第一一.五話 大脱出のお話

 布団を叩く音をさらに大きく重々しくした轟音と共に、頭上を一機のヘリコプターが飛び去っていく。あれは確かブラックホークという自衛隊のヘリだったか。以前所謂「ミリオタ」である友人が、そのヘリコプターが撃墜される映画のDVDを貸してくれた。

 そこでふと、自分が夢を見ている事に気づく。僕は以前、これと同じ光景を見たことがあった。この数ヶ月、鳥や虫以外に空を飛んでいるものを見たことがない。ならばこれは夢だろう。夢の中で自分が夢を見ていることがはっきりわかっているなんて少し変な気分だが、かといって目が覚める事も夢の中で自分の思った通りに体を動かすことも出来ない。目が覚めるまで、僕はこの光景を見続けるしかなさそうだった。


 南へ向けて飛んでいくブラックホークヘリの機体を、赤々と燃える炎が明るく照らし出す。街からはいくつもの火柱が立ち上り、夜空をまるで夕焼けのように真っ赤に染めているが、火事につきものの消防車のサイレンは聞こえない。代わりに響いてくるのは連続した銃声と爆発音、ヘリコプターのローター音にジェット機の轟音。そして人の悲鳴だった。

 視線が下に下がり、僕の前を歩く一家が視界に入る。親らしい30代半ばほどの男女と、娘らしい10代前半の少女。彼らは背中に大きなリュックを背負い、両手にはパンパンに膨れた鞄を提げ、無言でひたすら歩き続けていた。


『この先500メートルの地点にヘリポートがあります。落ち着いて秩序を乱さず、まっすぐ進んでください!』


 拡声器を通し少し割れた声が聞こえてくる。声の方を向くと濃緑色と茶褐色に塗り分けられた装輪装甲車の上で、拡声器を持った迷彩服姿の自衛隊員が道行く人々に呼びかけていた。まるで震災か何かで避難する人々を誘導する自衛隊員、といった光景だが、彼らが手にする自動小銃がただならぬ事態である事を告げている。装甲車の屋根にも大きな重機関銃が据え付けられており、その銃口は僕達が来た道路の先に向けられていた。小銃を手にした自衛隊員らは銃口こそ向けてこないものの、険しい視線を人々に向けいつでも銃を撃てる姿勢をとっている。


 視線を前に戻す。見えてくるのはひたすら人、人、人。誰もが疲れ切っているのか、無言のまま歩いている。時折近くで響く銃声に一瞬身体を震わせ、そして歩くペースを上げて進み続ける。

 ここはまだ安全なのか、多くの人々は前を歩く一家のようにまるで家中の家財を突っ込んできたかのような大きな荷物を持っている。それに対して着の身着のまま手ぶらで歩く人達は少数で、僕もその中の一人だった。


 避難所を逃げ出す時、携帯電話も財布も何もかもを置いてきてしまった。着ているのだって何の変哲もない学生服で、他の人達はジャンパーなどを重ね着しているのに、僕は学ランとセーター、それにワイシャツとインナーだけだ。冬も終わりとはいえまだまだ肌寒く、時折吹く風が容赦なく僕の身体に突き刺さる。


 歩き続けていると前方に、事故を起こした乗用車が見えてきた。電信柱に突っ込んでひしゃげたワンボックスカーのフロントガラスは粉々に割れ、運転席に人の姿は見えない。その数メートル先には、衝突した時の衝撃で外に放り出されたのか、全身が奇妙にねじ曲がり血塗れの人が転がっていた。シートベルトをしていなかったのだろうか。どちらにしても、その人はピクリとも動いていない。


「ひっ……!」


 前を歩く母親が、もはや赤いボロ雑巾のようにしか見えないその人を見て顔をひきつらせる。父親は素早く娘がR18指定確実な光景を目撃しないよう、素早く彼女の目を両手で覆った。

 何人かは耐えられなかったのか、背後から吐瀉物がアスファルトにぶちまけられる湿った音が聞こえてくる。だがそれもすぐに遠ざかっていき、僕は血だらけの死体の脇を素通りした。

 これより酷い光景なら、避難所になっていた学校で何回も見ていた。



 道路をさらに進むと、運動公園と書かれた看板が道路の脇に立っていた。それと同時に視界に入ってきたのは道路を塞ぐようにして停められた数台のパトカーと、多くの警察官達の姿だった。制服に機動隊の出動服、中には刑事なのかスーツ姿の男たちもいたが、共通しているのは全員の腰に拳銃が下がっている事である。普段テレビで見る機動隊はジュラルミンの盾しか持っていないのに、僕達の目の前にいる隊員の中には短機関銃を携えている者もいた。


「止まらないでください、焦らないで。きちんと順番を守って進んでください」


 制服姿の警官が、誘導棒を運動公園の方へと指し示す。赤い光が目に痛い。


「この先に検問所が設置されています、怪我をした方はそこから先へは進めません!繰り返します、怪我をしている方は……」


 隊員が呼びかけるが、人々が顔を上げる事はない。何人かが一瞬身体を震わせるのがわかったが、かといって僕にはどうする事も出来ない。下手に動けば一瞬で射殺されそうな張りつめた殺気が、周囲には漂っていた。


