第3話

 そのときだった。悲鳴が、少女の絹を裂くような悲鳴が屋敷中に響き渡った。

 ぼくは弾かれたように部屋を飛び出した。


「なにかあったんですか?大丈夫?」

 

 そう叫びながら、廊下の端からドアを開けて確かめて周る。けれども、部屋の中に人の姿を認めることはできなかった。最後にひとつ残ったドアを開ける。


 人の姿は、やはりどこにもない。それでも、まるでさっきまで誰かがそこに座っていたかのように、わずかに角度をつけて後ろに下がっている椅子、ビューロの上に転がった万年筆、ぱらぱらと風に任せてページを踊らせているノート。


 いや、待て、あれは。クロゼットの閉じられた隙間から、柔らかそうな生地が覗いている。端に繊細なレースの施された布地、まるでドレスの裾のような。


 ぼくは息を呑んだ。観音開きの扉を開く。クリーム色の生地がふわりと目の前に広がった。


「やっと見つけてくれたね」


 かすかにカーブしたやわらかな栗色の巻毛、それがわずかに絡みついた白い頭骨。どこまでも深い2つの眼窩がぼくの姿をしっかりと捉えて揺れていた。


「あははははははははははははははははははははははは」


 骸骨が狂ったように笑っている。いや、狂っているのはぼくなのか、ぼくは彼女の体を抱き上げる。すっかり白骨化した体は触れるだけでバラバラになった。柔らかなサテンのリボンが色あせもせず彼女の髪に、首に、まとわりついていた。ぼくは彼女の頭蓋骨を抱きかかえて泣いた。獣じみた慟哭は無人の館にどこまでも響いた。


 今ぼくはすっかりすべてを思い出していた。彼女がまだ生きていた時の姿。

 バラ色の頬に鮮やかな唇。素肌は陶器のように白く輝いていて、豊かな巻き髪は、ぼくと同じ、栗毛色。

 彼女がぼくのところにやってきた日のことを今でもまだ思い出すことができる。


 汚れのないまっさらなおくるみに包まれた彼女は雪のように真っ白な肌をしていた。内側からあふれるようなみずみずしさと、無垢な神性。泣き声でさえも神々しく聞こえて、ぼくは一瞬で彼女に魅了された。


 ぼくは彼女の成長を一瞬でも見逃すまいと彼女につきっきりなった。自分のことはもうどうだってよかった。ただ彼女がその頬笑みをぼくに向けてくれさえすれば、満足だった。抱きしめた時の、壊れそうなくらいにやわらかい感触。泣きながら抱きついてきた時の、その体の熱さ。涙に濡れて頬に張り付いた繊細な髪の毛や、きらきらとした瞳の好奇心旺盛な様。


 彼女のすべてが愛おしくて、手放したくなかった。ぼくに寄せられる尊敬と信頼に満ちた眼差し。彼女はぼくの全てだった。ぼくにはただ彼女がいてくれさえすればそれでよかったのだ。あのままただ日々が過ぎていってぼくたちはここで一緒に暮らしていければ良かった。それだけがぼくの望みだった。ほかには何ひとつ必要ではなかった。ぼくと、彼女と、この屋敷。それだけが世界に存在していいただ3つの要素だった。


 だけど。あの日、あの日ぼくはすべてを壊してしまった。自らの手で何もかも、粉々に打ち砕いてしまったのだ。


 赤ん坊だった彼女は今や美しい少女になりつつあった。彼女はその体を窮屈そうに何度も不思議そうに眺めた。ぼくはただその様子を見ていることしかできなかった。彼女がぼくの手の中から広い空へ舞い上がっていく様をただ見ていることしかできなかった。


 それはぼくをたまらなく狂おしい気持ちにさせた。すべてを注いだ結晶がぼくを捨ててどこかへ旅立とうとしている。日に日に美しくなる彼女はもうぼくの手の中にとどめておける大きさではなくなってしまっていた。どうして彼女はぼくを置いて行こうとしているんだろう。どうしてぼくはまたひとりになろうとしているんだろう。どうして彼女は他の誰かと喋ったりしているんだろう。どうしてぼくはこの屋敷の中にひとりなんだろう。どうして彼女はぼくのことだけを見ていてはくれないんだろう。どうして彼女はぼくにすべてをささげてはくれないんだろう。どうして、ぼくはあんなも君に与えることを惜しまなかったじゃないか、どうして君は、


 ぼくは毎日ノートに君の姿を描いた。君との楽しかった日々の思い出を綴った。記憶の中の君は相変わらず美しくて、相変わらずぼくのことだけを見てくれていた。

 それなのに現実の君ときたらどうだろう。ここのところぼくの部屋にはまったく訪れなくなったじゃないか、ぼくの話なんてひとつも聞いていないんだろう、上の空じゃないか。そんなに外の連中と遊ぶのが楽しいんだろうか。そんなにぼくと一緒にいるのがつまらないのかい?


