kushami at the Heart of the World

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「くしゃみ!」

 という声に井上は驚いた。驚いて、目の前で鼻をかむ鈴木に、今「くしゃみ」と言ったのか、と確認した。鈴木はうなずいて、丸めたティッシュをカレーセットが並んだトレーに置いて、スプーンを握る。井上が鈴木と食事を共にしたのはこれで八度目だが、そのすべてで鈴木はカレーを注文していた。カレーが好きなのだろう。彼らが通う大学の食堂ではカレーはボリューム不足故にさして人気はないのだが、こう何度も目の前で同じものを食われると美味そうにも見えてくる。

 井上はなおも質問を続けた。今のは「くしゃみ」と言ったのか、それともくしゃみをしたのか、と。くしゃみをしたのだ、と鈴木は答えた。

 くしゃみというのは「くしゃみ」と思わず叫ぶからくしゃみたりうるのだ、と幼少の頃より勘違いをしていた故、一生懸命くしゃみのたびに「くしゃみ」と言おう訓練し続けた結果、今に至ってしまったのだ、と鈴木は訊かれもしていないことまで答えた。訊かれはしなかったが、それはたまたま井上が訊く前に話したから結果的にそうなっただけで、井上はもともとそのことについて尋ねるつもりだったので、これは手間が省けたことになる。

 答えにくいことを話してくれてありがとう、と井上が頭を下げると、わたしには疚しいところなど一つもないのだ、と言ってからもう一度くしゃみをした。

「くしゃみ!」

 そのくしゃみの癖だけで、井上が鈴木に惚れるのには十分だった。

 それ以来、井上は鈴木の行動を注意深く観察するようになった。

 宗教学概論。井上にとってはひたすら退屈なだけのもので、未来ある若人の貴重な時間を空費させている事実だけでもこの教授は無条件で俺に単位を与えるべきであるとすら思っていた。が、鈴木はさにあらずであった。講義の後も教授の元まで寄って、何やら話をしている。

 井上は教授の右耳の耳毛が気になった。一刻も早く退席してクラブハウスに行ってしまいたかった。しかし鈴木が残っている以上そうはいかない。いや、別に鈴木と共に行動する約束をしているわけでもないのでそうはいくのだが、井上は鈴木に惚れている以上、やはりそうはいかない。なので井上はノートの内容を整理するふりをする。実際のところは、ノートに今日の講義の内容など何一つ書かれていない。

 そろそろ次の講義の学生が入ってくる、というところでようやく鈴木は教授を解放した。教授は講義中よりも疲れたような顔をしている。

 井上は席を立ち、鈴木の所へ駆け寄り、やあ偶然、俺もノートの整理で教室に残っていたのだ。我等のような熱心な学徒には時間がいくらあっても足らんな。時間の流れの方が我々に合わせるべきだと思わんか。と、声をかける。鈴木はうむとうなずいた。

 ところでさっきは教授に何を訊ねていたのだ、と井上は最も気にするところを問うた。鈴木は、なぜ耳毛を伸ばしたままにしているのか、と訊ねたのだと答えた。確かに気になるところではあるな、と井上は深くうなずいた。

 二人はいつしか一緒に遊びに行く仲になった。二人きりである。恋人と称しても差し支えない間柄になっていたのだが、井上はあくまで鈴木の「くしゃみ!」が好きなのであって彼女の有する肉体にはさしたる関心はなかった。なので二人は清いままであった。

 ある日二人がおしゃれな街を歩いていると物乞いを見かけた。別におしゃれな街では珍しくもなんともない。田舎育ちの井上は、初めて彼らを見たときには何かしてやるべきなのか、何をするべきなのか、と内心オロオロしていたものだったが、都会生活も二年経った今では何もすべきでないのだ、と気づき、彼らを街の風景の一部と認識するとうになっていた。が、鈴木はさにあらずであった。

 鈴木は物乞いの前にしゃがみ、何事か言葉を交わすと財布を開き、キャッシュカードを取り出してそれを物乞いに渡した。何をしているのだと井上は思ったが、善行であるので止めるべきではないなと考えた。

 物乞いの傍を離れてから鈴木に真意を訊ねた。普通の行いではないぞと言った。鈴木は特に意に介さず、わたしは田舎者だからああいうのが珍しくて、つい手を貸してやりたくなるのだ、と答えた。どう考えても手を貸すという度を越えているのだが、井上はなるほど、と言うきりであった。

 二人は付き合っているようなものなので、その関係には山も谷もあった。谷の例を挙げてみる。

 二人でテレビを観ていた時のことだ。むろん、今どきの若人がテレビごときつまらんメディアをただ一心に観ているわけがないので、本を読んだりネットをしたりしつつの、ながら視聴である。そのながら視聴をしていたテレビに、浅田真央が出ていた。二人は二人とも、彼女はかわいいとは言いにくい、と言った。井上は、かわいくはないが純朴な感じがあって悪くない、大体アスリートなのだから顔は関係ないのだ、とフォローを入れたが、鈴木にはそのフォローが気にくわなかったらしい。

