鶴見の文吉

 鶴見の文吉は朝から書状を読んでいた。縄張りを隣にする生麦の長太郎からのものである。

 文吉は齢四十九。元は鶴見村の名主の出で、子供の時から餓鬼大将として近隣の子供達を束ね、悪ふざけをし過ぎて、しょっちゅう親に折檻されていた。けれど絶対に泣かなかった。肝っ玉が太いのである。それに弱い者虐めが大嫌いで、年少の者の面倒見も良かった。だから子供達から人気があったし、大人達も大目に見ていた。そして十八歳のとき、村の漁師方と百姓方との大喧嘩の仲裁にたった一人で入り、喧嘩を煽動した乱暴者の漁師太助と小狡い大百姓の与平を斬り殺し凶状旅に出た。赦免はすぐに成ったが、文吉は鶴見村には帰らず諸国を旅して回り、数々の貸元の下で修行し、男を磨いた。文吉がようやく鶴見村に帰って一家を構えたのは十年後、二十八歳になってからである。その当時の鶴見村は相も変わらず漁師方と百姓方がいがみ合っていたが、文吉が睨みを利かすとすぐ止んだ。以降、文吉の、やくざながらも公平で正義感の強い性格が幸いし、鶴見村は平和な日々が続いている。そして、文吉も中堅どころの貸元として近隣諸国に名を上げている。しかし、年を取った。跡継ぎはいない。娘が一人居るだけである。いずれ婿養子を取らねばならない。文吉はそう考えている。ところで……

「ふふふ、長太の坊も大きくなったもんだ」

 そう呟くと文吉は書状を丸めて捨てた。

 その昼。

「おい、ちょっと出てくるぜ」

 文吉は若い者に言い残すと一人家を出た。散歩に行く風情である。ぶらぶらと歩く。しばらく行くと簡素な商家が立ち並ぶ一角に出た。

「親分、御機嫌よう」

「今日もいい天気だねえ、貸元」

「文吉おじちゃん、こんにちは」

 大人から子供まで皆、気さくに文吉に声を掛ける。野良いぬまでが尻尾を振っている。それに対して文吉も、

「お前もご機嫌だな。あ、いつもか」

 とか、

「天気がいいと気分もいいね」

 などとお気楽に返事をする。子供には懐に入れた菓子を与え、野良いぬ、野良ねこは頭を撫でてやる。長脇差さえ差していなければただの好々爺だ。だが、川を越えて生麦村との境が近づくと顔付きが変わった。十数名の人影が見えて来たからである。