 とうとうぼくは君の姿を絵に描くことすらできなくなった。紙の中からでさえ君はぼくに笑いかけてはくれなくなった。ぼくは悲しくてたまらなかった。君を愛していたから。ぼくは君さえいてくれれば本当にそれだけでよかったんだ、本当なんだ。


 あの日ぼくを振り払って出かけようとする君をどうしても行かせたくなかった。強引にその手を掴んだら君は少しぼくのことを怯えた目で見ていたね。その瞳の中にいつかのような尊敬や親愛の色はなかった。ただおそろしい、得体のしれない怪物をみるような目で君はぼくを見ていた。そのときぼくは悟ったんだ。今まで育んできたぼくたちの間の信頼のようなもの、愛情と呼ぶべきか、尊敬と呼ぶべきかはわからないけど、そういうたぐいのものがいまやすっかり壊れ去ってしまっていたんだとね。長い長い時間かけて育んできたそれを、ぼくは今自分の手で叩き割ってしまったんだとね。


 もうどうしたって取り返しはつかなかった。それならもうどうなったって構わなかった。以前の君が戻ってきてくれないなら、ぼくは世界がどうなろうったって構わなかった。


 

 そのまま君を抱き寄せてぼくはその唇にキスをした。君の唇は少し薄くて、でもとても整った美しい形をしていたね。その時の君の顔をぼくは今でも忘れることができないんだ。その目はもう親しみを込めて兄を見るような目ではなかった。ひどく怯えて、それから君は、君はぼくに、絶望していたようだった。


 ぼくは君がどうしてそんな顔をするのかわからなかった。昔はぼくが君の頬に唇を寄せたって、無邪気そうに笑っているだけだったじゃない。だからぼくは思ったんだ。もしかしたら君はもう、ぼく以外の誰かとこういうキスをしたことがあるんじゃないかなって。


 そのときの気持ちを言葉にすることはとても難しい。ただ溢れ得る感情はまるで舞い上がる炎のようだった。それはとても熱いんだ。月並みな表現だけども本当に我が身を焦がすようにね。そしてそれを抑えようとすることは不可能に近かった。心臓が熱くて、そこからマグマのような血液が全身に送り込まれた。そのときぼくの理性はほとんど反応しなかった。ただ、そう、感情だけが無遠慮に体中を駆け巡っていったんだ。


 考えることはほとんどしなかった。気がついた時にはぼくは、ぼくは君に掴みかかってその首を。最初は柔らかなサテンのリボンで、それがあまりにも繊細で柔軟性に優れていたことに気づいた後ではこの両手をもって。これでもかというくらい、締め上げていたよ。君は何度もぼくの手を掻いた。狂おしいくらいに何度も。その手はやがて踊るように宙を大きく舞って。何度か体を大きく痙攣させると君は、本当に、ピクリとも動かなくなった。ぼくはどのくらい君の首を締め続けていたんだろうか、君が動かなくなった後も、しばらくぼくはその手を離せなかった。


 やっとのことで手をそこからはがすと、乱れた髪が汗とともに君の首にへばりついていた。


 時間を経るごとに浮き上がってくるぼくの手の跡。それは白い首筋に痛々しいほど鮮明で、ぼくは怖くなって君をクロゼットの中に押し込んだ。君の体はもう以前のように意識を持って動くことはなくて、ただぐにゃぐにゃと人形のようにだらしなく弛緩していた。


 ぼくはその場から逃げ出した。階段を駆け下りて、扉をあけて、門をくぐって、どこまでも走り続けた。


 森の中は静かで昼間だというのにとても暗くて。


 ぼくは木々の中を走り抜けてどこまでも。そのうち、大きな樹の下に座り込んでいたら夜になった。


 その日は月もなくて、霧の深い夜だった。ぼくはとりあえず森から出て大きな道路を探そうと夜通し歩き続けた。だってこんな暗いところにずっといるのはごめんだったから。


 それなのに、歩けど歩けど道はない。ただ鬱蒼と木が茂っているだけだ。


 いつまで経っても日が出ない。


 ぼくは空腹と孤独と恐怖に苛まれながら森の中をさまよった。


 真っ暗で、誰もいなくて。


 どうしてこんなに歩いているのに森から出ることができないのか。


 どうしてどれだけ時間が経っても朝日すらのぼらないのか。


 不安と孤独に押しつぶされそうになった。


 そんなときぼくは森の中で君の走り去る後ろ姿を見た気がした。


 ぼくは自分が君に手をかけたことも忘れて嬉しくなった。


 追いかけて、追いかけて、追いかけて。それでも君は振り向いてくれない。


 やっと捕まえたと思ったその時、振り向いた君の顔は、すっかり腐っていて蛆が這っていたね。


 ぼくは逃げた。君から逃げた。必死になって走った。


「どうして逃げるの?」


 お兄様、と君が呼ぶのが聞こえた。ぼくはなんとしてもこの森をでなければならないと思った。


「どうして逃げるの」


 また君の声が聞こえた。


「私から逃げるなんて許さないから、私は一生あなたを離さないわ」


 一生だって、笑わせる。君の命はもう終わっているんだ。ぼくとは違う、君は死んでいるんだ。


「そうね、そう、だから私は永遠にあなたを逃さないから」


 永遠だって?そんなのはごめんだ。君はただの、死人のくせに。ぼくは逃げた。走って、走って、走り続けた。


 それなのに?どうして。どうしたって朝が来ない。月は満ちない。森に終わりがない。そんなはずは。そんなはずは。


「私を置いて行くなんて許さないから」


 また君の声がした。ぼくはこんな風にして少しずつ狂っていく。狂っていく。


「殺してくれ」


 君の声は答えない。ぼくが泣いても、叫んでも、君の声は答えない。


「殺して」


 正気を失って、すべてを忘れても、きっとまた君はぼくを呼びに来る。


 ぼくは君のところに戻らないといけない、


 だって君を殺したのはぼくだから。


 それを忘れるなんて、君が許すはず、なかったんだ。



「殺して」


 ぼくを、その手で。

 

 どうか、お願いだから。

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