新九郎独歩
「お客人、お客人」
ふすまの向こうから女の声がする。しかし、新九郎は動けなかった。
「お、重い」
身体が重くて動かないのである。金縛りであろうか。昨日服用した薬のせいであろうか。
「お客人、入りますよ。いつまで寝てるんだい。もう昼だよ。それとも、まだ加減が悪いの……あれまあ」
新九郎に伺いも立てずに部屋に入り込んで来た女が奇声をあげた。
「い、いかがした御女中。物の怪でもそれがしの腹の上に乗っておるか」
新九郎は必死の心持ちで尋ねる。
「ええ、物の怪じゃあないんだけど」
女の眼前には新九郎の布団に乗っかり、すやすや眠る約二十匹の、ねこがいた。
「なんなのこれ」
女はとりあえず手前の一匹を持ち上げて、布団からかすかに顔を出した新九郎に見せる。
「にゃあ」
惚けた声で鳴くねこ。
「また、ねこかあ!」
思わず雄叫びを上げる新九郎。
「このねこたちは、人にあんまり懐かないのにねえ、不思議」
そういいながら女はねこたちを布団から追い立てた。
「助かった。ありがとう」
「いいえ。お客人は相当ねこに好かれる質なんですねえ」
「そのようだな」
新九郎は戸惑いながら布団から這い出た。
「しかし、なんでここに沢山のねこがいるのだ」
新九郎が女に尋ねる。
「ええ、玉屋さんが拾ってきたねこで、不細工だったり人に懐かなくて茶店に置けないのを、うちの庭で飼ってるんですよ。うちは無駄に庭が広いからねえ」
女は答えた。文吉の家は名主だった先代の引き継ぎだから敷地が余っているのだ。
「御女中、失礼した。それがし、昨日からここの貸元に厄介になっておる、草刈新九郎と申す。そなたは」
「あたしは文吉の娘、凪です」
「貸元のお嬢さんか」
新九郎が言うと、
「お嬢さんなんて甘っちょろい言い方はよして頂戴。あたしはお父さんの後を継いで鶴見一家を引っ張る身ですからね」
凪は持っている箒で新九郎を殴る勢いでまくしたてた。
「相済まん。では、なんと呼んだら良いのか」
新九郎が尋ねると、
「ただ、凪とお呼び下さい」
頬を赤らめて凪は言った。
「ではそれがしのことも新九郎と呼んでくれ」
「はい、新九郎様。ああ、お父さんが居間でお待ちかねです。身支度が済んだら早く行って下さい」
凪はそう言い残して立ち去った。
新九郎が居間に入ると、文吉を始め鶴見一家の主立った面々が顔を揃えていた。
「おう、お客人起きなすったかい。調子はどうだい」
文吉が穏やかに尋ねる。
「お陰さまで……昨日は挨拶も出来ず失礼いたした。草刈新九郎でござる。どうぞ新九郎と呼んでいただきたい」
「そうかい。では新九郎さんに家の役付きを紹介しときやしょう。まずは俺の隣が代貸の利兵衛だ。家の金勘定と子分の躾はこれにやって貰ってる」
「利兵衛でございます。よろしゅう」
優しげな表情の下に威厳が隠れている。
「次が若頭の熊太郎、虎太郎、竜太郎だ。三人合わせて三太郎ってな訳だ。みんなそこそこに腕がある。近隣では三獣士って言われてる」
「熊太郎だ」
「虎太郎」
「竜太郎です。お見知りおきを」
「よろしく」
新九郎は軽く頭を下げた。
「ウチは弱小な博徒だから後は子分が三十人くらいの所帯だ。まあ、その辺はおいおい覚えてくれ。ああ、そうだ。あと一人預かりもので生麦の長太郎ってのがいるんだが。顔が見えねえな」
「長太郎の奴なら庭で木刀を振り回してましたぜ」
熊太郎がつまらなそうに言う。
「そうかい。そりゃあ良いことだ」
文吉は片頬を上げた。それを潮に座は会話も無く白けた雰囲気になる。武士と博徒。話題もなにも無い。
「では、それがしは失礼します」
