鴨居の来襲
鈴木出羽守が死んだ。卒中であった。享年六十。江戸城内は一日善後策で大わらわになった。
「上様、次の老中には彦根の井伊掃部頭がよろしいかと思います」
老中首座、遠藤伊賀守が将軍、徳川家元に具申する。
「井伊掃部じゃと。余は奴を好かぬ」
家元は浮かぬ顔をする。
「しかし掃部頭は彦根の財政を立て直し名君と呼ばれております。幕府の窮状をも何とかしてくれるやもしれません」
「そうか……仕方ない、許す」
家元は折れた。
「では井伊掃部頭をこれに」
将軍側用人、竹内修理亮が取り次ぎを呼ぶ。現れたるは威風堂々とした壮年男子であった。
「
「うぬ、ご苦労」
「さて上様、早速ながら少々お耳の痛い事を申し上げなければなりません」
「な、なんじゃ」
珍しく動揺する家元。下座で伊賀守が「これ、これ」と小声で掃部頭を制しているが、掃部頭は気にも留めない。
「将軍後継のことでございます。上様には残念ながら男子のお子が居られません。お年も四十七。今後男の子誕生の可能性はほぼ無きに等しい。そこで養子をお迎えする事を強くお勧めいたします。紀州の
井伊掃部頭の強引な申し立て。これを止めたのは意外な人物だった。
「ならば、この伊賀守も申し上げます。将軍御養子には聡明と評判の高い、
「何を申すか伊賀守殿」
「お主こそ、新参の分際で無礼であろう」
「二橋様は水戸のお方。水戸家に将軍継承権はござらぬ」
「たわけ、水戸家にはなくても二橋家にはあるわ」
「たわけとはなんでござる」
「たわけだからたわけと申したまで」
二人は将軍の前で口喧嘩を始めた。
「うるさい! 余に実子が出来ぬと勝手に決めおって。僭上の沙汰じゃ。余は宣言するぞ、一年以内に実子の男子を皆に披露してみせる」
家元はいつになく強い調子で言った。
「もし、出来ぬときは」
尋ねる掃部頭。
「そのときは、己らの好きにせい」
不機嫌にいうと家元は奥の間に消えた。
江戸に戻って来た松近健一郎は家臣の黄瀬川多門から出羽守の死去を聞いた。
「出羽殿!」
思えば皆が白眼視するなか唯一救いの手を差し伸べてくれたのが出羽守であった。この厚情に報いる事ができぬまま、草刈新九郎はどこかでのうのうと生きている。それが悔しい。
「ああ、それと鉄ノ丞殿から手紙がございます」
多門は文を差し出した。一読する健一郎。
『取り急ぎ、お知らせいたします。最近恩州中で《左斬り》という通り名の博徒が大仕事をやってのけたと言う噂が飛び回っております。これぞ、おそらくは草刈新九郎に違いありません。若君も手勢を連れ恩州に入られる事を望みます。 鉄ノ丞拝』
「鉄ノ丞も尽力してくれているようだ。よし、敵は恩州にあり」
健一郎は赤坂主膳、青山権五郎、黄瀬川多門を連れ、恩州を目指した。
そのころ鴨居の博徒、番蔵のところへ鶴見の文吉の兄弟分、小机の照平と大豆戸の大蔵が訪れていた。番蔵にとって二人は懇意の貸元ではなく、どちらかと言えばいがみ合っている方だった。それだけに意外な訪いであった。
「いったい雁首揃えて何の用だい」
番蔵は睨みを利かせた。
「お前達は文吉の腰巾着。いずれは首を取りに行こうと思っていたらそっちから飛んできやがった」
けけけ……と不気味に笑う。
「鴨居の貸元、そのことなんだ」
照平が言う。
「そのことってなんだ」
「文吉だ。あいつの身代、ちょっと大きくなり過ぎた」
「そうだな」
「こ、このままだと俺たちも呑み込まれる」
大蔵がうめいた。
「鴨居の貸元。ここは一つ動いてくれ」
「俺に文吉を討てってことか」
「そうだ。俺たち二人も協力する」
「討つのはいいが奴の縄張りはどうする」
「三人で分けよう」
「馬鹿言っちゃいけねえ。鶴見はここから遠い。おめえ達は近くて良いが、俺には何の得も無い」
「代わりに俺たちの縄張りを譲る。そんなら地続きでいいだろ」
「おめえ達、自分の土地捨てるのか」
「そうだ」
「本気みたいだな。なんでだ?」
「文吉は兄貴風吹かして『喧嘩はすんな。人のシマは取るな』とか説教垂れながら、自分は好き勝手やってる。だったら俺たちだって、いつまでも小さい縄張りでせこせこ生きてることないじゃないか。だから手始めに文吉を血祭りに上げて気勢を上げるのよ。そんで、恩州に一旗揚げよう。そんときゃ、鴨居の貸元、あんたは俺たちの盟主だ」
