彼の世と此の世の境界
おでん
彼の世と此の世の境界
目を覚ますと、目の前に友人の小鳥遊恭平がいた。やぶ睨みの目つきを除けばそれなりにハンサムといえなくもない顔立ちや、一時間かけてセットしたような気合の入った髪形は、見間違えようがない。小鳥遊恭平に相違ない。
別に驚くことではない。いや、本当は驚くことなのかもしれないが、もう慣れてしまった。
何しろ小鳥遊は「やることがないし、話相手もいないからなぁ」などと悲しいことをサラリと言って、僕に付きまとうからだ。
だが邪険にも出来まい。
……死者は、普通の人間には見えもしないし言葉も聞こえないのだから。
僕、神崎祐一は、不思議な能力を持っている。
というと聞こえはいいが、それは能力ではなく体質と呼ぶべきもので、僕の意思で影響力の強弱を変えることはできるものの、完全に消すことは出来ない。
死者……俗に言う幽霊という奴を見ることと、そして彼らと会話することが出来る。それが僕の能力だ。
無論全ての霊を見えるわけではない。確証や法則が通用する相手ではないが、僕の経験則からすると霊を見るには二つ条件がある。
一つはその霊と僕に因果関係を成立していることだ。それが友達であったり、家族であったり。あるいは目が合ったとかすれ違ったとか、そんな些細なことでもいいが、深い関係であればあるほど見える確率は高くなる。
もう一つは残念していること。念が残る……つまり成仏できていない状態であることだ。だから小鳥遊もまた、何か遣り残したこと、思いがあるということになる。しかし小鳥遊はそれを語らない。きっと僕にはどうしようもないことなのだろう。
神条高校の2−Aから出て、昼休みの喧騒を避けるように体育館裏へと移動する。それが僕の日課だったし、その上を飛んでいく小鳥遊もそれをわかりきっていた。
体育館の裏には小さな花壇がある。廃部が決定した園芸部の最後の作品。しかしそれも去年までのこと、今年からは園芸部は神条高校から消え、世話をする人間もいなくなった。
だから僕が世話をしている。その理由は……まあ長くなるから割愛しよう。
「花なんか育てて楽しいか?」
などと恭平が尋ねてくる。
「あまり楽しくないね。でも花に水をあげることは好きなんだ」
切欠は長くなるが、それを割愛すれば理由は単純である。花に水をあげるのが好き、ただそれだけである。色とりどりの花(僕にはどれが何という名前なのかわからない)を眺めながら、ぼーっと水などを振りまく。まあ縁側で盆栽を眺める老人の若者バージョンとでも言うべきか。楽しさはないが、落ち着くのだ。
小鳥遊は水を被らないように僕の隣に立って、花へと降りかかる水を見ている。水がかかってもすり抜けるだけだろうに、とは思うが、幽霊というのは生きていた頃と同じ行動を取りたがる。死を受け入れたくないのだろう。あえて死という現実を突きつける勇気は僕にはなく、ただ世間話をするだけだ。
「なあ祐一」
「……なんだい?」
「昼休みだってのに、友達も誰もいないところで花を相手にして、虚しくねぇ?」
「うるさいなぁ。友達がいればこんなところで花を相手にしないさ」
「うわ、もっと虚しい」
「小鳥遊に言われたくはないな」
ダメ人間と幽霊、相性はいいのだろう。けなされてはいるが、仲が悪いわけではない。
「でもまあ、もっとこう面白いことは欲しいね」
水撒きのホースを振り回して、大げさなジェスチャーをする。と、
「きゃっ」
悲鳴が聞こえた。
声のした方向を恐る恐る見てみると、一人の女子生徒が肩を濡らして立っていた。間違えようもなく、さっきのジェスチャーのせいで水がかかったのだ。
「ごめん、大丈夫かい?」
水を止めて女子生徒に近づく。近くで見てみると、なかなか可愛い子である。無表情とやや鋭い目つきさえなければ、きっとすんなりと美少女と呼べるだろう。長い髪の一部が濡れて、セーラー服の緑色のスカーフに張り付いている。
少女は僕を見つめた。きっと怒っているのだろう。表情には表れていないが、それは無表情だからであって、睨むような目つきを見れば咎められている気分になってしまう。
スカーフの色は緑色。学年ごとに学年を表す色というのが決まっている。緑は一年、赤は二年、青は三年、という風に。この少女は後輩にあたるわけだが、いくら先輩にでも水をかけられて笑ってはいられないらしい。
「本当にすまなかった。そんなに濡れたかな?」
「……いえ」
少女はぷい、と目を逸らした。そのまま辺りを見回すように視線を動かしたあと、花壇を見る。そして僕が沈黙に耐えかねた頃口を開く。
「……先輩は一人ですか?」
しかし濡れたことや僕の謝罪とは関係なかった。濡れたことを非難されるよりはマシだ、と思うことにする。しかし小鳥遊の存在を言っても信じてもらえないだろうから、僕は頷いておいた。
「ああ、見てのとおりだよ」
「そうですか……」
そのまま再び彼女は口をつぐんだ。僕を見ようともしない。僕はかける言葉を探してしばし沈黙した。しゃべっても意味ないが小鳥遊も黙って少女を見つめている。
うーん……沈黙が重い。
