沸きすぎているのに火を止めないで灰にしてしまったのだ。あるいはガソリンのエンプティマークに気づかないで走ってガス欠にしてしまったのだ。


外は湿った空気が立ち込めていた。万理は空を見た。やたらと重い雲が立ち込めている。梅雨の季節に入ろうとしていて空気が雨の匂いを含んでいた。


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