「ふーん。おめえ達にしちゃ、面白い事考えるじゃないか」
「へえ」
「この話し、乗った。ただし、条件がある」
「なんでえ」
「例の《左斬り》よ。あいつとまともに戦える剣客を探してきな。でなきゃ勝利はおぼつかない」
「そ、そりゃそうだ」
「俺の聞いた話しでは六浦湊の用心棒が凄いらしいぜ。まあ、別に他の剣客でも構わないけどな」
「へい」
「分かったら今日は帰んな。剣客を連れてきたら詳しい話しをする」
番蔵はそう言って二人を追い返した。
二人が消えると、
「恩州の盟主か」
一人ほくそ笑む番蔵。
鴨居を出た小机の照平と大豆戸の大蔵はそのまま丸一日掛けて、六浦湊へ向かった。六浦湊の貸元、浦五郎に用心棒を借りるためである。しかし、交渉は難航した。
「お前ら縁もゆかりもない奴らにウチの用心棒が貸せるか!」
ケチで有名な浦五郎が喚いた。
「で、でも《左斬り》を倒すには貸元んところの先生の力が必要なんで」
「《左斬り》だと。百人斬りしたって噂の男か?」
「そうです、その《左斬り》です。あいつは鶴見の文吉の食客なんでさあ」
「なんだお前達、文吉を裏切るのか」
「裏切るんじゃねえ、発展的関係解消よ」
「なんだかよくわからねえが、文吉を殺るなら考えよう。お前ら幾ら出す」
「金取るんですかあ」
「当たり前だ。二十両持って来な」
「高あ!」
「文句あるなら話しは終わりだ」
「分かりました。鴨居の貸元と相談します」
「この一件、鴨居が絡んでるのか」
「へい」
「恩州の勢力が変わるかも知れないな」
「この話しはご内聞に」
「分かった」
浦五郎は頷いた。
六浦湊から戻る道すがら、照平と大蔵は何やら相談を始めた。
「なあ、鴨居の貸元が二十両なんて大金出すと思うか」
「無理だな。あいつは浦五郎以上にケチだ。びた一文出さねえだろう」
「だけど俺たちで二十両揃えるのは……」
「無理だ」
ここで照平は頭をパチンと叩いた。
「そこでだ」
「なんだ」
「思い切ってよ、文吉に借りるってのはどうだ。あいつなら二十両くらい持ってるだろ」
「でも文吉を倒すための金だぜ」
「馬鹿だなあ、大蔵。あいつはこっちの計画なんて全く知らねえんだ。『俺たち二人で博打の借金でも作っちまって』なんて言えば、お人好しの文吉だ。気持ちよく貸してくれるぜ」
「なるほどな」
「どうだ、良い考えだろ」
「そうだな……でもさあ」
照平が呟いた。
「でも、なんだ」
「そんな人の良い文吉を殺す必要あるのかな。鴨居や六浦湊の方がよっぽど悪党だぜ」
「あのなあ、それを言っちゃあ、お仕舞よ。今、恩州は動いてんだ。まずは力を急速に付けている文吉を斬り、シマを奪う。そこで今度は俺たちが力を伸ばして一大勢力になる。最後にゃ、鴨居も六浦湊もやっつけて、俺たち二人が恩州統一を果たすんじゃないか」
「そうか、凄いな」
「だから、鶴見村へ急ぐぞ」
「おう」
二人は走り出した。
一日後。
「なに、博打で大損したから二十両貸せだと」
文吉は渋い顔をした。
「お前ら、一応貸元だろ。『貸元は自分で博打はするな』ってあれほど言ってるのによう」
「兄貴、済まねえ」
照平、大蔵は頭を下げた。
「仕方ねえ、今回だけだぜ」
文吉は引き出しから二十両を出して二人に渡した。
「ありがてえ」
照平、大蔵は逃げるように去って行った。
「せわしねえな」
文吉は煙管を吸い付けた。まさか、あの二十両が自分を殺すための軍資金だとは思いもしなかった。
照平、大蔵は必死に駆けて半日で六浦湊に戻った。
浦五郎は照平と大蔵の持参した二十両をみて笑みがこぼれるのを必死にこらえていた。
「行ったり来たり、せわしない野郎共だぜ、全く。まあ良い、約束の金を持って来たのに免じて許してやる。用心棒を貸そう」
「ありがてえ」
喜ぶ、照平と大蔵。
「牡蠣川先生をお呼びしな」
浦五郎が子分に命じる。
「牡蠣川先生はな、江戸の千葉秀作先生の朱雀館で三辰一刀流の免許皆伝を頂いた当代随一の剣客だぜ」
「そんな凄い人が何で用心棒に?」
「まあ、わかるだろ。酒と女だ」
「へえ」
照平、大蔵は怪訝そうに、
「大丈夫なんですか? そんな放蕩三昧の方で」
と質問した。
「大丈夫。腐っても鯛、腕は一流だ」
「へい」
そこに牡蠣川が現れた。最前まで酒を飲んでいたらしく顔を真っ赤にしている。
「ういっ、か、牡蠣川左門じゃ」
「うへえ、酒臭い」