どう切り出せばいいのか、わからない。小鳥遊にいった言葉は間違っていない。僕には友達と呼べるような奴は小鳥遊くらいしかおらず、一般的に根暗と呼ばれている人種で、つまり口下手だ。こういう場面では小鳥遊くらい軽薄な口が欲しいものである。
などと横道にそれた思考をしていると、校舎のほうからもう一人の女子生徒が現れた。セミロングの髪や高校生に見えない童顔は見間違えるはずもない。従妹の栞だ。
「お兄ちゃん、これ忘れてったでしょ」
そう言いながら何かを掲げて歩いてくる。よく見ると弁当箱だ。家に忘れてきたと思ったが、栞が持ってきてくれたらしい。同じ家から同じ高校に通う気の利く人間、というのはなかなかに便利なものだ。下宿させて正解だ。
栞は僕に弁当箱を渡してから、小鳥遊を……いや、小鳥遊ではなくその奥にある花壇を見て佇んでいる少女を見て首をかしげた。
「あれ、小鳥遊さん。どうしたの? お兄ちゃ……えっと、神崎先輩と知り合い?」
「……神崎先輩? この人、神崎さんのお兄さん?」
どうやら二人は知り合いらしい。先ほどまでの重い空気からは逃れられそうだ。都合のいい展開に感謝する。
「知り合いなのか、栞?」
「うん。同じクラスの小鳥遊さん。『ことりあそび』って書いて『たかなし』って読むんだって。珍しい苗字だよね」
「ああ……珍しいな」
そう思って小鳥遊……えーと、恭平に目を向ける。恭平はじっと小鳥遊さん……女子生徒を見ている。僕の問いかける視線にも気づいていない。
何かあるな、とは思ったが、二人の目がある中で霊と話すというのは変人に見られるだけである。またの機会を探ろう。
「僕は神崎祐一。栞の従兄だけど、兄妹みたいなものだよ」
「小鳥遊満潮です」
「潮が満ちるって書いて『みしお』って読むんだよ。名前も珍しいから、すぐ覚えられたんだ」
少女の言葉を栞が補完する。
「ふぅん。ごめんね、小鳥遊さん」
「いえ……驚いただけで、あまり濡れませんでしたから」
「そう。ならいいんだけど」
なんというか、小鳥遊……満潮さんの雰囲気は驚いただけという風には見えないのだが。
「お兄ちゃん、何かやったの?」
「花に水をあげてたら、水が小鳥遊さんにかかったんだ」
「もう……暖かくなってきたからって、濡れたら風邪引いちゃうかもしれないじゃない。本当に大丈夫?」
「ええ。大丈夫だから」
栞の言葉にも心ここにあらず返事をした満潮さんがようやく振り向いて、僕を見る。睨むような目、というより目つきが鋭いのは生まれつきで、彼女は睨んでいるつもりはないのだろうが、そんな目で見られるとなんとなく気後れする。
「先輩は園芸部なんですか?」
「みんなそういうけど、違うよ。園芸部は廃部になってね。これは去年までの最後の園芸部員が残していったものなんだ。僕はその世話を引き継いでるだけ」
「廃部……?」
「花を育てても地味だし、大会とかないし。部活動っていってもたまに雑草抜くくらいで、やることないしね」
「そう……ですか」
満潮さんは残念そうな表情を浮かべた。
「花が好きなの?」
と栞が問いかけると、彼女は素直に頷いた。
「……知り合いに、体育館裏に綺麗な花壇があるって聞いて、この学校に入ったんですけど」
今の花壇はお世辞にも綺麗とはいえない。花は綺麗だが、肥料も特別なものが使われてるわけでもないし、雑草も生え放題。水をあげるのが趣味の僕も、手入れはあまり好きではないから。
「僕が世話をする前は、もっと綺麗だった」
正直に告白すると、
「そうですね」
彼女はお世辞も言わずに率直に頷いた。
そこで思い出したように栞が自分の弁当箱を掲げた。
「そうだ。私たち、これからお昼なんだけど、小鳥遊さんも一緒に食べない?」
「ううん、お弁当持ってきてないから、学食で食べようと思ってたの」
「そう。残念」
「それじゃ私、学食行くから」
栞に言葉を、僕に小さな会釈をして、満潮さんは去っていった。その後姿を見送っていた恭平がため息を吐いた。
妹なのだろうか。あるいは僕と栞のような関係なのか。何かしら関係はあると思うが、隣に栞がいる。まだ聞けない。
力なくどこかへ飛んでいってしまった恭平を見つめながら、僕は弁当箱を広げていた栞に言った。
「ごめん、今日は食欲ないからいいや」
確かこの辺りだったな、と思いながら屋上を探す。飛んでいってしまった恭平を屋上の辺りで見失っただけで、実際どこにいるかなんてわからない。空は飛べるし壁も抜けられる。行動範囲が広すぎて、向こうから寄ってこないと僕には探しようがない。
それでも屋上は恭平の好きな場所だった。……生前の彼とよく屋上で授業をサボったものだ。実はもう五時間目が始まっていて、今もサボっている。懐かしさを感じた。
「小鳥遊。いるんだろう?」
ためしに声をかけてみると、恭平はゆっくりと貯水タンクの上から降りてきた。
「祐一……」
恭平は嬉しそうな、でも悲しそうな、不思議な表情で僕を見る。
「小鳥遊さん……満潮さん、妹かい?」
「ああ。俺に全然似てない、よく出来た妹だよ。従兄妹じゃないけど、お前と栞ちゃんくらい似てないだろ」
