005 勇者少年

「……勇者よ、名乗るのです」


問いかけられたのは、少年だった。少年は青くて甘い光の海の底で、ひざをカカえてまどろんでいた。──ゴポゴポゴポ。時折、水泡スイホウが鈍い音を立ててのぼってゆく。水をハラんでやわらかくゆれる光のカーテンが、少年のほほを撫でるようにそっとふれる。


なにもかもがなくて、なにもかもがある。


この遠く忘れられた底で、ただ海月クラゲのようにたゆたって、肉体も意識もぜんぶ溶けて海にまざってしまえたなら──。


「……勇者よ、名乗るのです」


だれかが、また問いかける。脳のどこかがシュクシュクする。赤の他人が土足で脳にあがりこんで、五月蠅ウルサい。だけれど、脳では耳をふさげない。少年は神経をトガらせる。──ブクブクブク。海がニゴる。そして、また。


「……勇者よ、名乗るのです」


──ヒトチガイです。ヒトチガイです。ヒトチガイです。ヒトチガイです。ヒトチガイです。少年が雑音ノイズをふり切ろうとするほど意識は働いて、まどろみは泡のように消えかける。


だいたい意味不明だ。勇者だなんて。正気で探しているのなら、正気を疑いたい。ゲームじゃないのだから。だれだかは知らないけれど、危ない。関わりたくない。少年はぎゅっと目をつむり、頭を抱えて、ちいさくマルまる。だけれど、また。


「……勇者よ、名乗るのです」


──ウザイです。ウザイです。ウザイです。ウザイです。ウザイです。アアアアアア。脳がムズガユくなるのです。追い払っても追い払っても、ブンブン顔にまとわりつくハエのようなのです。消えてください。消えてください。消えてください。消えて──。


「……勇者よ、名乗るのです」


勇者よ。勇者よ。勇者よ。勇者よ。勇者よ。勇者よ。勇者よ。勇者よ。勇者よ。勇者よ。勇者よ。勇者よ。勇者よ。勇者よ、


「タァナです」


こらえ切れず少年は、打ち消すように名乗った。──ドポドポドポドポドポ。少年のノド水没スイボツする。──コポァコポコポコポァッポァッポァッ。少年の気管支キカンシムセぶ。死に物狂いで咽ぶ。だけれど少年は、無力なほどに抗えない。肺が水没する。肺の膨張が止まらない。息が、息ができない。バタつかせる手足は、むなしくクウを切る。なににもさわれない。どこにもつかまれない。からだが不自由に回る。ふんばれない。手足に力が入らない。溺れる。溺れる。溺れる。──すっ…………と、意識が遠のいて、少年は、まぶたをひらく。


「タァナ、タァナ」


母親だった。母親が少年の顔をのぞきこんでいた。は間違いなく、母親だった。なのに。少年は、体温を一度にごっそり失った気がした。少年は無意識に腕を抱えた。さぶいぼが腕をツタって全身いつくばる。このヒトは母親。だけれど、『』だ。──少年の本能がそうオビえた。


「寝坊しますよ。きょうは16歳の誕生日。王様に謁見エッケンしにいくのでしょう」


セリフを読むようにそれだけ告げて、母親はくるり背をむけた。ッハァ、ッハァ、ッハァ──。少年はまだ肩で息をしていた。気にかけるそぶりもなく、母親は部屋を去る。ミシリ、ミシリ、ミシリ……。木板のきしみが階下に遠ざかる。レースの白いカーテンがふんわり風を孕んで、少年のほほをくすぐった。息が止まっていた、かのように、少年はドッと息をつく。少年のシャツはぐっしょり背中にへばりついていた。


少年は枕を抱え、部屋を出る。階下の物音に耳をそばだてる。母親はどうやら台所らしい。少年は足音を殺して階段を下りた。母親は背をむけている。少年は転がるようにして、家を出る。バランスを崩して手をついた。朝の土はまだ冷たい。少年はツッパシった。少年は一度もふりかえらなかった。ほほを撫でつける風は、春の匂いがした。少年は空を見上げる。ツクリモノみたいな青。嘘みたいな青空だった。──まあだけれど、ぼくの運命のほうが、よほど嘘くさいですね。少年は、少年が背負わされた運命に失笑した。


──勇者。それが、このセカイでの少年の役割だった。

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