照平、大蔵は顔をしかめた。呂律が回ってないじゃないか。不安が心をよぎる。
「浦五郎貸元、大丈夫ですか?」
照平が言う。
「う、うぬ。おのれら拙者を疑っているな」
牡蠣川は呟くと刀に手をかけた。
「やあっ」
鋭い奇声を上げると牡蠣川は刀を払った。その瞬間、照平の持っていた杯がまっ二つになった。
「ひー」
照平は腰を抜かした。
「拙者の腕をあ、甘く見ると、つ、次は主らの首を刎ねるぞ」
呂律の回らない口で牡蠣川左門は凄んだ。
「甘く見るなんてとんでもございません。貴方様なら《左斬り》を倒せます」
照平、大蔵は恐れ入った。
「じゃあ、決まりだな」
浦五郎が言った、その瞬間、
「待たれよ。その役目拙者にやらせてもらう」
という声がして、一人の武士が現れた。
「黒岩先生」
浦五郎が困った顔をする。
「先生にはあっしを守る役目がありまさあ」
しかし黒岩は聞かない。
「《左斬り》こそ、我が主君の仇、草刈新九郎に間違いござらん。拙者が恩州に来たのもその一事のため。ここは貸元の命令にも背かなければならん」
これを聞いて牡蠣川がいきり立った。
「黒岩氏、拙者のし、仕事を横取りす、するつもりか」
「そういう意図はない。拙者にも都合があるだけだ」
「な、なにい。ならばここで立ち会って、か、勝った方が助太刀にいくのはど、どうじゃ」
「拙者はかまわぬ」
黒岩、牡蠣川の両氏は互いに睨み合って、斬り合いを始めようとした。
「御両所待った。ここで喧嘩はいけねえ……しかたあるまい、今回は御両所に助太刀の役を頼みましょう」
「よ、よいのか」
酔眼で浦五郎を見つめる左門。
「鶴見の文吉は伸び盛りだ。ここで命を取っちまう事にこしたことはねえ。それに黒岩先生には子分の稽古、俺の警護と役に立って貰った。恩返しだ。《左斬り》なんてふざけた野郎を叩き斬ってご本懐を遂げて下せえ」
浦五郎は器量の大きさをみせた。
「ありがたい、貸元」
黒岩は頭を下げた。
「まあいいやね、杯をかわそう」
浦五郎一家では宴席が始まった。
「ところで照平、大蔵」
浦五郎が二人を招き寄せる。
「うちの剣客を二人も出すんだ。成功したらあと百両出せよ。それくらい出せるだろ」
「へ、へい。文吉のシマを取ったらそれくらいは」
「あと、代官の石田右京様にも賄をな。良いようにしてくださる」
「へい」
結局浦五郎を動かすのは金であった。
「うひゃあ、わしはやるぞ」
酒樽を振り回して暴れる牡蠣川左門だけが無邪気だった。
翌日、照平大蔵は黒岩鉄ノ丞、牡蠣川左門を伴って鴨居の番蔵を訪れた。
「よし、《左斬り》対策はなった。至急手下を揃えて文吉の屋敷を襲うぞ」
「喧嘩状はいかがします」
「馬鹿、相手は名うての喧嘩上手の文吉だぞ。奇襲よ奇襲。夜中に襲うのもいいな。火矢で家ごと燃やしちまうものいい。とにかく皆殺しだ。金太支度しろ」
番蔵は代貸の金太を呼んで準備を始めた。
(汚い)
黒岩鉄ノ丞はムッとしたが、草刈新九郎を討つためだとこらえた。牡蠣川は相変わらず飲んだくれている。
「いいか、侵略する事火の如しだ。明日には鶴見に突入するぞ」
番蔵は吠えた。
「ところで百人も隠れる場所はあるのか」
「文吉の家の周りは森に囲まれてます。そこに身を隠せばまず見つからねえです」
「ふーん」
「四方に隠れて周りから一挙に攻め立てるといいや」
「いや、それは駄目だ。全員で攻める」
番蔵は首を振った。
「なんでです」
尋ねる照平。
「戦力の分散は各個撃破の危険がある。ねえ、黒岩先生」
「番蔵殿の申す通りだ。下手に戦力を分けるは下策だ。番蔵殿、兵法の心得が有ると見えるが」
「ああ、俺は、元々加賀様に奉公していた侍よ」
「へえ、鴨居の貸元は軍略に通じてんだな」
大蔵が感心した。
「ついでに申すが、火攻めは無理だ。間もなく本降りの雨が降る」
黒岩は続けた。
「えっ、こんなに晴れてるのに」
照平が天を仰ぐ。
「さっきから風が冷たくなってきた。こんなときは雷を伴う雨が降る。これは二三日続く。おそらく明日は雨だ」
「へえ、なんでそんなこと分かるんですか」
驚く大蔵。
「天候も兵法のひとつなり」
そう言うと黒岩は腰を下ろした。
「黒岩先生、さすがだぜ。火攻めは中止だ。おのおの刀を磨いて準備しろ」
番蔵はにんまりとして指示を出した。
翌朝。
黒岩の言う通り雨が降った。かなりの本降りである。