「そうだね。でも目元とか似てると思うよ。満潮さんに見られると、小鳥遊……恭平に睨まれてる気分になる」
「俺の悪いところは似てくるんだよなぁ」
そういって苦笑した恭平は、屋上の踊り場の屋根の上へ、梯子を登って上がる。僕もそれに続いて梯子を登った。学校で一番高い場所。恭平に付き合わされてサボるときは、いつもここに来た。馬鹿と煙は高いところが好きだね、とぼやきながらも僕もサボりの常習犯になったっけ。
「満潮、去年の冬に同じ中学の男と付き合ってたんだ」
「……君に似ないで、身持ちは硬そうだけどね」
軽口を叩くが、恭平は再び苦笑して話を続ける。
「身持ちは硬いってより、奥手なんだよな。暗い子じゃないんだけど、人のことを気にしすぎるところがあって、引っ込み思案なんだな。そういうところ、俺の妹じゃなくて、お前の妹っぽいよな。栞ちゃんより満潮のほうが、お前の妹っぽいよ、絶対」
「そうか……? まあ引っ込み思案なのは確かに僕みたいかもね」
「覚えてるか? 俺とお前が入学式で初めて会ったとき時のこと」
思い出してみる。
一年前のこと。入学式のときにぼんやりしながら体育館裏で佇んでいた僕に、やたら馴れ馴れしく声をかけてきたのが恭平だ。花壇にいた幽霊と会話していた僕を、一人でブツブツ言っている怪しい奴だと思ったらしい。正直クラスの輪に入るのが苦手だったから、当時から幽霊と話すことのほうが多かった。
「友達の輪に入れないで、人気のないところにいようとするところとか、お前と満潮はそっくりだった。だから俺はほっとけなくなって、お前に声をかけたんだ」
そうかもしれない。恭平は内気な僕を引っ張って、よく馬鹿なことをやっていた。恭平がいなければ、僕は本当に根暗な奴として思い出のない高校生活を送っていただろう。
「お前、彼女いない暦16年だろ?」
「……聞くまでもないだろう」
「満潮も同じで、彼氏なんか出来ないって思ってたからな。彼氏が出来たときは本当に驚いた。それから少しずつ明るくなって、普通の女の子っぽくなってきたと思ったんだ」
「と思った?」
「……一ヶ月もしないで別れた。男のほうから振ったらしい。そのことにも驚いたけど、それからの満潮の落ち込みようがひどくって、驚くどころじゃなかった。丸3日飯も食わないで部屋に篭りっぱなしで、心配した両親のほうが倒れそうだったよ」
そこまで言ってから恭平は少しだけ口をつぐんだ。苦虫でも噛み潰したように顔をしかめて、それを見つめる僕を一瞥してから、空へと視線を投げる。
「聞くところによると男のほうから告白して付き合ったらしいのに、なんでそいつのほうから振るんだ? 俺のことじゃねぇけど、ムカついてよ。……まあ、その、なんだ。その男の所に殴りこみに行った」
「殴り……おいおい、それはやりすぎだろう」
「そうか……? いや、そうだよな……やっぱりやりすぎだったんだろう。そのことはよく思い出せないんだが、そいつの顔を何発か殴って、もう満潮に近づかないように約束させて……そこから先が思い出せねぇ」
「……思い出せない?」
「ああ。気づいたら街のど真ん中に立ってて、帰らなきゃって思って家まで歩いてったら、葬式がやってた。しかも驚くことに俺が死んだらしい。死因は交通事故。ふらふら歩いていたら車に轢かれたらしい」
葬式。クラスメイトの突然の訃報に、僕や他のクラスメイトも葬式に参列した。
そのときの遺族の顔は今でも思い出せる。両親ともにやつれきっていて、妹らしき少女は流す涙も枯れたくらい酷い顔だった。きっと満潮さんの不幸と恭平の不幸が重なったためだろう。
そして、それ以上に不安定な顔をしていた、恭平。どうして自分の葬式が行われているのか理解できず、それを周りの人間に聞こうとしても認知されず、何かに触れることもできない……自分が幽霊だと認識できていなかった恭平は、呆然と葬式を見つめていた。
「それを僕が見た……」
「あの時は助かったぜ。あの時祐一が『お前はもう死んでいる』って言ってくれなかったら、俺はずっと認識できなかったと思う。俺が幽霊だってことに……」
僕が見える幽霊は、大抵何か未練を残して、死んだことを認識できていない。それを気づかせることがいいことなのか、悪いことなのか、僕にはまだわからない。
たとえ霊が見えても、霊と会話できても、僕は霊能力者ではない。彼らを成仏させることも、蘇らせることも出来ないのだ。死んだ、と現実を突きつけても、そこからどうすることもできない。何かのきっかけで成仏できるまで、自分がいなくなった世界を見続けるだけ……そんなことになるなら、気づかせないままのほうが幸せかもしれない。そう思うことがある。
「あれからお前の側にいるか、ときどき家の様子を見に行くかしてたんだけどさ。満潮も大分吹っ切れてきたと思う。でもやっぱり、あいつ、時々泣いてるんだ。夜中、自分の部屋で、母さんや父さんにも聞こえないように……。俺が成仏できないのはきっと、あいつがまだ泣いてるからだろうな」
俺ってシスコンだな、と付け加えて恭平は恥ずかしそうに笑った。