微妙な空気を読んだか、新九郎は奥の間に戻った。それを見届けると熊太郎が呟いた。
「気に入らねえ野郎だ。『それがし』だってよ。親分あんな奴、なんで丁重に扱うんで」
「俺も同感です。あんないけ好かない男、預かることねえ」
虎太郎も応える。
「そうかなあ。俺は凄腕の武士とみましたぜ。味方にすれば百万力だ」
竜太郎のみが歓迎の意を示す。
「お前ら勝手なことを言ってるんじゃあねえ。新九郎さんは親分が玉屋から預かった大切なお客人だ」
利兵衛が三人を叱る。
「まあまあ、とにかく当分は新九郎さんのことはお構いなしだ。それより先日の生麦の件で、近隣の貸元からいちゃもんが付くかも知れねえ。各々、気を入れてやってくれ」
文吉がとりなして、この場はお開きになった。
それから幾日も新九郎はぼんやりと過ごしていた。朝は寝過ごし、昼間は縁側でねこたちと日向ぼっこ。夕方になれば飯炊き婆のおあさの給仕で飯を三杯喰らい、夜も更けぬ間に寝床に入ってしまう。自堕落で腑抜けのような暮らしぶりだ。充てがわれた奥の間から出るのは厠と風呂のみ。それも一番風呂で大して汚れていない身体を流した。そんな姿をみてお凪が、
「それじゃあ、人間腐っちゃうよ。散歩にでも行っておいでよ」
と言ったので、新九郎が外出したのは文吉一家に草鞋をぬいで十日も経った日のことだった。
鶴見の内陸部には森が多い。新九郎は誘われるように木々の中に踏み入って行った。
風が初夏の日に蒸された全身に心地よい。新九郎はぐんぐん小高い丘を登って行く。
やがて丸太で出来た階段が見えて来た。足の向くまま気の向くまま、それを踏みしめる。その先に有ったのは荒れ果てた寺の山門だった。
「御弥慈山 苦災寺、か」
新九郎は呟いた。
「苦しみ、災い。なんと因果な寺だ」
山門をくぐる。また階段が続く。新九郎は額に若干の汗をかきつつ上を目指す。そして、
「これは」
と小さく叫んだ。目の前の本堂があった。建物は朽ちていて戸は開放されている。その中に見事な不動明王像、それに八大童子像が奉られていたのだ。しばし魅入り、その後、手を合わせる新九郎。
「このようなところで明王様に出会えるとは、奇縁なり」
新九郎はこの偶然の出会いにおののいた。そのとき、
「どなたかな」
老人が声をかけて来た。頭を丸めているので住職であろう。
「それがしはこの麓にある鶴見一家に寝起きしております草刈新九郎です」
新九郎は名乗った。
「そうであろう。お主には血の匂いがする。今までに何人斬った」
「二人です」
「二人か。意外に少ないのう。拙僧はまた、京で流行りの『人斬り何とか』の類いかと思った」
「ご冗談を」
「そうであろう、冗談じゃ。拙僧はこの寺の住職、孤雲じゃ。よろしくのう」
「それはそうと御住職、この不動明王像は大変見事なもの。特に右手の利剣、これは黄金、さらに左手の羂索は真珠ではござらぬか。このような宝物、失礼ながら野ざらし同然では盗賊に奪われませんか」
「そうであろう、よく狙われるぞ」
「なんと」
「安心召されい。拙僧これでも薙刀の使い手でな。盗賊ごときは一閃の下に斬り伏せよう。仏は裏の墓地に埋めれば良い。檀家が少ないから場所は余っておる。今頃、仏となった野盗共が墓の下で丁半博打をしておろう」
かかか、と雲孤は笑った。
「またまた、ご冗談を」
「そうであろう、これも冗談じゃ。それより草刈殿、廚で般若湯でもやらぬか」
新九郎は雲孤が名僧なのか生臭坊主なのか分からず戸惑った。
「それがし、酒は呑めません」
「そうか、詰まらんのう。では茶でも如何かな」
「御馳走になります」
新九郎は雲孤に誘われ裏庭へと進んだ。そこには立派な茶室を拵えた離れがあった。