「おい、照平、大蔵。これだけの大人数を人目につかずに動かせる算段はついてるのか」
「へい、皆様には五人一組になって四半刻順に立っていただきやす。目印の要所にはウチの子分が控えておりますから、そっと森に隠れてくだせえ」
「この雨だ。誰も表になんか出てないぜ」
「全員が森に入るのは昼頃だな」
「へい、十分でしょう」
「雨は身体に毒だ。蓑を用意しろよ」
「抜かりござんせん」
ついに鴨居の番蔵、小机の照平・大豆戸の大蔵連合が鶴見の文吉一家を襲撃するために動き出した。
大豆戸のシマは鶴見一家の縄張りに接している。鴨居一家はまず、大豆戸の家に集まり、そこから鶴見一家を取り囲む森へと少人数で移動することにした。その際、三度笠に合羽姿では目立ち過ぎるので、蓑の下に長脇差を隠して百姓姿を装って行動した。しかし、これが様にならない。近在の百姓は、
「今日は変な格好をしたやくざがよく通るぞい。こんな雨の中、鶴見一家で花会でもあるのか」
と簡単に見破っていた。
雨は止む気配がない。
五人組、四半刻してまた五人組と鴨居一家は鶴見の縄張りに入って行く。やがて昼過ぎに番蔵が森に入り連合軍が結集した。
「思ったより時間が掛かったな」
床几に腰をおろして番蔵が言った。
「雨が恨めしいですな」
大蔵が答える。
「まずは鶴見一家に見張りを立てよう。金太、斥候をだせ」
「へい」
「なにかあったら、すぐ知らせるんだ。それによってすぐ攻めるか、夜襲にするか考える」
軍略かぶれの番蔵が戦国の大将を気取って指揮する。
「へい。洋三に圭太、見張りに行け」
金太の命令で三下二人が走り去る。
「大蔵、鶴見一家の人数は」
「三十人ってところでしょうか。ただ綱島には六十人から居ますで、奴らの来ないうちに攻め込むのがよいかと」
「そうだな。だがまあ、この森なら相手に見つかる気遣いはあるまい」
番蔵はそう言って顔を手拭いで拭いた。
しかし、番蔵の考えは甘かった。彼ら集団をいち早く見つけた者が居たのだ。それはこの雨の中、山菜採りをしていた苦災寺の風泉であった。
「師匠」
「なんだのう」
風泉の師匠である孤雲が惚けた声を出した。
「右遠方に大人数の人影が見えます」
「拙僧ら同様、山菜採りでもしているのではないか」
「いえ、殺気を感じます」
「それは剣呑じゃのう」
孤雲はそういうと懐から遠眼鏡を出して覗いた。
「あれは喧嘩支度のやくざじゃのう」
孤雲は遠眼鏡を風泉に渡した。
「あの床几に座っているのは鴨居の番蔵……」
「鴨居とな。ならば狙いは文吉か」
「それに小机の照平と大豆戸の大蔵が」
「なに、それらは文吉の兄弟分ではなかったか」
「おそらくは裏切りか仲違い。文吉貸元はこの件、ご存知なのでしょうか」
「さあのう。風泉、文吉に知らせてやれば良いのう。拙僧は寺で支度をしてから行くでのう」
「なんの支度ですか」
「おお、薙刀のな。数少ない檀家の危機じゃ。助太刀してしんぜよう」
風泉は文吉の家へ、孤雲は苦災寺へと向かう。
「伝令、伝令」
見張りの洋三が番蔵の元へ走ってきた。
「どうした」
「へい、体格のやたら良い坊主が一人、文吉の家に入りました」
「坊主か……托鉢かな。ご苦労、戻って見張りを続けろ」
洋三は走り去った。
「苦災寺の風泉でございます。文吉貸元に至急お目にかかりたい」
風泉が文吉一家の門前で大音声を上げた。
「なんだい鬼五郎……じゃなくて風泉さん」
文吉が呑気に顔を出した。
「南の森に、鴨居の番蔵、小机の照平、大豆戸の大蔵の総勢約百四十名が喧嘩支度でひそんでいます。早急に喧嘩の準備を」
「なにい、鴨居はともかく小机に大豆戸だと。何かの間違いじゃないのか」
「いや、確かじゃ」
そのとき孤雲が僧兵姿で現れて言った。
「照平に大蔵……文吉さまも人望がねえなあ」
自虐的になる文吉。
「自棄になるな。早く綱島に知らせて助っ人を呼べ」
孤雲が文吉を叱咤する。
「誰か足の速いのいねえか」
文吉が叫ぶ。
「へい」
手を挙げたのは飛騨の山猿だった。
「山猿なんで、お前いるんだ」
「へい、魚を貰いに。なんせ紅の野郎、よく喰うんで……なんて言ってる暇はないですね。至急知らせて来やす」
韋駄天、山猿は脱兎のごとく走っていった。
「伝令、伝令」
洋三がまた走って来た。
「僧兵姿の太った男が文吉一家に入って行きやした」