その話を聞いても、僕にはどうすることも出来ない。ついさっき知り合ったばかりの僕が、満潮さんの悲しみを取り除くなんてこと、できるはずもない。霊が見えるだけで、僕は魔法使いでもなんでもないのだ。
でもやっぱり……。
「恭平は、満潮さんと話したい?」
「……どうだろうな」
「僕ならきっとそれが出来ると思う。僕に出来るのはそのくらいで、それが恭平や満潮さんのためになるかはわからないけど」
「……」
家に帰ると、先に栞が帰ってきていた。
「ただいま」
「あ、お兄ちゃん、おかえり。大丈夫?」
大丈夫、と聞かれて、一瞬答えに詰まる。そして昼に弁当を受け取らなかったことを思い出した。
「食欲ないって言ってたでしょ。貧血? 風邪?」
「ああ……大丈夫。もう全然平気」
嘘をついてしまったし、せっかく作ってもらった弁当を無駄にしてしまった。罪悪感が襲い掛かってくる。
「本当、ごめんな」
「お兄ちゃんがもう大丈夫ならいいんだけど。夕御飯は食べられる?」
「ああ、食べる。昼食べてないから、少し多目がいいかも」
「わかった。三十分くらいで出来ると思う」
神崎家の家庭内事情は少々複雑だ。この家には僕と栞と、僕の父が住んでいる。母はいない。
もともとの実家は東北の片田舎で、僕と両親は栞やその両親と家族ぐるみの付き合いしていた。僕と母がいて、そして叔父が遊びに来ていた僕の家が、原因不明の火事に遭った。事故によって叔父は死亡。母は命を失いかけ、一命は取り留めたものの植物状態。無事だったのは僕だけ、重症だったが奇跡的に後遺症もなく済んだ。……というのを後に聞いた。そのときのことはよく覚えてない。
東京の大きな病院でなければ治療できないため、家を失った僕と父は関東のとある県に引っ越してきたのだ。そこに、高校受験を機に上京したいと思ったらしい栞が下宿しにきた、という状況だ。叔母さんも親戚のいない東京に娘を放り出すよりは、東京ではないが親戚のところに置いておきたいようだ。
父は大抵会社に寝泊りして仕事に励むか、帰ってきても夜遅くに帰って朝早くに出かけてしまう。年頃の娘とほとんど二人っきりなわけだが、その点では父も叔母もほとんど心配していないらしい。
……曰く「祐一にそんな甲斐性はないだろう」と。事実なのが悲しい。
まあそんなこんなで、家には僕と栞だけだ。しかも僕には家事の才能はまるっきりないようで、家のことは栞に任せっきりである。
「……なあ、栞。みし……小鳥遊さんとは親しいのか?」
「え? 小鳥遊さん? んー……微妙なところかな」
「微妙、か……」
なんでそんなことを聞くの? と栞の目が問いかけてくる。その視線には気づかなかった振りをして、もう少し聞いてみる。
「微妙ってどんな感じ?」
「私からは結構話しかけて、返事はするし、たまに笑いあったりするけど……小鳥遊さんのほうから話しかけてくることはあまりないかな。なんていうのかな、壁を作ってる? みたいな感じで、なかなか打ち解けられないんだよね」
「……そうか……」
「うん。うーん……ちょっと違うかもしれないけど、お兄ちゃんと似てるかも」
「……僕と?」
「お兄ちゃん、自覚ない? 壁作ってるわけじゃないけど……えっとね、線を作ってるのかな」
「線?」
「うん、境界線。壁じゃないから通り抜けてお兄ちゃんに近づけるんだけど、お兄ちゃんのほうから境界線を出て誰かに接することがないの。誰かを拒絶することはないけど、積極的に仲良くなろうともしないでしょ」
そう……なのだろうか?
しかし考えてみれば、確かにそれは僕の基本スタイルだ。
誰かと打ち解けるのが苦手で、学校では恭平たち幽霊と行動をともにしている。しかしクラスメイトが嫌いなわけではない。話しかけられれば返事もするし、邪険にしているわけでもない。しかし積極的に輪に加わろうとはしない。
幽霊といるのだって、それは暇をもてあました幽霊が話し相手を求めているだけだ。僕から幽霊に話しかけることは少なく、僕が幽霊を見ていることに気づいた相手から話しかけてくる。
きっとそれは楽な生き方だ。自分では何もしていない。相手を見守るだけ。
「……なるほど、そうかもしれない」
「でしょ?」
うん、的を射てる……、と栞は自分で言ったことに頷いている。
「私は好きだけどね。お兄ちゃんのそういうとこ。喧嘩とかしないし、どんな話しても黙って聞いてくれるし、ちゃんと相槌打ってくれるし。拒絶されないから、安心して傍にいられる。けど……」
「けど?」
「……時々歯がゆく思うときもあるんだ。だからかな、小鳥遊さんに話しかけるの。お兄ちゃん見てるみたいで」
……恭平と同じことを言う。
ということは僕と満潮さんは同じ人種らしい。きっと栞と恭平も似たもの同士だ。
しかし満潮さんをもう一人の僕として考えると、心を開かせるのはよほど困難である。自分のことを省みれば少しはわかる。きっと僕が話しかけても苦笑して聞いて、適当に返事して終わりだ。
でも。それはまだやりやすいこともある。僕がどんな常識離れした話をしても、頭ごなしに否定するタイプではない、ということでもあるから。