「御住職、この様な物を作るなら本堂を修理したほうがよろしいのではないか」
新九郎が窘めると雲孤は、
「茶は遊びではない。心を鎮め、身にまとった余分なものを削ぎ落すもの。これも修行じゃ」
と言い、またしても笑った。
「はあ」
新九郎は問答では孤雲に敵わぬと悟り茶室の潜り戸に向かった。
「どうぞ」
孤雲は新九郎を招く。室内は質素で一輪の紫陽花が竹筒に生けられている他は『火生三昧』と書かれた掛け軸があるだけだった。
「どうかのう。ここは天地から離れ、なおかつ天地を含有した一つの世界。拙僧にとっては経を唱えるよりも大事な修行の場。精神を研ぎ澄ますための場所じゃ」
新九郎は茶室に入ったときからえも言われぬ不安を感じていた。持病である。新九郎は懐から薬を出そうとする。それに気付いた孤雲は、
「なに、恐れる事はない。薬など不要だ。まずは茶を喫するが良い。上菓子はないが小豆餅がある。召されよ」
と小皿を出した。新九郎は目を瞑り、心の動揺を抑え、茶を黙って喫した。
しばし静かな時が流れる。不安はやがて雲散霧消していた。
「ところで御住職、この寺の宗派はどちらでござるか」
沈黙を破り、新九郎が尋ねる。
「華麗宗じゃ」
「華麗宗……聞いた事がございませんな。禅宗ですか」
相模、恩恵国には鎌倉幕府成立以降禅宗の寺が多く建てられていた。それを知っている新九郎は尋ねた。
「いや、密教じゃよ」
孤雲は応える。
「密教ですか。密教には東密、台密があると存じておりますが」
「うんにゃ、我が華麗宗はどちらにも属さぬ」
「ほう」
「そうだのう、お暇ならば語って進ぜよう」
孤雲は語り始めた。
「時は都が奈良にあった頃と伝えられている。唐の国、その地より一人の僧侶が陸奥国に流れ着いた。もっとも縁起では空より飛来したことになっておるがのう。まあ、伝承だと思われよ。その僧の名は嵐真。これが本宗の始祖じゃ。本国では様々な経典を読破し、天才の名を欲しいままにしたが、少々変わり者で西安の仏教、経典では飽き足らず諸方を旅し、様々な経典を暗記し自分の物とした。さらに西蔵や印度、あげくの果てには南蛮まで足を伸ばし伴天連の経典までも読み漁ったという。よく南蛮語が理解出来たか不思議じゃがな。とにかく、過ぎたるは及ばざるが如しというが、ここまで度が過ぎるとかえって褒め称える者が多数出て、西安にて唐の国第一の僧正の位を授かった。そこでじっとしていれば良いものを嵐真上人、今度は日の本の国、つまり本朝に興味を持った。一説には八百万の神の神髄を見ようとしたと言う。宗旨違いじゃし『本地垂迹説』も未だ無いのにのう。そして、齢五十一のときに周囲の反対を押し切り、我が国に船出したと言う訳じゃ。ただ、本当は都に行きたかったらしいが、船が大風に逢い、遥か彼方の陸奥に着いてしまった訳じゃ。それでも嵐真上人はめげずに都に上ろうとしたが長年の辛苦がたたり、足腰が立たぬようになってしまい、やむなく陸奥に腰を落ち着け、神道の研究などをしながら、その地の豪族安倍氏の協力で寺を建てた。寺と言うより庵のようなものだったらしい。当然名前もない。そこで弟子を集め、長年の修学をまとめた『
ここで孤雲は茶をすすり、一息入れると話しを続けた。
「しかしなあ、嵐真僧正の努力もむなしく、布教は下火になっていった。なぜなら先ほどの三巻、一巻一巻が途轍も無い長文なのだ。しかもすべて漢語。覚えることはおろか読み通すのも困難じゃ。えっ拙僧か。それはもちろん全部暗記しているぞ、えっへん。でな、読み通せぬ者のために内容を要約した『
「御住職は如何致した」
「拙僧は当然のことじゃ」
「当然とは」