「長太の坊。売られた喧嘩、買いに来てやったぜ」

 文吉の大音声に人影がざわめく。葦が揺れる。

「坊って呼ぶな、老いぼれ」

 先頭に立って罵る者が居る。これが生麦の長太郎だ。年は二十四。

「坊だから坊って呼ぶんだ。俺はお前さんが赤子の頃からそう呼んでるんだ。今更言い換えられねえよ」

「ふ、ふざけるな。それに、子分はどうした。どこに隠してる」

 侮られたとみたか、声が裏返る長太郎。

「坊との喧嘩に子分なんか連れて来るかよ。俺一人だよ」

 平然と言い放つ文吉。

「なめやがって。野郎ども取り囲んでやっちまえ」

「おう」

 長太郎の子分達が文吉に向かって、猛烈に駆け寄った。


 同じ頃。

 鶴見の文吉一家の元へ、玉屋玉三郎に伴われて草刈新九郎が訪れていた。

「玉屋でございます。文吉親分はいらっしゃいますか」

 玄関で玉三郎が案内を請う。

「へい、いらっしゃいまし」

 三下の勘八が出て来た。

「勘八さん、毎度おおきに。親分さんは居るかね」

 二人は顔なじみらしい。

「あいにくと親分は外出中でさあ。まあ、とりあえず草鞋をお脱ぎください。おすすぎを持ってまいりやす」

 ずいぶんと躾がよいようで勘八は二人に水の入った盥を持っていた。

「ところでこちらのお武家様は?」

 勘八が問うと、

「ああ、そのことで親分さんにお話しがあったんだがね……そうだ、利兵衛さんは居ますかね」

玉三郎が代貸の名をあげた。

「へい、おります。とにかく玄関ではなんですから、中へお入りください」

 勘八は二人を客間へと誘った。

「へい、ではこちらでお待ちを」

 勘八はお茶をいれると客間から出て行った。玉三郎と新九郎はそれを啜ってしばし待つ。すると一人の老人が入って来た。

「玉屋さん、お久しゅう」

 と挨拶する。この男が代貸の利兵衛だ。年は文吉より一つ上の五十歳。文吉が諸国修行の旅をしていた頃に出会い、その度量の大きさに惚れ込んで一の子分になった男である。喧嘩の腕は二流だが、商家の倅で読み書き算盤に長け、人柄も大らかなので一家の番頭格として働いている。名主の息子で、金銭感覚のない文吉の一家が食べていけるのも、この男の手腕によるものと言われている。

「さて、玉屋さん。こちらのお武家様はどなたで」

 利兵衛が尋ねる。

「こちらは草刈新九郎殿と申されます」

「草刈新九郎でござる」

 新九郎は頭を下げた。

「新九郎様ですか。どういったご事情でこちらに」

「新九郎殿はとある事情で、お命を狙われております。暫く匿っていただきたいのです」

 玉三郎が答える。

「そうですか。まあ、うちの一家は来る者は拒まずの方針ですから親分さえ得心すれば構いませんがねえ」

 利兵衛が言うと、新九郎が申し訳なさそうに口を開いた。その顔は青ざめ、冷や汗が流れる。

「どうしました、お客人」

 利兵衛が心配そうに聞くと、

「誠に、誠に相済まぬが、悪心がして気分がすぐれぬ。出来れば、出来れば横になりたいのだが」

新九郎は喘ぎ喘ぎ言った。

「これはいけねえ。勘八、奥の間に床を敷いて差し上げろ」

 利兵衛が勘八を呼ぶ。

「さらに、相済まんが薬を服したいので……水を一杯いただけぬか」

 新九郎の表情は土気色に変わる。

「お風邪ですか。それともお疲れが溜まって」

 玉三郎が新九郎の身体を支える。

「いや、じ、持病じゃ」

 新九郎は気を失いそうになりながら、勘八と、同じく三下の甚六に抱えられて客間を後にした。

「いやはや、面倒くさそうなお人ですな。ご病弱の質なのかい」

 利兵衛が尋ねると、

「いやあ、ここまでの道中、そのような気配は微塵もございませんでした。病気持ちというのも初耳です」

 玉三郎は答えた。

「まあ、ゆっくり養生してもらいましょう。ところで、親分はどこで油を売っているやら。また、村の衆と酒でも呑んでいるのかね」

 利兵衛がぼやく。そこへ、

「利兵衛の親父、大変だ」

と若頭の竜太郎が客間に飛び込んで来た。

「竜、どうした」

「どうしたもこうしたもござんせん。源五が親分の部屋を掃除していて、こんな物を見つけました」

 そういって竜太郎はぐちゃぐちゃに丸められた書き付けを利兵衛に渡した。利兵衛はそれを一読する。

「こ、これは喧嘩状じゃないか。しかも生麦の小僧。ま、まさか親分、一人で行っちまったのか」

「そのようで」

「親分が出掛けて何刻になる」

「見送った四郎の話しじゃ一刻は下らねえと」

「まずいぞ、早く人数を繰り出して親分を助けねえと」

「へい、もう熊太郎兄貴と虎太郎兄貴が十人ばかり引き連れて生麦に向かいやした」

「もっと人数をだせ。竜太郎、居るだけの子分を連れて生麦に走れ。全力だぞ」

「へい」

 竜太郎は飛び出していった。

「なんて、無茶な。もう一刻か……」

 利兵衛の顔が曇る。

「大変なことになりましたねえ」

 玉三郎が呟く。

「一言相談でもしてくれりゃあいいものを。親分はつまらねえ喧嘩ごときで子分を怪我させたくないんだ。その気持ちはありがたいが、肝心の親分が死んじまったらこの一家は潰れちまう。そこんところが分かってねえ。困ったお人だ」