「ふぅむ……そういう性格でも、いきなり呼び出されたら警戒するよなぁ」
「え? 告白でもするの?」
冗談めかした栞の言葉に、苦笑しながら肩をすくめるが、否定はしない。……こういうところ、否定しない性格が表れてるのだろう。
「愛の、とはつかないけどね。結構大事な話があるんだ。栞から頼んでくれないか。『来週の日曜日、二人だけで話したいから時間を割いてくれ』って。場所は……人がいなくて静かなところって、どこがあるかな? できれば彼女が警戒しないところ」
「注文多いね。『パイナップルアーミー』っていう喫茶店の、一番奥のボックス席とか、どう? 周りにあまり声が聞こえないから、密会とか大事な話をするのに使われてるらしいよ。場所も駅前の通りに近いから、見つけやすいしいかがわしくないし」
「へぇ……いいね。そこにしよう。じゃあ『午後二時に『パイナップルアーミー』で待ってる』とも伝えてくれ」
「うん。わかった」
素直に栞は頷いた。
弁当も作ってもらっているし、家事も任せっきりだ。こんな私情の頼みも嫌な顔せず引き受けてくれる。これではどちらが兄かわからない。栞には感謝しているが、妹に改めて感謝…というのも妙に照れくさい。いや従妹だけど。
そうだな。あとで何かお礼を形にしてみよう。そのときにこの問題がいい方向で解決していればいいのだが。
「それにしても、お兄ちゃんが境界線を出るなんて珍しいよね」
「……そうだな」
今日会ったばかりの女の子に会おうとするなど、僕の行動パターンからかけ離れている。
「一目惚れ?」
「違う違う。……親友の大切な人なんだ」
「そうなんだ」
それっきり栞は追求するのをやめた。本当によくできた妹……いや従妹である。自分でもよく間違えるが妹ではなく従妹なのだ。僕も叔母さんの子なら、こういう風に育ったかなぁ、などと思ってみるが、きっと無理だろう。優しい僕とか、自分でも想像できない。
妹の気遣いを受け取って、この話題は終わりにした。あとは上手くいくことを願うばかりだ。
それから、どうしてこっちに5年住んでる僕より来たばかりの栞のほうが店に詳しいんだ、とか、女の子は美味しいケーキのお店は要チェックしてるんだよ、とか、当たり障りのないことを話して夕食を待った。
日曜日の午後一時。僕は『パイナップルアーミー』の奥のボックス席に座っていた。
指定した時間より一時間早い。正直三十分は早く来る予定だったが、ここまで早い時間に着いてしまうのは予想外だった。方向音痴の僕のこと、あと十分か二十分は確実に迷うはずだ、とか情けないことを想定していたのだが、確かに見つけやすいところにあった。たとえ満潮さんが僕を超える方向音痴でも、そう迷うことはないはずだ。
……来てくれるのなら、という前提が必要だが。
キリマンジャロとモカがブレンドされたらしい、この店自慢のコーヒーを飲む。確かに美味しい。が、あいにくキリマンジャロがどうとか、モカがどうとか、はっきりわかるほど舌は肥えてないし、コーヒーも飲みなれていない。
僕がコーヒーを注文したとき、店員は訝しげな顔をしていた。僕がコーヒーがわかる客に見えなかった、ではなく、一人しかいないのに二人分同じコーヒーを注文したからだ。満潮さんの分ではない。今もう一人分のコーヒーが置かれている僕の隣の席には、誰にも見えないが恭平が座っていた。
恭平は今まで見たことがないほど、真剣で、思いつめた、緊張した面持ちでコーヒーを見つめている。幽霊の恭平にはコーヒーは飲めないが、それでもそこに恭平という存在があることを示している。
「本当に来るのか、満潮が?」
不安そうに恭平が呟く。
「来るかどうかはわからない。でも一応呼び出してある」
「……来なかったらどうするんだ?」
「うーん、そのときは搦め手で機会を作るしかないかな。そういうのは苦手だけど」
往生際が悪い。この会話は、ここに来るまでに何度となくしたのだ。この期に及んで逃げ腰とは……。しかし気持ちはわからなくもない。
計画は簡単だ。満潮さんを呼び出して、恭平が今なお霊として彷徨っていることを告げ、僕を通して二人を会話させる、というものだ。
彼女が信じなかったら、という可能性は考慮していない。それに、話してどうなるのか、も。ザルのような計画なのは重々承知している。
つい先日知り合ったばかりの僕が、満潮さんの悲しみを取り除くなんてこと、できるはずもない。霊が見えるだけで、僕は魔法使いでもなんでもないのだ。しかし、長年兄をやってきた恭平になら、それができるかもしれない。僕はその橋渡しができる。
それでダメなら僕にはそれこそどうしようもない。しかしできることはやっておきたかった。このまま恭平が残念したままでいるのを見守るだけ、というのは、親友として忍びない。……とは本人に言うのは恥ずかしいが。
それからしばらく恭平と話をしながら、満潮さんが来るのを待つ。時計はいつの間にか二時半を指していた。
「……来ないんじゃないか?」
恭平がそう言った直後、満潮さんが姿を現した。