「僧兵?」
首を傾げる番蔵。
「ああそれなら苦災寺の和尚ですよ。あいつは変人ですから、托鉢を脅迫しに行ったんじゃないですか」
照平が言う。
「ご苦労。見張りを続けろ」
洋三は走り去った。
「なあ、圭太。次はお前が親分のところに言ってくれよ。おらっち、もうくたくただ」
見張りの洋三がぼやいた。
「ああ、行きたいのはやまやまなんだが、この雨で持病の通風が出ちまって、おいら、走れねえんだよ」
圭太が答える。
「ならよう、見張りの仕事断れよ」
「馬鹿。親分の命令に逆らえるか」
「馬鹿だと、この野郎」
二人は口喧嘩を始めた。だから山猿が文吉の家から飛び出したことに全く気が付かなかった。
「さてと、勘八。目明かしの佐吉を呼んで来てくれ」
少し落ち着いて来た文吉は三下の勘八に命じた。佐吉の家は鶴見と綱島の間にある。佐吉は手下の下っ引き十人を連れてすぐに文吉の元にやって来た。
「貸元、なにかありましたか」
「おう、佐吉さん呼び立てて悪いな。実は今日、俺んちに押し込みが入る」
「押し込み?」
「ああ、鴨居の番蔵に小机の照平、大豆戸の大蔵一家だ。奴ら、喧嘩状もなしにここへ乗り込んで来る。これは喧嘩じゃねえ、押し込みだ。だから佐吉さん達は事の次第をきっちり見届けて欲しい。もちろん手出しは無用だ」
「照平貸元に、大蔵貸元って文吉さんの兄弟分じゃないですか」
「なに、欲に眼のくらんだ愚劣な野郎共だよ」
「してその人数は」
「百四十は下るまい」
「対してここの守りは」
「とりあえず三十だ。だが虎太郎に竜太郎も居る。それに綱島の六十名がおっつけ、やって来るはずだ。初手に辛抱すれば勝機はある」
「わかりました。押し込みならば我らの仕事の領分。私も助力しますぜ」
「そうか。無理は言わねえ。命を落とさない程度に手伝ってくれ」
「へい」
「で、伝令ぃ〜」
洋三がへとへとになって番蔵の元に転がり込んで来た。
「どうした、顔が真っ青だぞ」
「へ、へい。ちょっと走り疲れました」
「圭太はどうした」
「痛風が出て走れないそうで」
「なんだ情けない。で、どうした」
「へい、文吉の家に目明かしが十人は入りました」
「目明かしだと」
「きっと佐吉ですぜ」
大蔵が言う。
「目明かしなんぞ喧嘩の役にも立たねえ。だが十人だな。これで文吉側は四十人か。まだ余裕だな」
番蔵は考えた。
「しかし、目明かしが出て来るってことは、こっちの動きを悟られたかもしれねえ。そろそろ森を出て文吉一家に襲いかかるか」
「おー」
「金太! 先陣を組んで動き出せ」
「へい」
ついに連合軍は森を出た。文吉一家までは三町ほどの距離である。
そのころ文吉一家には二十人ほどの旅姿の博徒が現れていた。その中の一人が門を叩く。
「来たか」
身構える文吉一家。しかし、
「お頼み申します」
と声がし、
「違うな」
と安堵とともに門の外の輩に聞き返す。
「誰でい、この切羽詰まったときに」
「わたくし、天狗の伊助と申します。文吉貸元にお願いの儀があって郎党を組んでまかり越しました」
「天狗の伊助だと」
「綱島一家の軍師じゃないか。そうだろ風泉さん」
「さようでございます」
「とりあえず門を開けろ」
文吉が怒鳴る。やがて伊助率いる博徒二十人がずぶぬれで入って来た。
「伊助さん。何の用だ。こっちはちょっと取り込み中なんだ」
「へい、実は我ら二十一人、文吉貸元の杯を頂きたく参りました」
「へえ」
「あれから我々、相州、駿州に逃れて様々な貸元の杯を頂こうとしましたが、どうも弱虫の悪評が流れてしまって……」
「伊助、もういいや。杯をやる」
文吉がせっかちに言う。
「えっ」
「その代わりすぐに仕事だ。いまウチは百四十人に取り囲まれてる。こっちはお前ら入れて五十人弱だ。(佐吉らは除く)頼むぜ」
「へ、へい」
天狗の伊助一党はなんだか良く分からないうちに喧嘩に引き込まれてしまった。
「よかったな、気張って働かれよ」
風泉が伊助に声を掛ける。
「お、親分」
吃驚する伊助。
「本当に坊さんになっちまったんですねえ」
「ええ、でもこれからしばらくは鬼五郎に戻って喧嘩の助太刀ですよ」
そう言って風泉は仕込み杖を光らせた。
「えっへん、これも檀家の為じゃ。功徳、功徳」
後ろで孤雲が薙刀の素振りをしている。
「うひゃあ、生臭い」
