第六一話 神なんていないお話

 銃声を聞きつけてやって来た感染者たちがマンションの前からいなくなるまで、二日かかった。とはいっても全ての感染者が余所へ行ってくれたわけではなかったので、最終的に僕らが直接処理する羽目になったが。

 貴重な無音武器であるクロスボウは狙撃を受けた際後部座席に乗せており、フロントガラスを貫通して車内に飛び込んできた銃弾により破壊されてしまっていた。銃声を響かせれば再び感染者がやって来るため僕らは鈍器や刃物を使って戦わなければならなかったが、そんなことは気にならなかった。僕らには怒りをぶつける相手が必要だった。


 ありあわせの道具で作ったパチンコで僕らとは反対方向に石を飛ばし、地面に落ちた音で感染者たちがそちらに気を向けている隙に一気に近づく。大部分の感染者は他の獲物を探してこの場を離れた後で、道路上をふらついている感染者は三体しか残っていなかった。

 僕らはその三体を、平たく言えばボコボコにした。斧で頭を叩き割り、顔の形が変わるまで何度も蹴りつけ、死んでいるのがわかっているにも関わらずなおも殴り続けた。僕だけでなくナオミさん、そして結衣までがその行為に加わっていた。


 僕らはやり場のない怒りを、感染者にぶつけていた。愛菜ちゃんを殺したのはあの狙撃手だが、その青年は既にナオミさんによってあの世に送られている。この手で直接報復が出来なかったという悔いが怒りに変わり、この二日間僕らの中に溜まり続けていた。もしも狙撃手が生きていたのならば、僕らは考え得る限りの残酷な方法で彼を嬲ってから殺していただろう。


 しかしいくら後悔したところで愛菜ちゃんが生き返るわけでもなく、こうやって感染者の身体を文字通り破壊してもその事実が変わるわけでもない。戦っている間は怒りに身を任せてられたものの、終わった後に残ったのは虚しさだけだった。



 感染者は生きている人間しか食わないが、他の動物はそうではない。僕らがあのマンションに篭もっている二日の間に、たくさんの動物が愛菜ちゃんの身体に群がっていた。

 感染者を倒した後、今やスクラップと化した僕らが乗っていた車に向かうと、そこには凄惨な光景が広がっていた。愛菜ちゃんの遺体は腹を空かせた動物たちに食い荒らされていた。


 銃声を聞きつけた感染者たちがやって来る前に身を隠したかった僕らは、車から武器や物資を持ち出すのに手一杯で、愛菜ちゃんの遺体を移動させることが出来なかった。ワゴン車の陰に隠れた僕に向かい、手を伸ばしたままの状態で死んだ愛菜ちゃんの身体は、この二日間ずっとそのままにされていたのだ。


 カラスに啄まれたらしく、体内を貫通した銃弾の出口である射出口はさらに広がっていた。背中に空いた拳が入りそうなほどの穴は彼女に致命傷を与えた銃弾によって出来たものだが、その穴から細い内臓らしき物体がはみ出している。カラスか何かが傷口に頭を突っ込んで、引っ張り出したらしい。

 撃たれて千切れかけていた腕は、どこかに消えていた。野良犬が持ち去ったらしく、何かを引きずったような乾いた血の痕が、愛菜ちゃんの身体から数メートルほど伸びていた。

 被弾で破れた衣服は引き千切られ、その下には剥き出しになった赤い筋繊維が覗いている。小学生の細い身体は、動物たちの牙によって見るも無残な姿に変えられてしまっていた。



 しかし俯せで死んだおかげか、顔だけは被害を免れていた。死後硬直が解けた身体をひっくり返すと、ゴムのように腕が力なくだらりと垂れる。顔には乾いた血がこびりついていたが、食われてはいなかった。

 光を失った瞳が僕を見据える。おまえのせいで死んだんだ。そんな声がどこからか聞こえてくるような気がした。


 痛かったのに、苦しかったのに、お前は何もしなかった。

 助けてって言ったのに。

 お前が油断したせいでわたしは死んだんだ。

 そればかりか、最後の最後まで家族が死んだことすら教えてくれなかった。


 愛菜ちゃんの亡霊が僕に語りかけてきているようだった。無論、死体となった彼女が口を開くことは無い。だがもしも幽霊というものが存在するならば、愛菜ちゃんはきっとそう言うだろう。僕のせいで彼女は死んだようなものなのだし、僕は彼女が最期の時を迎えてもなお、本当のことを話さなかったのだから。