「拙僧は満願者じゃ。なにを疑っておる」
新九郎には孤雲が若干動揺しているようにみえたが、追求はしなかった。
「話しを続けるぞい。嵐真上人入定から約三十年後、京より一人の学僧が陸奥にやって来た。法名を空最と言う。なんとこの者、遣唐使の一員として唐で修行を積み、本場の密教を学んだにも関わらず、『真の密教はこれにあらず』と言い放ち、嵐真上人の修行場の話しを聞き、わざわざ陸奥まで漂泊してきたという。それも地位と名誉を捨ててじゃ。もちろん、嵐真上人はもうこの世にいない。そこで空最は例の三巻を読み出した。そして、なんと三日三晩ですべて修得してしまったのじゃ。さらに空最は『孤之辺耶苦歳妖』の荒行を決行する。詳しくは秘事なので言えぬが、千日にも渡る過酷な行である。そして空最はやり遂げた。初の満願者じゃ。これにより空最は絶大な信奉を受けるようになった。多くの寄進を受け、嵐真上人の庵を修復増大し『御示威山 二王寺』を開山する。この空最上人こそ華麗宗の開祖じゃ」
孤雲は茶器を手に取った。
「では、この寺はその末寺ということですか」
新九郎は尋ねた。
「そうじゃのう。その話しもせねばなるまい。御示威山の開山百年後、二王寺に一人の武者が現れる。武者といっても粗末な身なり。浮浪の者であった。ただ、やせ衰えながらも筋骨隆々。気品ある顔立ち。一方ならぬ者とみた当時の住職はその者の入山を許した。彼の名を風花太郎平光明という。実はこの者武芸、戦略に優れ、一度は関八州を制圧しかけながら異母兄弟たちに裏切られ無惨にも敗残の憂き目に遭い辛酸をなめ、諸国を流浪して陸奥に身の置き場を求めた者であった。入山し光明法師となった彼は時間こそ掛かったが三巻を修し、ついに『孤之辺耶苦歳妖』に挑む事になった。そして驚くなかれ、この荒行を二回も成し遂げたのじゃ。なんたる気力。そして、満願の後、関八州に立ち返り、この寺を建てたのじゃ」
孤雲の長話はここで終わった。
「荒行を積む。だから不動明王なのですね」
新九郎が尋ねる。
「そうじゃ。修行は戦場よりも過酷。いつ、途中で命を落とすとも限らん。それを見守って下さるのが不動明王様じゃ」
「それがしも不動明王様を信じております」
「ほう、さようか」
「はい。それはそれがしの心にひそむ狂気を焼き払っていただきたい。その一心からです」
「狂気……それはまた」
「それがしの心には餓鬼畜生が宿っております」
新九郎は拳を握った。
「それがし、幼少の折より『神童だ』などと呼ばれ周りのものより、ちやほやされておりました。実際、他の者より学問、芸術、武芸に優れておりましたし、それをひけらかすこともありませんでした。普通に過ごせば、公儀に役立つ忠臣として自信を持って生きていられたでしょう。しかし……」
「しかし?」
「天魔が必ず、それがしを襲うのです。ある日突然、全ての事が嫌になりそれまで積み上げて来たものを破壊します。友情、信頼そして事蹟。それらを作っては壊し作っては壊しします。賽の河原を積むように。そして、その暴挙を楽しむ自分がいるのです。その顔はまさに鬼のようでありましょう」
話しは熱を帯びる。
「それもいずれは終わります。何もかも失ったそれがしは、ただ呆然と立ち尽くすのみです。大いなる不安がこの身を貫きます。そして今は博徒に厄介となる身。我と我が身が口惜しい。御住職、こんなそれがしを御仏はお救い下さるのであろうか」
新九郎の独白は終わった。
「拙僧の申せる事はただ一つ」
「はい」
「人は産まれて来た以上、死ぬまで生きて行かねばならぬという事じゃ。嘆いて暮らしても、笑って生きても結果は同じ。全ては一瞬にして忘却の彼方に消えていく。だから気にするな。なにが起ころうとな。全て正解。人生に間違いはない」