それを見ていた竜太郎が鼻をつまむ。そこへ、
「おい、竜よ」
虎太郎が歩み寄る。
「なんですか虎兄貴」
「万が一だが、伊助たちが鴨居に内通していることも考慮したほうがいい」
「それはないでしょう」
「だから万が一だ。やつらの様子、よく見とけよ」
「へい。でも、ないと思うなあ」
「それならそれでいい」
虎太郎は去って行った。
「で、で、でんれー」
くたくたになった洋三が森を出た番蔵の元に転げるようにやってきた。
「おまえ、大丈夫か」
思わず洋三の肩に手を置く番蔵。
「て、ていへんです。ぶ、文吉の屋敷に二十名くらいの無宿人が、は、入っていきましたです」
「なに、助っ人か」
「そ、それがこ汚い合羽姿で……あれは小遣い稼ぎでさあ、はあ」
「いまさら、二十人ばかし三下が増えても構わねえや。俺っちは行くぜえ。洋三、お前少し休んでろ。見張りはもういらねえ。先陣はもう文吉んとこに向かってる」
番蔵は歩を進めた。
そのころ綱島の屋敷では新九郎がぼんやりと雨を見ていた。
「紅よ、この雨では飛翔の稽古は出来まいな」
傍らでは傷の癒えた若鷹、紅が新九郎の周りを歩いていた。もうすっかり慣れてしまったようで、片時も離れない。自然に帰そうと考えていた新九郎も情が移ってしまい、飼う事にしていた。
そこへ、山猿が息も絶え絶えに駆けて来る。
「し、新九郎様、鶴見で大喧嘩です、はあ」
「なに、仔細を申せ」
「か、鴨居の番蔵に小机の照平、大豆戸の大蔵が付いて、大群で文吉一家を襲います、はあ」
「なんだと、一刻も早く援軍を出さねば。熊太郎さん、利兵衛さん。一大事だ。権太、青を引け」
新九郎の大音声に熊太郎らが縁側に飛び出て来る。
「何事だい」
「文吉貸元の危機だ。それがしは青で一足先に鶴見に向かう。熊太郎さんは後から人数を連れて来てくれ」
「いや、俺も青に乗せてくれ。後は利兵衛の親父と花見の真介。それに長太郎に任せる」
「そうか、ならば我が後ろに乗ってくれ。青は悍馬。振り落とされぬように」
「承知」
「おっと、その前に水を」
新九郎は井戸に向かい水を汲むと、懐から『気力の出る薬』を取り出し、呑み込んだ。
「よし」
「また薬ですかい」
熊太郎が渋い顔をする。
「無茶はいけませんぜ」
「分かっている」
そう言うと、新九郎と熊太郎は青に乗って鶴見に急いだ。
同じ頃鶴見一家では軍議が開かれていた。
「貸元、ここは屋敷に籠城するのが得策かと」
天狗の伊助が具申する。
「いや、表に出て戦おう。ここは城じゃねえ。ただの屋敷だ。卑怯なだまし討ちをする野郎共にケツは見せられねえ。正々堂々切り合って全滅したらそれまで。綱島勢が間に合えば御の字だ」
文吉は義侠に拘る。
「ならば三人一組になって一人ずつやっつけましょう。これは赤穂義士の戦法です」
元武士の伊助がさらに具申する。
「そりゃあ良い作戦だな。竜太郎、組み分けをしろ」
「へい。それには孤雲和尚や佐吉さんたちも頭数にいれるので?」
「馬鹿野郎、喧嘩するのは身内だけだ」
「でも和尚と風泉さんは張り切っていますぜ」
「和尚達は屋敷を守ってもらう。お凪やおあささんが居るからな。いざとなったら逃がしてもらおう。佐吉さんは後見だけだ」
「へい、わかりました。早速組み分けしましょう」
「組は相性が大事だ。ウチの者はウチの者。伊助んところはそれで纏めよう」
「親分、それはいけねえ」
虎太郎が口を挟んだ。
「せっかく身内になったんだ。ウチと伊助さんところでまぜましょう」
「ううむ、伊助はどう思う」
「今日のところは別々の方がよろしいでしょう」
「そうだな」
文吉は頷いた。
(やっぱり怪しいぜ)
虎太郎は伊助を睨んだ。そこへ、
「敵が現れました」
見張りの勘八が叫ぶ。
「よし、みんな男を見せてやれ」
「おう」
文吉一家は立ち上がった。
玄関には火打石を持った凪が待っていた。
「お父さん、あたしも覚悟は出来てるからね。ウチに入って来た敵と相打ちになったって構わない」
「馬鹿野郎。俺が死んだら鶴見一家を継ぐのはお前だろ。孤雲和尚に守ってもらって綱島に行け。そいで、俺の仇を討て」
「お父さんが死んだら一家はおしまいよ。あたしだって生きてはいれないわ。文吉の娘として潔く死んでみせるわ」
「甘ったれんな」
文吉は凪の頬をぶった。