「……さっさとやりましょ。あんたはそっちを持って。ナオミさん、毛布をお願いします」


 今まで黙り込んでいた結衣がそう言って、ナオミさんからひったくるようにして毛布を預かり愛菜ちゃんの身体に被せた。そして簀子巻の要領で彼女の身体を毛布に包むと、頭の方を持つよう僕に指示する。


 結衣は、変わった。少なくとも僕はそう思う。

 最初の一日、彼女は延々と泣いたままだった。そして二日目には泣き止み、それから彼女の涙を見ていない。こうやって愛菜ちゃんの遺体と再び対面した今ですら、結衣は黙ったままだった。


 彼女が仲間の死に涙も流さない冷徹な人間ではないことを、この数か月行動を共にしてきた僕は知っている。結衣は我慢しているだけなのだ。

 愛菜ちゃんが死んだことで、この三人の中で一番弱い人間は結衣になった。今までは愛菜ちゃんがその役割を担っていたが、それが結衣に移った。

 だから彼女は精一杯気を張って、自分が強い人間であると僕らに見せたいのだろう。僕らを心配させないように。


 本当の姉妹のような仲になっていた愛菜ちゃんが死んで、悲しくないはずがない。この三人の中で、一番愛菜ちゃんを可愛がっていたのは結衣だ。結衣は今まで愛菜ちゃんを助けようと、必死に頑張って来た。

 しかし今の結衣からは、そんな雰囲気は微塵も感じられない。愛菜ちゃんを包んだ毛布の先端を持ち、先に立って進む彼女の背中からは、触れたもの全てを壊してしまいそうな殺気が放たれている。

 ある意味、彼女もこの世界に適応してしまったのかもしれない。



 愛菜ちゃんの遺体は、マンションのすぐ脇にある小さな公園に埋めることにした。マンションで見つけた折り畳み式のスコップで地面を掘り返していると、一体何をやっているんだろうという疑問が頭に浮かぶ。

 大勢の人が死んでいて、その死体は誰にも弔われずに放置されたままだ。それなのに今さら一人だけ埋葬することに、なにか意味はあるのか? せめてもの償いと自分に言い訳をするためか?

 僕が殺した人々の死体も、弔われる事無く放置されたままだろう。彼らもある意味僕のせいで死んだのに、愛菜ちゃんだけ埋めるのは不公平ではないか?

 死体なんて今やただのもの、肉の塊でしかない。死者が生者よりも少なかった時代には、人の死を悼む意味はあっただろう。しかし今では生きている人間の方が少ないし、外に死体が転がっているのも当たり前の光景になった。それなのに親しかったという理由だけで、死者を弔う必要があるのだろうか?

 僕だって父さんと母さんの死を悼むことも、遺体を埋葬してやることも出来なかった。二人の遺体は今も死体と肉片が散らばるあの学校の一室に横たえられたままだ。


 だが、こうすることで僕は自分の犯した過ちを忘れることは一生ないだろう。僕のせいで愛菜ちゃんは死んだ。その事実を心に刻み付け、二度と同じ過ちを犯さないようにするための儀式として、僕は彼女を埋葬するのだ。それが僕にとっての、愛菜ちゃんを弔う意味なのだろう。



 人一人が入るほどの深い穴を木の脇に掘り終え、毛布に包んだ愛菜ちゃんの遺体を底に下ろす。そして今度は掘り返された土の山を、穴に戻していく。

 結衣とナオミさんも、その作業に加わった。涙を流す者はなく、言葉も交わされない。しかし全員が愛菜ちゃんの死を惜しんでいることは、僕にはわかった。愛菜ちゃんの遺体に土をかけていくたびに、結衣の手が震えていた。

 やがて彼女の遺体を包んだ毛布が完全に土の下に消え、土饅頭が出来上がる。墓標替わりにいくつか公園の花壇から煉瓦を引っこ抜いて、その上に置いた。身元が判る書類や写真を纏めて何重にも重ねた袋に入れ、風で飛ばされないよう煉瓦の下に置く。いつか愛菜ちゃんの遺体が発見された時に無縁仏として扱われないようにするためだったが、彼女の親族がどれだけ生き残っているか。少なくとも愛菜ちゃんの家族は、もう全員この世には存在しないのだ。