 嘆く利兵衛。

「でも、文吉親分は腕が立ちます。生麦の三下にむざむざやられる方でもありますまい」

 玉三郎はそう言って慰めた。


 時は半刻前、鶴見川の河原に戻る。生麦の子分衆が一斉に鶴見の文吉に襲いかかった。全速力で駆けつける子分衆。彼らは漁師崩れや百姓崩れだ。けれども集団で掛かれば文吉の生命は危ない。とはいえ、そこは半端者、長太郎の包囲作戦など忘れ、我先にと文吉に迫る。その間、文吉は身じろぎ一つせず、元居た場所に留まっていた。人の走力はそれぞれ違う。先頭を行く生麦の子分が文吉の下へとたどり着くや文吉は素早く長脇差を抜くと、その鳩尾を強烈に叩き付けた。もんどり打って文吉の後ろに倒れる一番手。文吉は振り返りもせずに二番手の脳天をかち割った。三、四、五番手は並んで迫って来る。文吉は身を沈めて三番手、四番手の右脛を長脇差で打ち据えると返す刀で五番手の左脛を払った。さあ六番手と見ると残りの連中は戦意喪失、蜘蛛の子を散らすように逃げ出していった。文吉の攻撃は全て峰打ちであった。脳天を割った二番手の生命が、ちと心配だが、あとは大丈夫だろう。文吉は生麦の子分衆に反撃の余地がないことを確かめると、長太郎の方へ無言で歩み寄って行った。

「こ、これで終わったと思うな、老いぼれ。先生、お願いします」

 詰め寄られた長太郎が叫ぶと、葦の間から一人の武士が出て来る。

「用心棒を雇ったのか」

 文吉は呟くとその武士を見た。そして、

(こ、これは只者じゃあねえ)

 と身構えた。

 武士の佇まい。一挙手一投足。それに全身から滲み出る気迫。殺意。自分と五分五分、いや、年齢差、体力差を考えると完全に負けている。自然と冷や汗が出た。

(これは、まともにやりあっちゃあ勝てない) 

 文吉は死を予感した。

 しかし意に反して、迫り来る武士からスーっと殺気が消えた。

「老人よ、見事な腕前だ。何処で修行した」

 武士が口を開いた。

「若い頃、諸国を巡って様々な方に教えを乞いやした。尾張の伊藤政治郎先生。安房の下泉剛軒先生。三河の小川武骨先生。それに江戸で桃井直召先生に弟子入りした事もあります」

 文吉は答えた。

「ほう、いずれも名だたる剣客。強いわけだ」

 武士は感心した。

「ところで拙者はお主に聞きたい事がある。お主の一家に、最近浪人が厄介になってはいまいか」

「いいえ、おりやせん」

「そうか……では聞く。恩州で浪人者を匿えるような大きな一家のやくざは何処の誰だ」

「そりゃあ、たくさん居りますが、大きさだけなら六浦湊の浦五郎です。しかし、あいつは二足の草鞋で評判が良くありやせん。度量一番は戸塚宿の友蔵貸元でさあ」

「そうか、それだけ聞けばもうお主に用はない。さらばだ」

 武士は文吉を斬るでも無く、何もせずに去ろうとした。

「せめてお名前を」

 文吉が尋ねると、

「名乗るほどの者ではない」

そう言い残して侍はその場を後にした。

「先生! や、約束が違います」

 あわてて長太郎が追いすがろうとするが、

「たわけ。お主が汚い悪人野郎というから助太刀を請け負ったのだ。見れば出来た侠客。このような老人を拙者が斬れるか」

 武士は長太郎を足蹴にする。そして、

「新九郎、お主はいずこへ。この鉄ノ丞必ず見つけ出すぞ」

と呟きながら歩いて行った。

 残されたるは文吉と長太郎のみ。

「長太の坊よ、腹括りな」

 文吉は長脇差を抜いた。

「お前さんの選ぶ道は四つ。俺にこの場で斬られる。堅気になる。修行の旅に出る。それから、俺んところで一から出直す」

 長太郎は両膝を付いて顔を下に向けた。

「さあ、どうする」

 長脇差が煌めく。

「こ、殺してくれ。文吉の叔父貴」

「甘えるんじゃねえ!」

 文吉は長太郎を殴りつけた。

「長太の坊。人に殺されようと首を差し出すやくざが何処に居る。不格好でも抵抗すんのがやくざだ。やくざは人間の屑だ。それを表面ばかりを繕いやがって。悔しかったらウチで修行して腕上げろ。それで俺と勝負しな。俺はあんたの親父さんには世話になった。その親父さんを草葉の陰で泣かすな」