「すみません、遅れて。道に迷ってしまったもので」
迷うほど難しいところではなかったはずだ。満潮さんの言葉が嘘か本当かはわからない。その辺の駆け引きが僕は苦手だ。
だが来てくれたことを心中で喜び、満潮さんに僕の正面の席を示す。彼女は僕の隣で冷めているコーヒーを見たが、何も言わずに正面の席に座った。
店員が注文を取りに来る。そういえば、店員は注文時以外、こちらから呼ばない限り姿を見せない。ここが密会のための席だというのは本当かもしれない。店員にも聞かれることはないということだ。
僕はコーヒーの追加を、満潮さんはウーロン茶を注文した。
注文の品が届くまで、ここのコーヒーは美味しいよ、とか、カフェインアレルギーなんです、とか、実は僕も来るのは初めてでお勧めは知らない、とか、じゃあコーヒー勧めないでください、とか、当たり障りのないことを話した。
意外と早く注文のコーヒーとウーロン茶が来た。店員は去って行き、別の客の話し声もほとんど聞こえない。それを確かめて、満潮さんは大きく一つ深呼吸をした。
「それで、話というのはなんでしょう?」
「……」
しかしどう切り出したものだろうか。
『僕は幽霊が見えるんだ』
……頭大丈夫? という話になりかねない。
隣では恭平も黙って僕を見つめている。正面では満潮さんも僕の話を待っている。
少し悩んでから、僕は口を開いた。
「えっと、まずは約束を破ったことを謝る。ごめん」
「約束……?」
「二人で話がしたいってことを栞に伝えてもらったと思うけど、あれは嘘だ。三人で話がしたかった」
三人、と聞いてから満潮さんは、恭平の……満潮さんから見て空席のコーヒーカップへ目を向けた。察しがいい。
「君が信じるかどうかはわからないが、僕は幽霊を見ることが出来る。会話も出来る。残念ながらそれ以上はできないけど……」
幽霊が見える、と聞いた満潮さんの表情は、訝しがるものだった。
いきなり話しても信じてもらえるとは思っていない。鼻で笑われないだけマシだろう。たぶん僕がその立場なら信じられないと思う。
「はあ……幽霊、ですか」
「それでね。今隣に恭平が……君のお兄さんがいる」
「……!?」
「見えないだろうけど、ここにね」
コーヒーカップの置いてある空席を示すと、彼女はそこに兄を探すように、食い入るような視線を向けた。その視線の中、妹に認識されない恭平は少し悲しそうな顔をして満潮さんを見つめ返す。
「正直、君と恭平を会わせて、どうなるかは僕もわからない。生前の未練を果たすか、兄妹喧嘩で死に別れるか、予想もつかないのが本音だ。でも少しだけなら二人を会わせる事が出来る。…君は恭平に会いたいと思うかい? 恭平も満潮さんと話したいと思うかい?」
僕は満潮さんと恭平を交互に見た。
恭平は一瞬息を呑んでから、力強く頷いた。
「俺は話したい。話したいことが山ほどあるんだ」
「そうか……話したいか。わかった」
満潮さんにも恭平の言葉がわかるように頷く。そして彼女を見る。
彼女はそれから僕と空席を交互に見てから、十秒間沈黙して、口を開いた。
「……そこに本当に兄がいるのなら、会いたいです。ううん、本当は会いたくないけど、でも会わないと後悔しそうですから」
僕は頷いた。
「恭平。僕に取り憑け」
「え?」
「憑くんだ。今まで何度か、霊に憑かれたことがある。少し苦しいが、大丈夫。数分だけなら互いに害はない」
「……わかった。どうやって憑けばいいんだ?」
「僕と体を合わせて、僕の体を意識して。……この体を動かそうとするんだ。僕という着ぐるみを着るイメージで……」
半信半疑の表情だが、恭平は僕の言葉どおりに動いた。
何にも触れられない恭平の体が、僕の体をすり抜けて入ってくる。他人の存在が、僕の中に入ってくるのを感じる。パズルのピースをはめたように、ぴったりと自分の中で恭平が合わさった。
ひしひしと、激痛が僕の体を苛んだ。全身を荒い鑢で磨かれているような、絶え間ない痛み。でも数分だけなら耐えられないほどではない。
昔心霊学の先生が言っていたことを思い出す。
『君の体は半死半生なんだ。半分死んでいるから、霊が見える。でも半分は体は生きてる。霊を見るというのはそれだけ死に近づいていることだが、肉体が生きているから死に引きずり込まれないでいる状態だ』
幽霊に憑かれている状態は、体が死者のものになりかけている、ということだ。この激痛は死に引きずり込まれている感覚なのだろう。自分という生が、死という鑢によってどんどん磨耗していくのがわかる。
――恭平、大丈夫か?
「ああ、大丈夫……だ?」
僕の言葉ではない声が、自分の口から発せられる。恭平の返事が僕の口を突いて出た。恭平も驚いているようだった。
「憑けた、のか?」
「……先輩?」
挙動不審の僕を満潮さんが覗き込んだ。その瞳に映っているのはやはり僕だが、しかし体の所有権は恭平が持っている。
――そう長くはもたない。早く話を……。
「あ、ああ……。満潮、わかるか? 俺だ、恭平だ」
「……?」
「わからないのか?」
――僕が知りえない、恭平の知る満潮さんの秘密とかないか?