孤雲が真面目に説教をする。
「結果を恐れる事などないのじゃ。時は正解しか現さん」
「ではこの心の苦しさと不安は」
「生きている証じゃ。なんの痛痒も感じぬ者のほうが、生ける死人やもしれぬ」
「難しい説法は良く分かりませんが、とりあえず生きていろ、ということでしょうか」
「そうじゃな。生きていれば旨い飯が喰え、般若湯が呑める。季節の花を愛で、いぬや、ねこと戯れられる」
「なんとなく分かりました。ありがとうございます」
そういうと新九郎は寺を辞去した。
山門を降り、しばらくぶらぶら歩いていると葦簀に囲まれた小屋があった。新九郎は何も考えずに中へ入って行く。
そこは文吉一家の開く賭場だった。
「あれ、お客人」
金庫を守っている勘八が新九郎に声を掛けた。
「ここは何だ」
尋ねる新九郎。
「手慰みの場ですよ」
勘八が壷を振る真似をした。
「ああ、博打か。一つ遊んでみよう」
新九郎が興味を示した。
「そりゃあ、構いませんが。新九郎さん、お足を持ってるので?」
「金はない」
「じゃあ、出来ませんよ。金があってのお楽しみですからねえ」
考える新九郎。
「本当に駄目か」
「うーん、しかたないな。札をお貸ししますよ。儲かったら返して下さいよ」
「儲からなかったらどうする」
真顔で聞く新九郎。
「もう、それだったら奢りますよ。今回だけは特別だ」
勘八は自棄になった。
「すまないの」
新九郎は頭を下げた。
賭場では竜太郎が壷を振っていた。新九郎はおずおずとその輪に加わる。
「ちと尋ねるが、博打とはどうやるのだ」
新九郎は横に座っていた背の低い渡世人に尋ねた。
「お武家さん、遊び方も知らずに賭場に来たんですかい。よっぽど金に困ってるんだね」
渡世人が言う。
「ああ、金はない」
「しかたねえ、遊び方をお教えしましょう。あそこの壷振りが二個の賽子をくるくるっと振りまさあ。そして出た目の合計が偶の数なら丁、奇の数なら半でさあ」
「ふーん、簡単だな」
「簡単だから燃えるんでさあ。さあ、やりましょ」
渡世人は促した。
「どれ、やってみるか」
座り直す新九郎。
「ようござんすか。入ります」
竜太郎が見事な手さばきで賽を振る。新九郎はじっとそれを見ていた。
『コロコロ』
と賽が鳴る。今度は目を外し、耳を立てる。
「六回だな」
新九郎は呟いた。
「さあ、張った張った」
三下の四郎が威勢をあげる。
「半だ」
渡世人が札をだす。
「二と六だから、丁だ」
新九郎も札を差し出す。
「二六の丁」
竜太郎の声。
「うえ」
渡世人が新九郎を見る。外れたようだ。新九郎の前には札が配られる。
「始めの勝ちは嘘っ勝ちってね。次だ、次だ」
気持ちを入れ替える渡世人。竜太郎が指に賽子を挟んで次の勝負を始めた。
「入ります」
『カラ、コロコロ』
壷の中で賽が踊る。新九郎は目を瞑って耳を近づける。
「一が揃ったな、また丁だ」
新九郎が張る。
「馬鹿いえや、丁が二回も続くかい、半だ」
渡世人は逆を張った。
「ピンゾロの丁」
新九郎はまた儲けた。渡世人はまた損した。こうして、何回か勝負するうち新九郎は二十両ばかり儲けてしまった。
「この辺で切り上げよう。邪魔したな」
「お客人、馬鹿ツキだね」
新九郎は勘八に借りた札を返し、儲けを換金して小屋を出た。夕日が眩しい。そろそろ文吉一家に戻ろうとすると「お武家様、待ってくれ」の声。振り返ってみるとそこには先ほどの渡世人がいた。
「いかがした」
新九郎が問うと、
「お武家様を男と見込んでのお願いだ。俺を博打教えてくれ」