「ごめんね……」


 結衣が一言呟き、僕らに背中を向けて一人マンションへ戻っていく。


「こういう時って、アメリカじゃどうするんです? 死者に何か言葉をかけたりとかするんですか?」

「牧師とか神父が来て聖書を読んだりする。でももう、私は神を信じてない。世界がこんなになって、何の罪もない子が殺されても、未だに救いはないんだから」

「……僕たち、何のために生きているんでしょうね?」


 唐突に、昔母に連れられて行った近所の教会を思い出した。近所づきあいということで数回行っただけで、そこで行われた説教などはほとんど覚えていない。あの教会も、きっと火事で焼けてしまっただろう。

 誰でもいいから助けてほしかった。僕を苦しみから解き放ってくれるのであれば、邪教の神様だろうが信仰してしまうかもしれない。しかし未だに、僕に救いを与えてくれるものはいない。

 僕の問いにナオミさんは「さあ」とだけ答え、マンションへ向かって歩き出した。最後に愛菜ちゃんの墓を一瞥してから、僕も彼女の後に続いて歩き出す。


 多分ここに来ることは、もう二度とないだろう。




「そういえば、その銃はもう慣れた?」


 二人でマンションに戻る途中、ナオミさんが僕の手にしたM1A自動小銃を指差した。この二日間、僕らは無駄に時間を過ごしていたわけではない。マンションの部屋を漁って物資を確保したり、新しく見つけた武器の扱い方を覚えたりしていた。

 自動小銃は今まで持っていたクロスボウや散弾銃、狙撃銃よりも重かった。僕の腕では数百メートル級の狙撃なんて無理だし、邪魔でしかないのでスコープや二脚を取り外しても、自動小銃はなおも重かった。しかし一々ボルトハンドルを操作せずに銃弾を発射できるため、僕はこの銃を持つことにした。


「ええ、なんとか。でも長いから、屋内では取り回しが悪そうですけど」

「そのためにソードオフ……散弾銃の銃身を短くした武器を作ろうかと思ってる。鋸さえあれば簡単に出来るし、散弾銃自体はあの部屋で何丁も見つけたから」

「弾を補充出来たのもありがたかったですよね。車はどうします?」


 あのマンションは立て籠もるには魅力的な場所だったが、その提案をする者は僕も含めて誰一人いなかった。肝心の隣接するスーパーには物資がほとんど残っていなかったこともあるし、なにより愛菜ちゃんを殺した狙撃手がいたあのマンションに、一秒でも長いしたくはないという思いがあった。


「駐車場で一台、ハイブリットのワゴンを見つけた。ガソリンは入ってなかったけど」

「僕らが乗ってた車から移しましょう。あと、ガソリンスタンドにも残ってないか確かめないと」


 どうやらあの狙撃手は、マンションから移動するつもりはさらさらなかったらしい。駐車場に停められていた車はどれも埃を被っていて、燃料が補充された形跡もなかった。あの狙撃手は、あの部屋を自分の死に場所だと定めていたのだろうか?

 そんなことを考えていると、ナオミさんが小さく笑った。


「さっきまではマナを埋葬してたのに、今じゃ明日を生き延びるために武器や車の話をしている。なんなんだろうね、私たちは?」

「さあ……」


 確かに愛菜ちゃんの死は悲しいことだ。だからといって、悲しみに暮れているだけでは僕らもたちまち死者たちの仲間入りをしてしまう。言い方は悪いが、今は死者に構っている時間は無い。心の中で愛菜ちゃんの存在感がどんどん小さくなっていくことに、僕は気づいた。


「さっき、何のために生きてるかって言ったよね? 私の答えは簡単、死にたくないから生きてるだけだよ。私はまだ死にたくない、生きてアメリカに戻って家族に会う。だから私は生きてる。君は何のために?」

「僕は……」


 そこで、何も答えられない自分に気づく。

 僕にはもう、帰る家も出迎えてくれる家族もいない。親しい友達も何もかも、感染が始まった時に失ってしまった。

 死にたくないから生きる。それは同じだ。だけどナオミさんのそれと、僕のでは意味が全く違う。ナオミさんはまだやりたいことがあるから死にたくない。だけど僕は、生物が持つ当然の本能として死にたくないと思っているだけだ。生きて何かをやりたいという、積極的な考えではない。


 僕はいったい、何のために生きているんだろう?

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る