新代官就任

 六浦湊の大喧嘩は悪代官石田右京と、海運の利権を私して大勢を誇った浦五郎を完膚無きまでに叩き潰した戸塚・鶴見の連合軍の名を大きくした。拷問によって大怪我をした戸塚の貸元、友蔵は奇跡的に回復し、座ったままではあるが、配下の者達を指揮している。文吉はその姿を見て安心したのか、鶴見への帰還を宣言した。その際、空白地になった六浦湊と浦五郎の縄張りを友蔵の下に置くように言った。

「文吉親分、それは無謀ですよ。磯子や帷子が黙っちゃいねえ」

「そのことだが、奴ら二人は内心は知らねえがきちんと自分のシマを守り、浦五郎の誘いもきっぱり断ったという。一度四人で話し合いをしねえかい。恩州やくざも減っちまったからな。シマ割りもやり直した方がいい。その間、暫定で預かってくれ」

「承知しました」

「分かってくれればそれでいい。おい熊太郎……ああ、お前もいっぱしの親分だったな。綱島の熊太郎貸元、俺らはこれで帰るとしよう」

「ちぇっ、くすぐったい事言うなあ。熊でいいっすよ。支度は万端、あとは親分だけですよ」

「ああ、そうかい。では行くぞ」

 文吉一門は戸塚を離れた。


 離れたといえば新九郎一行である。あれからもう、ひと月。駿河の大親分の庇護下に置かれている、と思いきや、彼らがいるのは、『藤沢宿』であった。恩州から何里も離れていない。どうした事か? その原因は、もちろん新九郎の病であった。医師から用量用法を守るよう言われている劇薬を甘納豆でも食べるように口に放り込み、水でガーッと飲んでしまうのだからしようがない。六浦湊を出るときは絶好調だったが半里も行かぬうちに気力を失い、青の背の上でぐったり、それが宿についてからも治らず、今を迎えているのである。

「新九郎様、お加減いかがですか」

 仁八郎が見舞うと、

「ううむ。これまでの経験から言うとあと十日はかかるかな」

呑気に答えた。

「そうですか。お大事に」

 仁八郎はそう言うと宿の外に出た。

「しかし、追っ手らしき者もない。面妖ではあるな」

 宿屋の入り口脇に、馬、猪、白犬(くどいようだが本当は狼)さらに馬の上に鷹が居る。こんな異様な状況だから捕まえる気ならすぐに捕縛出来る。なのに、なにもない。

(御公儀になにか混乱があるのか?)

 考える、仁八郎。それは正解であった。


 江戸、勘定奉行所内。

「なに、六浦代官石田右京が、やくざ者に惨殺されただと」

 勘定奉行、古川備前守は叫んだ。

「どういう事だ」

 六浦代官所筆頭与力、堀十郎太は答えた。

「正確に申さば右京殿は代官職を辞しておりました。その朝一番に与力同心を集めて出奔を宣言されました。その後下男を連れて退去。我らが右京殿の安否を知ったのは翌日の午後、鶴見の文吉という名主の配下の者がご遺体を代官所に運び入れました」

 文吉をやくざだと知ったら備前守が激怒すると思った十郎太は穏便に話しを進めた。

「その後十手を預けておりました浦五郎というものとやくざ衆が闘争になりました。その数、二千対千六百。我ら十二名の与力同心、なんとか事を穏便に終わらそうとしましたが多勢に無勢、結局大乱闘の末、浦五郎は死にました」

 これを誇大報告という。

「右京の死と闘争のつながりが良く分からないが……目明かしが殺されたのか。公儀に対する反乱ではないか。下手人のやくざ連中の正体は分かっているのか」

「いえ、これが全く……相模あたりから乗り込んで来たという可能性もなくはなく」

「ええい、はっきりしない! 相模のやくざなら、小田原城代、小久保殿にも連絡をつけなくてはならん。とにかく一大事だ。ここは大老様のご意見を伺おう」


 黒船の来襲、開国の要求という政治的困難のなか、井伊掃部頭は大老になっていた、これは二橋慶喜を次期将軍に推す遠藤伊賀守一派と紀伊の徳川大福を担ぎ上げる南紀派との政治工作の末の就任であった。いろいろあって井伊は途轍もなく忙しい。ゆえに古川備前守の報告に《赤鬼》と呼ばれた井伊はイライラが爆発して激怒した。

「軍勢を揃え恩州の下郎共を討つ。先陣は当家と藤堂殿じゃ」

 と喚き散らしている所に、城内散歩中の将軍家元が小姓を連れて現れた。なんと家元は美食が過ぎて肥満してしまったので運動を典医から勧められていたのだ。

「掃部、忙しいのは分かるが短慮はいかん」

「はは」

「恩州の件、ふすまの影から聞いておったぞ。でな、暗君の余が名案を思いついた。天変地異が心配じゃな」

「名案とは」

「この者を代官とせよ」

 そう言うと、家元は懐紙にさらさらっとしたため井伊掃部頭に渡した。そして、

「物事、穏便が一番。攘夷派を虐めるのもほどほどにな」

 と言い捨てて消えた。その懐紙に書かれていた名前は!


