21】沢瑠璃さんのお母さん -2
けれど、こういうときにかぎってスマホに届くのが母からのメールだった。
『帰り、お風呂の洗剤買ってきてくれない?』
下駄箱に下履きを押し込んだタイミングで届いたメールに、僕は「またか」とため息をつく。母は、なぜか風呂洗いの洗剤だけをよく買い忘れる。
母が言うには、わたし風呂洗いが苦手だからその潜在意識が買い忘れさせるのよ、洗剤だけに。
それを聞いた僕は静かに自分の部屋へ戻ったものだった。
そんな過去のにがい思い出はとにかく、言ってくるタイミングもいつも切れたのが分かってからなので、面倒くさがることもできない。僕は帰りに寄れるドラッグストアを頭に思い浮かべながら正門を抜けた。
――久しぶりに一人で帰ることでイヤでもはっきり分かったことは、やっぱり沢瑠璃さんがいないと高い所はきつい、ということだった。沢瑠璃さんと一緒なら高い所へ上がるのもなんとか行けたのに、一人で帰りながらつい高い所を見てしまうと視界がくらぁ、となる。沢瑠璃さんがいないとダメなのは、強くなったのではなくただ依存してるだけなんじゃ、とふと気づいて少しヘコんでしまう。
道路の向こうにドラッグストアが見えてくる。今回のような理由でその店を利用するのはもう五回目で、いい加減ポイントカード作ろうかな、と思いつつ店内へ入る。
五回目の利用なものだから、洗剤の場所はすぐに分かった。棚を見ると今までなかった詰め替え用が出ていて、迷わずそちらを手に取る。後でこの代金は母に請求できるけど、僕も母もたまに忘れるときがある。それの被害軽減策だ。なかなか冴えてるな、と自画自賛しながら、僕はほぼ同じタイミングで近づいてきていたおばさんの前に入って、共に支払い中のレジのうち右側へと並んだ。
――僕は、あとで気がつくことになる。
母からの買い物の依頼があったこと。このドラッグストアを選んだこと。詰め替え用を迷わず選んだこと。二つあるうちの右側のレジを選んだこと。おばさんの前にレジへ並んだこと。その全部はただの偶然だった。けれどその偶然たちが連なり僕をこのタイミングでこのレジに並ばせていなければ、これまでに起こってきた出来事はこれでたぶん終わっていたということに。
僕は鞄から財布を出して必要な金額を抜きだしながら、支払いが始まったばかりの前のお客の手元をふと盗み見た。
もうビニル袋には入っているもののちらっと見えたそれはたしか風邪薬で、風邪というとお風呂で寝てしまって風邪をひいたという沢瑠璃さんのことが思いだされる。
そう言えば、なにかのテレビでお風呂で眠くなるのは実は眠くなってるのではなく気絶しかかってる、と言ってたのを思い出す。……まあ、どちらにせよ危ないから次沢瑠璃さんに会ったら注意しよ、と考えながら僕は手元の財布に視線を落として……
「!」
視界をかすめたあるものを認識した瞬間、僕は軽くめまいがする勢いで顔をあげていた。
たしかに軽くめまいがしたし、それはすぐレジのおばさんに回収された、でも脳に焼きついたその映像は間違いがなかった。
支払い中の前のおばさんはクレジットカードで支払いをしていた。クレジットカード支払いで必要なものはレシートへのサイン。僕が間違いなく見たのは、そのレシートに書かれたサイン――『沢瑠璃』という苗字だった。
名前は憶えていない、なにしろ一瞬だったのだから。けれど沢瑠璃という字だったからこそあの一瞬を覚えることができたのだ。
前のおばさんはビニル袋持つとレジから離れていく。
僕はその背中を見つめながら――洗剤とお金を急いで、それこそ叩きつける勢いでレジへと置いた。
今の僕の頭の中を一杯に満たしていたのは、店の出入口へ歩き去っていくおばさんの背中だった。
――あの人は、沢瑠璃さんのお母さんだ!
もし誰かから確証があるのかと聞かれたら、僕は確証以上の確証があると答えただろう。沢瑠璃という超個性的な苗字、それさえあれば他になにも要らない。
そのおばさんが出入口をくぐった、けれど僕もそのタイミングで支払いが終わった。だから買った商品をかっさらうようにして受け取った。レジのおばさんからすればお風呂の洗剤がそれほど急を要するのかと驚いただろうけれど、今の僕には関係なかった。
急いで出入口をくぐると、そのおばさんは一番近くに停められていた車のドアを開けようとしていたところだった。
間髪間に合った!
「あの!」
口にした自分でも驚く大きな声は間違うことなくそのおばさんに届いていた。ドアを開ける手を止め、怪訝そうな表情で僕の方へ振り返ってきた。
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