「え? そうだな。あー、ほら、背中に火傷の跡、あるだろ? あれは十歳くらいの時か? 俺が遊んで撃ったロケット花火が直撃した奴。あの時は悪かった」
「なんで先輩がそんなことを知ってるんですか?」
――……事実か。ろくでもないね、君は。
「うるせぇな。お前が聞いたんだじゃないか」
「……」
「ほら、こんなこと祐一が知るわけないだろ? 今は俺なんだ、恭平なんだよ!」
「……まさか本当に、兄さん?」
満潮さんは信じられない、というように目を見開いた。
信じてもらえたか、あるいはまだ半信半疑か。どっちとも取れるが、あまりこちらには余裕がない。激痛が骨髄にまで染み込むようで、この中で自分を保っているのが辛い。
――ほら。早く、話を。伝えたい、ことをっ……、今のうちに……。
「ああ。……えーと、勝手に死んじまって、悪かった」
「うん、本当に悪いよ……。父さんや母さんや、私もどれだけ心配したか、わかってる?」
「本当に悪いと思ってる。俺、自分の葬式を見てた。クラスメイトが『授業潰れてラッキー』って小声で話してたのとか、聞こえたけどさ。やっぱりお前や両親が泣いてるのを見ると、そいつら怒るよりも自分を怒りたくなってきた」
葬式で、僕が恭平に死を告げたあと。恭平はいろいろな場所から自分の死と、死を悼む人をみていた。苛立たしそうに、歯がゆそうに。
「だから、成仏しなかったの?」
「それは……どうだろうな。自分やそいつらは殴りたいくらいだ。あの男だって、まだ許してない。だけど、やっぱりお前が心配だったんだろうな、俺」
「私が心配ならどうして……死んじゃったの? あの人に振られて、お兄ちゃんがいなくなって、私、自殺も考えたんだから」
「……満潮。あの男のこと、まだ好きなのか?」
満潮さんは首を横に振った。
「正直に言うと、あの人のことはそんなに好きじゃなかったの。告白されて、断る理由もなくて。それに、相談した友達の好きな人だったのに、その友達が『満潮ならお似合いだよ』って泣きそうになりながら笑顔で言ってくれて。断れなくなったから……だから付き合っただけだった」
「そうなのか……。引きずってなければいいんだ」
表情にはでなかったが、恭平が少しだけほっとしたことがなんとなくわかった。同じ体に住んでいるからだろう。少しだけ恭平の気持ちが流れ込んでくる。
「じゃあなんで夜な夜な泣いてるんだよ?」
「…見てたの?」
「ああ。その、悪いとは思ったけどな。夜、家に帰ると、満潮の部屋からすすり泣く声が聞こえた来て……心配だったけど、今の俺じゃ祐一の手助けがないと、訊ねることも相談に乗ることもできないからな」
「そう……」
小さく呟いて、満潮さんはそれから少しだけ口をつぐんだ。恭平にも話すか話すまいか考えているようだったが、ややあって口を開く。
「私ね。自分がわからなくなったの」
「……? どういうことだ?」
「兄さんはわかるでしょ。私、暗くて、いつも一人でいるような子だから。いきなり彼が出来ても、どうしていいかわからなかった。自分から何かをすることはなかったけど、彼の望むとおりにしたし、彼の求めることは受け入れた。どんなこと言われても拒否しなかった。自分で言うのもなんだけど、それなりにいい彼女になれたんじゃないか、って思う。でも彼は別れたいって言ってきた」
なんとなくわかるような気がする。拒絶しない、というのは僕の基本方針と同じだ。自分から何かをすることがない、というのも。
「何がいけなかったの? って訊ねたら、彼、『人形みたいでつまらない』って……。自分が全て否定されたみたいだった。私は今までそうして生きてきたから…」
告白する満潮さんは、少し泣いているようだった。
「ねえ、兄さん? 私は間違っていたの? どうすればいいの? 教えて……」
恭平は黙ってそれを聞いていた。そして少し答えを探すように沈黙したが、やがて力強い声で答えた。
「……それは俺にもわからない。でも、満潮の全てが否定されるわけじゃない。確かに満潮は内気すぎるよ。もっと積極的にならないといけないときもある。でもそんな内気なところだって満潮なんだ。それでいいと思う」
恭平は答えて、慣れない僕の体で満潮さんの隣に移動した。そのまま満潮さんを抱き寄せて、あやす様に髪を撫でる。
「兄さん……兄さん……ううっ……っく……」
満潮さんはきっと自分を表現することに慣れていないだけなのだ。ゆっくりと嗚咽を漏らす満潮さんを、恭平はただじっとあやしていた。
僕のしたことがどれだけのものか、僕には予想もつかない。二人のためになったのか、あるいは全然役に立たなかったのか。たぶん全然役に立ってない気がする。結局根本的な解決にはなっていない。
翌日、花壇の前でベンチに座りながら昨日のことを考えていた。
満潮さんが泣き止んだのは、あれからしばらく経ってから。恭平が憑依してから三十分以上が経っていた。恭平は無事に体から出たが、僕の疲弊は相当のもので、42.195kmを全力疾走したかのようなボロボロの状態だった。実際には走れないけど。
その時の僕の顔は相当酷いものだったのか、満潮さんは救急車を呼ぼうか迷っていたらしい。が、別に肉体的にはなんら問題がないのだ。医学だけで説明がつくなら、幽霊を復活させることも出来るだろう。僕のしたことはそういうことだ。
隣で恭平が心配そうに僕の顔を覗き込んでいる。一晩死人のように眠ったが、生きて回復している。それでもだいぶ顔色が悪いらしい。
「本当に大丈夫か?」
恭平が尋ねてくるのも、今日だけで8回だ。昨日はもっと多かった。
「大丈夫だよ、……たぶん」
あれほど長時間憑依を続けたのは初めてだった。あくまで憑依は最終手段、何度もやっていたらそのうち衰弱死しそうだ。
昼休み、日課として花壇の前に来たものの、花に水をあげるのも億劫だった。
「しかしまあ、君は成仏しないね」