渡世人が言う。
「馬鹿らしい。あの博打は五分と五分。教えようの無い運の問題だ」
新九郎は去ろうとする。
「嘘つけ」
渡世人は開き直った。
「あんた、出目の数まで言ってたじゃあないか」
「ああ、言っていたか。無意識だな」
「ってことは出目が分かるってことだろ。なら運じゃないじゃないか」
「うむ、ばれたか。お主の言う通り、それがしには出目が分かった」
「どうして」
「簡単に言えば、最初に賽を見せるな。その後、壷に入れるときの音と、回っている時の音を聞いて目を当てるんだ。それがし、絶対音感の持ち主だからの」
新九郎は平然と言ってのけたが常人に出来る業でもない。
「それを、教えてくれ」
必死に頼む渡世人。
「教えろと言われても、これは持って生まれた才だ。天はそれがしに多くの苦悩を与えた代わりに幾つもの小手先の才を下さった」
新九郎が良く分からない事を言い出す。
「と、とりあえず子分にして下せえ。俺は、飛騨の山猿。山野を駆け回る事なら誰にも負けねえが、博打はとんと、いけねえ」
「子分と言われても、それがし厄介者の身。そうか、お前も文吉一家の客になれば良い」
「へい」
新九郎に事実上、初めてのの子分がこのとき出来た。
「ずいぶんと遅いお帰りで」
飯炊き婆の、おあさに言われながら新九郎は夕餉を摂った。ちゃっかり飛騨の山猿もご相伴にあずかっている。本来なら、板の間で飯を食うのが仁義なのであるが二人とも知った事ではない。そこへ、鶴見の文吉が顔を出した。
「新九郎さん、今日はたいそうツキがあったようだね」
「ええ」
賭場の事はもう知られているようだ。
「ただねえ、あんな場で派手な事をやると、顔が知れる。噂になる。そしたらあんたを敵と狙う奴らに居所を暴かれるとも限らねえ。今後は用心してくんな」
お小言であった。
「貸元」
新九郎が文吉を呼んだ。
「なんだい」
「貸元は博打をした事はありますか」
「そりゃあ、若い時分はよう、今はやらねえけどな」
「なんでです」
「駿河の大親分に『貸元たるもの自ら博打は慎むべし』と説教されたのさ」
「駿河の大親分」
「ああ、俺の尊敬する方だ」
「へえ」
「それはそうと、なんで博打をした事があるかなんて聞いたんだい」
「ええ、博打とは……詰まらぬものだなと思って」
文吉と山猿がずっこけた。
翌朝、珍しく早く起きた新九郎は、それでも相変わらずねこ達とぼんやり日向ぼっこをしていた。山猿は存外に働き者で掃除、洗濯と三下達に入り交じってやっている。このままなら新九郎でなく文吉の杯を受けるのではなかろうか。そんなとき、
「お客人」
誰かが新九郎を呼んだ。
「お主は誰だ」
「生麦の長太郎と言います」
「ああ、預かりさんか」
「ええ、恥ずかしい身の上でございます」
「それは、それがしも同じ事だ」
「ならば、そのよしみで俺に剣術を教えてくれはいたしませんか」
「それがし、人に剣術を教えた事などないが」
「そう言わずに、あんたの腕は一流だと竜太郎が言っていたぜ」
「竜太郎さんが? なんでそれがしの腕が分かるのだ」
「知るかい」
「不思議だ……ならば竜太郎さんに教われば良い。それがしは少々面倒くさい」
「竜太郎じゃあ、駄目なんだ」
「どうしてだ」
「当たり前だろ。竜太郎は文吉叔父貴の子分だ。親分を倒すのに加担する子分がどこにいる」
「貸元を倒すだと」
「俺が文吉叔父貴に一人前と認められるには、叔父貴を倒さなくちゃいけねえ。もちろん殺す気なんかねえ。ただ、勝ちたい。それだけだ」
「そうか、……ならば、裏の竹林から身の丈の三倍の竹を切って来い」
「へい」
長太郎は竹を切って背負って来た。
「よし、えいっ」