 若葉が梅雨にあたってその色を濃くしていき、鶴見の文吉の娘、凪は夏が近い事を悟った。それにしても新九郎さん達はどうしているのだろう。駿河の客人としてまたゴロゴロ寝たり、近所の野良ねこ相手にぼんやりしているのだろうか。こっちは恩州の今後をはかってお父さんが老体に鞭を打って動いている。北恩州は文吉の配下筋の綱島の熊太郎、鴨居の虎太郎に小机の竜太郎。そして新九郎さんに置いてけぼりをくらった長太郎が生麦のシマに戻った。日吉の隠居、大師の竜平の二人にも怪しい気配はない。

 問題は南恩州だ。そのほとんどが浦五郎のシマだったため、放っておくと帷子の染吉、戸塚の友蔵、磯子の千ノ助の三つ巴の喧嘩が起こりかねない。しかし、その三人は人間が良いと評判な者達だ。そこで友蔵の快気祝いを兼ねた花会を戸塚でやろう。ついでにシマの割り振りもしてしまおうというのが文吉の考えだ。全恩州の貸元が集まるなんて、浦五郎のときには考えられなかったわ、と凪は思った。そんな時、

「恐れ入るが、鶴見の文吉殿のお宅はこちらかな」

と中間二人を連れた武士が話しかけて来た。

「はい、ここが文吉の家ですが、今は居ません。縄張りの件で恩恵国中飛び回っています」

「そうですか……失礼ですが、あなたはどなたですか」

「私は文吉の跡取りの凪です。お武家様は」

「ええと、それはそれとして、草刈新九郎はご存知ですか」

「新九郎さんなら一月前まで居ましたが今は駿河に旅に出ています」

「そうですか……いつ頃戻りますか」

「状況次第ですけど一年くらいかしらね」

「それは困った……お凪殿、ひとつ預かって欲しい物があるのですが」

「なんですの」

 凪が聞くと、

「伝助、あれを」

と武士が中間に声を掛けた。中間は背中に背負ったお櫃を地面に下ろした。

「まあ大きい。こんな物渡されても困るわ」

「これを置ける場所までは伝助が持って参ります。どうぞこれを……草刈新九郎にお渡し願いたい」

「ううん、分かりました。預かりましょ。それよりお名前は?」

「しのびの身ゆえ匿名希望として欲しい。いずれ分かりますから。楽しみは取っておいてくだされ」

 そういうと武士は馬上の人となり中間二人とポツポツ行ってしまった。

「へんなの……あっお櫃、置きっぱなし!」

 凪は叫んだ。


 そのころ六浦の代官所では一悶着起きていた。

「堀殿、新しいお代官様はいつ来られるのです。江戸は一緒に発ったのでしょう」

 次席与力の岡村主計が言う。

「確かに川崎の宿までは一緒だった。しかし、お代官様がそこで国内を見聞したいので先に行けと仰ったのじゃ」

「この大事なときになんと呑気な」

「しかしあのお方は……」

「そうでした。甘く見てはいけませんね。なんたって……」

 主計が何か言いかけた時、

「新しいお代官様のご到着ぅ」

小者の叫ぶ声が聞こえる。

「さあ、広間に同心、小者、目明かしを集めよ」

 十郎太が年長者の威厳で主計に指図した。


 四半刻後。

 広間に配下の者が平伏する中、新代官が上座に着席した。

「ご着任つつがなくおめでとうございます」

「ありがとう。しかしそんなに堅苦しい挨拶は不要ですよ。それがしは草刈小十郎義正。皆さんよろしく」

 新代官、草刈小十郎が返答した。その瞬間、

「く、くさかり」

「まさか」

「左斬り?」

広間がざわついた。

「まあまあみなさん落ち着いて。それがしは、新九郎の弟です。今度の就任も、上の方々がよくよく考えた特例であると思います。我が草刈家は神君以来三千石もの禄を頂戴する身。通例では代官は百五十石以下の職務と存じます。そこで、改めて伝えておきます。我が使命は恩恵国の秩序を守り、民の安全を保障するものと考えます。もし兄、草刈新九郎がその信念に邪魔をするならそれがしが斬り殺します。それがしとて亡き父に武芸百般を叩き込まれた身。正義の刃できっと倒しましょう」

「おー」

 広間に喚声が上がった。

「まず手始めとして御公儀に臨時与力十名、同じく臨時同心百名の派遣を依頼しました。当然、満数は来ませんので、与力三名、同心二十名くらいかな。それだけ来れば、砕け散った代官所の威厳も取り戻せるでしょう。あと、種子島は鶴見の文吉殿が返却してくれたのですね」

「はい。奴は良き博徒です」

 十郎太が答えた。

「うむ、それがしも逢いたかったのだが叶いませんでした。いずれ席を設けましょう」

「ははあ」

「では最後に一言申し上げます。たとえ敵勢が多くても土下座して命乞いをするような真似は二度といたすな。命を惜しむな、名こそ惜しけれ」

 そう言うと小十郎は広間を出た。しかし与力同心たちはしばらく動けなかった。

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