「んー……あいつの悩みは聞けたけど、結局俺のアドバイスがどこまで通じたかわかんないからなぁ。それを確かめるまでは成仏できないだろ」
「それもそうだね。恭平、重度のシスコンだし」
「悪かったな」
まあ悪い意味ではない。僕も栞のことはそれなりに心配している。こんな従兄の面倒見てないで自分の青春送ればいいのに、と。まあ妹ではなく従妹だが、似たようなものだ。
僕の場合は生きているから、栞とも気軽に話せるし、実際に手助けすることもできるだろう。しかし恭平の場合はそうはいかない。ただ話すだけでも僕のような霊媒が必要だし、直接的な介入は出来ない。それだけに心配が増えるのだろう。自分を省みれば、その気持ちもわかる。
「……なあ、祐一」
「ん?」
「満潮と話せたのはお前のおかげだよ。えっと、まあ、その、なんつーか……ありがとな」
その言葉に、少しだけ吹き出してしまう。礼を言うのは苦手らしい。
「どういたしまして」
それから少しぼんやりしていると、誰かが歩いてくるのが気配でわかった。振り向くと、すぐ傍に満潮さんが立っていた。
「こんにちは」
「……こんにちは」
失礼かもしれないが、少し驚きだった。僕と似た性格なので、彼女の方から話しかけてくることは滅多にない、と思っていた。まあ今回がその滅多なのかもしれない。
「昨日はありがとうございました。兄と話せて、うれしかったです」
その言葉にまた少し笑ってしまう。同じことに礼を言うのでも、兄妹でだいぶ違うものだ。その違いが『らしさ』なのだろう。僕にも僕らしさというものがあればいいのだが。
礼を言っただけなのに僕が笑っているのが不思議だったのか、彼女は少し眉をひそめている。
「……ごめん。ついさっき恭平にも同じことを言われたのさ。彼は礼を言うときはこっちを見ないでそっけないけど」
「兄らしいです。……今もそこにいるんですか?」
「ああ。その花壇の端に」
満潮さんは花壇のほうへ目を向ける。そこに恭平の姿を見ることはできないだろう。少し残念ではあるが、それが普通だ。
だが満潮さんは花壇へ近づいていった。花壇の土を見て、呟く。
「乾いてます。水、あげましたか?」
「いや、まだあげてない。確か土日もあげてないな」
学校自体が休みだったからなぁ、と心の中で弁解する。僕は園芸部員ではないので、休日に学校に来てまで花に水をあげるほど、花が好きではない。
だが彼女は怒ったように近くにあったホースを取り、蛇口をひねって水を出した。低い位置から優しく水をかけていく。その表情は楽しそうというか、優しいものだ。
「花、好きなんだね」
「ええ。小さい頃、本当に小さい頃ですけど、私は今より内気で家から出ない子だったんです」
ちょっとだけ想像してみる。意外と簡単に想像できた。
「そんな私に、いつも兄さんが花を持ってきてくれたんです。花束なんて格好いいものじゃない、道端に咲いてるような小さな花ですけど。それを部屋に飾るのが楽しみでしたね」
ブラコンだったんですよ、と小さく付け加える。
「……そうなのか?」
彼女の隣に移動して立っている恭平に尋ねてみる。
「ああ、言われてみればそんなこともあったような……。でもそれ、確か小学生か幼稚園の頃だぜ」
「……兄は覚えてなかったでしょう?」
まるで聞いていたかのように、満潮さんは言い当てた。僕のポーカーフェイスも鈍ったのだろうか。僕が頷くと少しだけ彼女は微笑んだ。
「なんとなくわかります。昔のことですし、兄もそんなに大したことをしたとは思ってないでしょう。それに……」
「それに?」
「血を分けた兄ですから」
なんともわかりやすい理由だ。
「でも、いつまでも兄さんに頼ってばかりもいられませんよね」
そう言うと水を止めて、満潮さんは恭平を…恭平のいる場所を見つめた。
「ねえ兄さん。きっと私、兄さんの心配しないような子になるわ。それができないなら、そうね、きっと心配いらないくらい頼りになる男を見つけてやるんだから」
「満潮……」
「だから、それまでは……見守っててね」
「ああ。心配がいらなくなって成仏するまで見守ってる」
恭平がそういうと、聞こえていたかのように満潮さんは微笑んだ。
兄妹だから……それだけでなく、きっと信頼しあっていたのだろう。少しだけ、そういう関係が羨ましく思えた。僕も栞とそういう関係が築けるだろうか?
ふと、満潮さんが僕へと目を向ける。
「神崎先輩。さしあたって彼女がいないなら、どうです?」
「……え?」
「おいおいおいおい待て待て待て待て! こいつだけは絶対にダメだ!!」
その時の僕の顔も間抜けだっただろうが…恭平の動揺は面白かった。これは兄妹というより、娘が結婚をほのめかした時の父親の反応だ。見ていて面白いくらいに表情を変えて動揺している。
その様子がおかしくて、僕は思い切り吹き出してしまった。
「ははっ! 動揺しすぎだろう、恭平。くくっ」
僕が笑うと、なんとなく恭平のリアクションがわかったのだろう。満潮さんもくすくすと笑っている。
「ふふ……冗談です」
「当たり前だ! こいつに『お義兄さん』なんて呼ばれたくないぞ!」
「僕も恭平を『お義兄さん』とは呼びたくないね」
言い合っているうちに、予鈴がなる。そろそろ昼休みも終わりだ。
満潮さんは笑いが収まると、僕に小さく会釈をした。
「それでは先輩、失礼します」
「ああ。……たまには恭平に会いに来てやってくれ」
「はい。またね、兄さん」
僕のしたことがどれだけのものか、僕には予想もつかない。二人のためになったのか、あるいは全然役に立たなかったのか。たぶん全然役に立ってない気がする。結局根本的な解決にはなっていない。
それでも何かが変わったと思いたい。僕が境界線から出て、何かを変えられたのだと――
彼の世と此の世の境界 おでん @odenden
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