「いつも言ってるだろ。やくざは泥にまみれても生き抜くんだ。俺たちは世の中に役にも立たねえはぐれもんだ。恥もなにもかなぐり捨てていきてくんだ」
「お父さん……」
「和尚、佐吉さん、あとは頼んだぜ」
歩き出す文吉。その背中に凪の打つ火打石がこだまする。
雨は土砂降りとなり地面はぬかるんでいる。文吉一家は整然と外へ出て来た。その周りを数倍の勢力の鴨居・小机・大豆戸連合が取り囲む。
「鶴見のう、逃げ隠れしないで出てきやがったな。その勇気だけは認めてやるぜ。皆殺しにしてやるから覚悟しな」
番蔵が大声で威嚇する。
「うるせい。喧嘩状も送らずに奇襲を掛けてきやがって、この卑怯者。それに照平、大蔵。兄弟分の杯をひっくり返しやがって。許せねえ、返り討ちにしてやる」
文吉が叫ぶ。
「がたがた言うねえ。そんな小勢で何が出来る。お前らやっちまえ」
「おう」
鴨居勢が飛び出した。
「怯むな。男の死に様みせてやれ」
文吉一家も駆け出す。真っ先に敵勢に突っ込んで行ったのは伊助の衆だった。
「汚名返上の機会だ。みんな死ね」
「わああ」
正面にぶち当たって行く。
「新参に遅れをとるな。行け」
虎太郎、竜太郎を先頭に鶴見一家も走り出す。
『ガチン』
長脇差のぶつかる激しい音がしだした。人数は少なくても天下に名高い虎太郎、竜太郎率いる文吉一家だ。さらに三人一組になって敵を倒すという作戦が図に当たり、一進一退の攻防が繰り広げられる。
「綱島勢が来るまでの辛抱だ」
文吉が長脇差を振り回しながら味方を叱咤激励する。
「どりゃ、どりゃ」
虎太郎は居合いで敵を切り裂いていた。しかし、
『ズルッ』
ぬかるみで足が滑った。転倒。
「それ、虎を殺せ」
鴨居勢が大挙して虎太郎に押し寄せる。
「くそう」
虎太郎が死を覚悟した時、
「うぉりゃああ」
と突っ込んで来たのは天狗の伊助。虎太郎に襲いかかる敵をバッサバッサと斬り伏せる。その間に虎太郎は立ち直り、再び戦闘態勢に戻った。
「い、伊助、すまねえ」
日頃は傲岸な虎太郎もこのときばかりは頭を下げる。それには『疑って悪かった』の意も含まれる。
一方、竜太郎は手勢を引き連れ、喧嘩下手の照平、大蔵の勢を襲っていた。
「卑怯者、裏切り者」
竜太郎はいちいち叫びながら敵を斬る。引け目のある照平、大蔵たちは竜太郎の気合いに押されていいところがない。
「なにやってんだ」
小勢と侮り、床几に座って戦況を後ろで見ていた番蔵は浮き足立って、自ら長脇差を抜いて照平達の方へ掛けて行く。喧嘩場は敵味方あいまみれて大混乱に陥った。
しかし、四半刻もすると多勢に無勢、文吉一家が押され出した。
「四郎がやられた」
「一平が斬られた」
「源五が死んだ」
悲報が相次ぐ。みなが血まみれになる。
「よし、勝った。押し出せ」
番蔵が長脇差を天に向けた。その時、
『パカッパカッ』
と一頭の荒馬が駆けて来て一つの人影が飛び降りる。
「親分、遅くなりやしたあ」
叫んだのは熊太郎だった。
「熊、助かる」
大声を上げる文吉。
「おっつけ、味方もやって来ます」
「おう」
これで文吉勢息を吹き返した。
馬はそのまま敵陣に突っ込む。
「わああ、《左斬り》だ」
慌てる鴨居勢。
「はっ、はっ」
右に左に馬上から斬り下ろす新九郎。彼一人の登場で戦況が変わった。
「なにやってる。相手は一人だ。馬を斬れ、馬を」
番蔵がうなる。子分達がその言に従い、青を斬りにかかるが逆に頭を齧られ、のたうち回る。
「やくざの喧嘩に馬が出て来るかよ」
照平は逃げ腰で怒鳴った。新九郎は鴨居勢のまっただ中に青を乗り入れ、無慈悲に斬りつける。そこへ、
「《左斬り》殿、拙者がお相手申す。馬を下りよ」
と牡蠣川左門が現れた。酒は抜けているようだ。しかし、
「うるさい」
新九郎は一閃、牡蠣川の首を馬上から刎ねた。
「うへえ」
戦慄する鴨居勢。
「六浦湊の最強用心棒があっけなく斬られた」
番蔵は立ち尽くす。
「く、黒岩先生。あとはあんたしかいねえ」
最前から、ただ戦況を見つめていた黒岩鉄ノ丞はその声を聞き、
「ついにこの時が来たか」
と新九郎の方に足を向けた。
「草刈新九郎、主の仇、今こそ取らせて貰うぞ」
「おう、黒岩殿か。そちに遺恨はないが受けて立とう」
新九郎はそう言うと青から降り、鉄ノ丞に静態した。喧嘩場が静まり、この一騎打ちに注目が集まる。
「とうっ」