 鈴木が言うには純朴な奴がアスリートの癖にCMなんぞに出るか。というか、フィギュアみたいな見た目の美しさを競う競技を選択するか。ということらしい。奴はあの顔でアイドルみたいなメンタリティを持ったふてぇアマなのだ、とまで言い放った。

 さすがにあまりに言い過ぎではないか、と井上は抗議した。井上は浅田真央とライン友達だったのだ。だが、鈴木は井上のそんな事情など知らないし、知っていたところで自身の価値観を変える事はなかっただろう。

 なので鈴木は井上を本気で殴った。左の頬をえぐるように、かつ、打ち上げるように殴られた井上は、ダブルアクセルを強制的に決めさせられた後に、地に伏した。痛いか、と問われたので痛い、と答えた。口を開けたら血がだらだらと垂れて、奥歯が一本折れてこぼれた。やりすぎではないかと抗議したかったが、言い過ぎではないかと抗議した結果こうなってしまったので、同じような言い方は憚られた。なのでもう一度、痛い、と言った。

 鈴木は黙って部屋を出て行った。どうしたものか井上は悩んだが、とりあえず起きて口をゆすいで折れた歯をへその緒が入っているケースに一緒にしまった。それから二人分の三時のおやつを買いに近所のケーキ屋に向かった。

 ニューヨークチーズケーキとモンブランをテーブルに並べてコーヒーを淹れていると、鈴木が戻ってきた。どこに行っていたのかと問うと、歯医者に行っていたと答えた。鈴木は片手を突き出し、すっぽりと根元から抜けた奥歯を見せた。これでおあいこ、ということらしい。井上はうむとうなずくと、モンブランでも食べなさい、と鈴木に勧めた。麻酔が効いている鈴木はひどく食べづらそうだった。

 これと同じようないさかいが二人の間には幾度もあった。おかげで、二人の歯はほとんど差し歯になってしまった。

 二人は結婚をした。知り合ってから八年、「くしゃみ!」を聞いてから七年経っていた。二人の関係は清いままであった。よって当然子供はいない。作る予定もない。そしてそのまま五年を共に過ごした。

 真夏の暑い中、なぜかいつもはうるさい蝉の声が全く聞こえない、三百六十度どこを見回しても雲一つない、代わりに何故か大きな虹が見える日のことだった。あまりに暑く、もう二人は一週間そうめんしか食べていなかった。そろそろ何か精のつくものを食べるべきではなかろうかと井上が提案すると、鈴木はそろそろ潮時かもしれぬ、と多少ずれたような、そうでもないような言い方で答えた。

 鈴木はでは何か食おう、と言う。うむ、と鈴木は首肯し、二人はココイチに行った。二人の間では外食と言えばカレーということになっていた。

 街に出てみると、人っ子一人いなかった。学生たちは夏休みの只中であるにも関わらず、どうやら皆、部屋に引きこもっているらしい。ところが、学生どころかどの店をのぞいてみても、店員の姿すらなかった。井上は首をかしげた。喧嘩の元になるのでテレビやパソコンは捨ててしまっていたので、世の中で何が起きているのか、井上はさっぱりわからなかった。

 とりあえずココイチに入るが、やはり店員はいない。厨房に入ってみると鍋の中にはカレーがあったし、ご飯も炊き立てのものがあったので自分たちでよそって食べた。無銭飲食は良くないので、レジカウンターに二人分の代金を置いておく。ついでにトッピングの内容まで書き留めた手書きのレシートも添えた。

 食後のコーヒーを飲むべく、二人は近場のカフェに入り、同じように自分たちでコーヒーを淹れて、代金を置き、レシートを添えた。店のシステムに合わせて、先払いにしておいた。

 たまにはこういう、誰もいない街というのもいいものだ、と井上が言うと、普段から似たようなものだ、と鈴木は言った。井上は鈴木の言葉の意味が分からず、反応をしないでいた。すると鈴木は突然立ち上がり、それではわたしはそろそろいなくなる、と宣言した。やはり意味が分からず、やはり反応せずにいる井上。鈴木はかまわず言葉をつづけた。君はあまりに長い間二人きりで、いや、一人きりで居過ぎた、と。

 井上はここでようやく、どういうことだ、と尋ねた。こういうことだ、と鈴木は両手を広げて井上に周囲を見るように促した。促されるまでもなく、店には、街には、世界には、人っ子一人いない。

 さよなら、とつぶやくと、鈴木は店を出て行った。しばらくぼんやりその様子を見守っていた井上は、ふと我に帰り、慌てて店を出て鈴木を追いかけようとした。

 不可能だった。街には人があふれかえっていて、とても鈴木の姿を見つけることなどできなかった。途方に暮れて井上が宙を仰ぐと

「くしゃみ!」

 いつもの鈴木の声が、空から降ってきた。

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