「叔父貴」

 長太郎は泣き出した。そこへ、

「親分!」

「長太郎てめえ」

文吉一家の熊太郎、虎太郎と三下たちがようやく現れた。熊太郎は剛力自慢の大男、虎太郎は居合いの名人だ。それらが長太郎目がけて突っ込んでくる。

「熊、虎やめろ」

 文吉が、がっしり熊太郎と虎太郎を受け止める。

「喧嘩は終わった。長太郎は今日からウチの預かりだ」

「預かりって、生麦の縄張りは」

「長太郎が一角の男になるまで、それも預かりよ」

「あっしは頭悪いから、ちんぷんかんぷんでさあ」

 熊太郎が首をひねる。

「とにかく、喧嘩は終わり。帰るぞ」

 文吉はうなだれる長太郎を誘って帰路についた。途中からは竜太郎たちが加わり。一家勢揃いとなる。

「なんだか知らないけど剛毅だねえ」

 村人たちが手を振った。


 その日の晩。

 鶴見の文吉は客間の襖を開けた。

「玉屋、待たせて済まねえ」

「いいえ、夕餉を頂戴しましてありがとうございます」

 と言いながら紙で口を拭った玉屋玉三郎はこう続けた。

「今日は大活躍だったそうで」

「なあに、ちょっとしたお遊びよ」

 文吉は照れ隠しに煙管を吸い付けた。

「だがなあ、結果的に生麦の縄張りを横取りする形になっちまった。これで、また綱島や鴨居の貸元に悪口を言われる。困ったものだぜ」

「言いたい者には言わせておけばよろしいので。文吉親分のなさりようは堅気の衆や出来た貸元には好評でございますよ」

 ぼやく文吉を玉三郎は慰めた。

「それはそうと、俺んとこに、匿い人だって」

「はい」

「何者だい?」

「浪人でございます」

「浪人ねえ」

 そのとき文吉の脳裏にはあの屈強な武士の顔が思い浮かんだ。

(こいつだな)

 文吉は直感した。

 玉三郎は沈黙する文吉に尋ねる。

「どうかされましたか。浪人者はお気に障りましたか」

「いや、そうじゃねえ。玉屋の連れて来た人だ。しっかりお守りするぜ」

「ありがとうございます」

「で、なんで隠れなきゃならないんだい」

「実はこのお方、江戸で公儀の重臣二人を斬ったのです」

「それじゃあ、大罪人じゃないか」

「ええ、しかし二人は病死扱いとなりましたので、表向きには罪は無かった事になっております」

 それを聞いた文吉は紫煙を吐くと、

「それで、二人の親族や家臣が隠密裏に敵討ちってことだろ」

「ご明察です。何でお分かりに」

 玉三郎が尋ねる。

「いや……勘だよ、勘」

 文吉は惚けた。

「で、肝心のお人……なんて名前だったっけ」

「草刈新九郎様です」

「急病で寝込んじまったんだってな」

「何やら持病が出たとかおっしゃっていました」

「労咳じゃあないだろうな」

「いえ、その直前まではすこぶるお元気でしたので」

「そうか。ならいいけどさ」

「詳しい事は明日、ご本人に聞いて下さい。私はそろそろ失礼させていただきますので」

 玉三郎は席を立った。

「なんだ、泊まっていかねえのか」

 文吉が引き止めると、

「急ぎの商いがございますので」

 玉三郎は申し訳なさそうな顔をした。

「ではこれで……あっ!」

 玉三郎が声を上げる。

「びっくりさせるなよ」

 文吉が、しかめっ面をする。

「大事なことを失念いたしました」

 そう言って玉三郎は懐から何か取り出した。

「菊千代様からの文でございます」

「なに、菊千代様、お懐かしい。お元気なのか」

 文吉が尋ねる。

「ええ、ご健勝でございます。先日も大きな猪を二頭も狩ったなどと言って、はしゃいでおりました」

「ほう、猪かあ」

 文吉は感心する。

「これでお役目終了です。またいずれ」

 玉三郎は暇を告げた。

「どれどれ、菊千代様はなんと……」

 文吉は文を読む。

「……」

 文吉の額の皺が深くなる。しばらくしてじっと黙って考え込むと、おもむろに文を長火鉢に落として燃やした。そして一言、

「菊千代様……相変わらず面倒くさいお方だ」

と呟いた。

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