鉄ノ丞が斬り込む。新九郎がそれを受ける。新九郎が敵を一撃で斬らなかったのは恩州に来て初めてだった。
「はっ」
新九郎の斬り込み。鉄ノ丞は撥ね付ける。
「うむ、うわさに違わぬ強さだ」
「主こそ」
斬り合いは半刻にも渡った。勝負は互角。実力も互角か。その間に長太郎、信介の綱島勢が現れ、鴨居勢の側面を突く。こちらの勝負も互角になった。
新九郎と鉄ノ丞の勝負は別世界のように隔離され、誰も近寄らない。二人の呼吸だけが聞こえる。
「たあ」
鉄ノ丞の斬り込みを新九郎が躱したとき、異変は起きた。
『にゃあ』
一匹の子ねこが二人の間に現れたのだ。おそらく、文吉の屋敷から脱走してきたのだ。
「鉄ノ丞殿、ちょっと待った。ねこを安全なところに移す」
新九郎は子ねこを持ち上げようと腰をかがめた。だが、
「隙あり」
鉄ノ丞はお構いなく斬り掛かる。
「なにをする」
慌てて新九郎は受け止めようとしたが子ねこを右手に抱えていたため、力が足りず、刀は宙を舞った。
「ははは、覚悟!」
鉄ノ丞の上段からの一閃。そのとき、
『バーン』
凄まじい音がして鉄ノ丞の額に穴が開いた。ドーンと倒れ込む。即死だ。そのとき、新九郎の左手では短筒が煙を吐いていた。
「だから待てと申したのに。この狭量者め。それがしはこんな物、お主に使いとうはなかった」
子ねこを抱えて新九郎が呟く。
「三倍の人数で斬り込んで負けるとは」
鴨居の番蔵は呆然と立ち尽くした。
「こうなったら文吉の首を取る。金太、残りの人数で文吉に突っ込むぞ」
「へい」
このとき鴨居勢は四十。照平、大蔵はとっとと逃げ出し、もう居ない。対して文吉勢は無傷の綱島勢を合わせ八十以上残っている。
「わあああ」
鴨居勢の突撃。だが意気上がる文吉勢は物ともしない。一人、また一人と崩れ落ちる鴨居の衆。ついに番蔵、金太、洋三が残るのみとなった。痛風の圭太は走って逃げた。
「くそ文吉、差しで勝負だ」
番蔵が叫ぶ。
「おう」
文吉が応える。
「親分、やめなせえ」
子分衆が止めるが文吉は聞かない。
「いやあああ」
番蔵が上段で突っ込んで来る。
「脇が甘いぜ」
文吉は胴を薙ぎ払った。
「ち、畜生、し、照平たちに、乗せられたばっかりに……無念」
番蔵は死んだ。
「哀れだな。よし、みんな大豆戸、小机、鴨居を追討だ」
「おう」
その日のうちに文吉一家は鴨居まで押さえ込んだ。
「おう、みんなよくやってくれた。感謝するぜ」
翌日、文吉の家に子分達や孤雲和尚、風泉。それに目明かしの佐吉らが集合していた。けれど新九郎はいない。また寝込んでしまったのだ。
「それで鴨居の縄張りなんだが、虎太郎お前に預ける」
文吉が言う。
「へい、一生懸命勤めます」
「よし」
「で、親分にお願いがあります」
「なんだ」
「伊助を俺に下せえ」
「ほう」
「こんどの喧嘩で俺は伊助に命を助けられました。そのついでに今後も俺を助けて貰いてえ」
「伊助どうだ」
「ありがたいお言葉です」
「なら決まりだ。それから小机、大豆戸は竜太郎に任せる」
「へい」
「お前は、望みはあるか」
「いえ」
「なら利兵衛を貸そう。爺さん、たびたびで悪いが若いもんの面倒みてやってくれ」
「親分、爺扱いはひどいな。俺はまだまだやれるぜ」
「ふふふ、わるかったな。そいで長太郎」
「へい」
「お前は立派になった。生麦の縄張りを返そう」
「ありがとうございます。でも叔父貴」
「なんだ」
「おれはもう少し、新九郎さんのそばで修行したいです」
「はあ?」
「あの人の、底知れぬ懐の深さを学んでから生麦に戻りてえ」
「ふうん。でも新九郎さんに深入りするのもそこそこにしな。あの人は尋常でねえからな」
「へえ」
「まあとにかくこれで北恩州の騒動もおしまいだろう。縄張りは増えちまったが、今まで通り、無駄な喧嘩はせず。いんちきはせず。堅気に迷惑をかけずを守ってくれい」
「へい」
「最後に死んで行った仲間の供養をしよう。和尚、頼むぜ」
「うぬ、では経を進ぜよう。なーむあみだぶつ〜」
孤雲が経を唱え、会は終わった。
その二日後、日吉の隠居、大師の竜平から文吉一家の傘下に入りたいとの連絡が有り、文吉の家で手打ちの儀式が行われた。これによって北恩州は完全に文吉一家の支配下におかれた。
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