新九郎は笹の部分を切って長い竹槍を拵えた。身の丈三倍かなり長い。
「これをふらつかずに千回突けるようになったらまた来い。ただし、ここではやるな。ねこが怯える」
そう言うと新九郎は部屋に入った。長太郎は試しに一回だけ突いてみた。
「お、重い」
予想以上の重みが腕にのしかかる。
「これを千回」
気が遠くなりそうであった。
その後、何日も長太郎は鶴見川の河川敷で竹槍を突く練習をした。これが思った以上につらい。
「こんな事で、剣術の腕が上がるのか」
疑問に感じつつも、藁をも掴む思いで長太郎は竹槍を突き続けた。そして夏も終わろうとした頃、
「九百九十八、九百九十九、千」
ようやく、長太郎はそれを成した。
「新九郎さん、千回突けました」
意気込んで新九郎に伝える長太郎。
「ほう、根性だけはあるようだな」
ねこを膝に抱え、暢気に応える新九郎。
「さあ、剣の奥義を教えて下さい」
「あせるな、次は一日千回、斧で薪を割れ」
新九郎はにべもなく言った。
「また、千回ですか」
がっくりとする長太郎。
「そうだ、百日間それを続けろ。そうしたら次の指南をして進ぜよう」
「はい」
初志貫徹のため不満をぐっとこらえる長太郎。次の日から文吉一家は煮炊きの薪に困る事はなくなった。百日が過ぎ、秋が深まった。
「今日で百日です」
長太郎は新九郎に言った。
「こんどこそ奥義を」
迫る長太郎。
「なんの、お前さんはすでに剣の奥義、といっても博徒の剣だがな。それを身につけておる。試しにそこの木刀を振ってみろ」
新九郎は言った。長太郎は言われた通り木刀を振ってみる。
『シュッツ、シュッツ』
鋭い刃音が鳴る。
「よし、長い竹槍を突く事で下半身に力が満ち、斧を振り下ろすことで二の腕に筋力がついたな」
確かに、木刀が軽く感じられる。
「後は心の修行だ。貸元を倒そうなどという邪念を捨て、一廉の男に成るべく努力をしろ。これから毎朝、森の中にある苦災寺まで掛けて行き、本堂にある不動明王様の前で座禅を組め。その後は山野を駆け巡り無心の心を学ぶのだ。貸元を倒すという些事が心から消えたとき、お前は只の博徒から任侠に変化するのだ。そうしたら自ずと道は開け、貸元も認める男になれる。生麦の縄張りも返して貰えるだろう。貸元はその日を必ず待っているんだ」
「へい」
長太郎は素直に従い、新九郎の元を辞した。
「長太郎は見どころがあったな、それに引き換えそれがしは未だ己の道を見つけられぬ」
新九郎はごろりと縁側に寝転んだ。
「気力が上がらん。薬でも飲むか」
新九郎は懐を探したが目当ての薬がない。
「しまった、切らしてしまった」
気力はどんどん落ちてゆき不安が心を支配する。
「や、山猿!」
蚊の鳴くような声を振り絞って新九郎は叫んだ。
「旦那、お呼びで」
「お主、韋駄天だったな」
「へい、足には自信あります」
「済まぬが、江戸に行ってくれ」
「江戸ですか」
「そうだ、神田神保町の蘭方医、
「明日の夕方には戻って来れまさあ。それにしても旦那、顔が真っ青ですぜ」
山猿は新九郎を気遣った。
「持病だ。だが、命に別状はない。頼む、早く行ってくれ」
「へい、お大事に」
山猿は飛び出して行った。
「とりあえず、寝ていよう」
新九郎は布団に這って行った。
「この病を克服せねば、それがしの命運はない」
新九郎は絶望に墜ちて行く我が心を呪った。そして不安に苛まれつつ、いつしか眠りについた。
こうして新九郎が自の病に苦しんでいる間に、文吉一家に大きな危機が迫っていた。
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