「荷物は一人一つまでとさせていただきます! 出来るだけ多くの方を避難させるための措置です、ご協力をお願いします」


 警官が声を張り上げる中、車両の侵入を阻止するためか二車線ある道路に互い違いになるように停められたパトカーの間を通り、さらに進む。脇を通り過ぎる時に制服警官の顔を一瞥したが、その顔は緊張に張り詰められていた。だがその表情に、恐怖の感情が混ざっている事に僕は気づいていた。




 少し前からテレビを賑わしていたアフリカ発の謎の感染症は、あっという間に世界を席巻し日本へと上陸した。飛沫感染するその未知のウイルスに感染した人間は理性を失って凶暴化し、他者を襲うようになる。

 その感染者が日本で確認されてから、まだ三日しか経っていない。事前に立てられていたどんな計画も、予想以上の感染力と感染スピードの前にあっけなく崩れ去った。ネズミ算式に増えていく感染者は、今や日本中に発生していた。

 政府は既にウイルスの封じ込めを諦め、未だ感染が発生していない地域、例えば離島や人里離れた場所、あるいは洋上の船舶へと生存者を避難させる方針に切り替えたらしい。既に自衛隊も治安出動しているが、元々近年の防衛予算の縮小の煽りを食らって人数が少ない上に、全国で同時多発的に爆発的に増殖していく感染者には上手く対応出来ていないようだった。


 僕が今向かっている運動公園は臨時のヘリポートに指定され、そこで自衛隊が洋上の艦船へと生存者をピストン輸送していた。日本どころか世界中で感染者が増殖している中どこへ避難しようというのかわからないが、それでも死ぬのを少しばかり遅らせられるのは間違いない。だから僕は途中で拾った壊れかけの携帯ラジオの、これまた数時間おきに自動音声で読み上げられる避難所情報を頼りにここまで来たというわけだ。既にテレビはスタッフが全滅したのかあるいは送信施設が無人になったのか映っていないし、そもそもテレビを見ようにも停電している。ラジオはまだ頑張っているが、放送が止まるのも時間の問題だろう。


 停電によって暗闇に包まれていた街は、人々が逃げようとした際に発生した事故によってあちこちで火災が発生していた。街では自衛隊が感染者の掃討作戦を続けているのか激しい銃声が聞こえてきているが、次々増えていく感染者を殲滅するのは不可能であるのは僕ですらわかる。こちらの戦力は減る一方なのに、感染者は続々と増えている。感染者を一気に全滅させるには、それこそ爆撃か何かで街を焼き尽くすしかない。



 再びヘリのローター音が聞こえてくる。僕も含めた人々が目線を上げると、大きな機体の前後にローターを装備した輸送ヘリが運動公園へと降下していくところだった。それを見た人々は早くここから逃げたいという想いに駆られたのか、前に並ぶ人を押し退けたり列に割り込もうとして警官に制止される。皆余裕を無くしているのか、押した押さないの口論が殴り合いにまで発展し、機動隊員が彼らを引き離してどこかへと連れて行く。


 そこには災害時でも秩序を保って行動する、海外でも賞賛された日本人の精神は欠片もなかった。当然だ。地震や台風は人間を追いかけて殺そうとはしないが、感染者は人間の姿を見かけたら見失うまで追ってくる。もし追いつかれたら喰い殺されるか、運が悪ければ連中の仲間入り。そんな事が日本中で起きているのに、わざわざ列に並んで避難しようという人は少ないだろう。皆今すぐここから逃げたいはずだ。


 運動公園の入り口に設けられた検問所らしいテントが、並んだ人々の頭の隙間からようやく見えてくる。それと同時に列が進むペースが一気に落ちた。高速道路などでもそうだが、検問所で色々調べられる分時間が掛かるのだろう。


「君、そこの君!」


 若い女性の警官がこちらを向いて何か叫んでいる。誰を呼んでいるんだろうと周囲を見回したが、他の人達も僕と同じようにキョロキョロしているだけで、誰も警官のところへ行こうとしない。痺れを切らしたのか、警官が走ってきた。


「そこの学生服の少年!」


 学生服? 列の前後を見たが、学生服を来ているのは僕だけだ。という事は、彼女は僕を呼んでいる?


「あの、何でしょうか?」

「避難する時に危ないから、その棒を渡してくれる?」


 そこで初めて、僕は今まで右手に鉄棒を握ったままであった事に気づいた。学校から逃げ出す時に入手した長さ50センチほどの鉄筋は、長い間握られっぱなしだったせいかかなり温もりを放っている。


「あ、はい。すいません」


 避難民が暴れたりして警官達に危害を加えないようにするためなのだろう。見れば列のあちこちで、僕と同じように警官が人々から武器になりそうなものを没収していた。金属バットにゴルフクラブ、中には日本刀らしきものまで。


 同時に多くの人を運ぶために、荷物の没収も始まっている。さっきここに来る途中警官が荷物は一人一つまでと警告していたが、皆どうせ没収されるわけがないと高をくくって無視していたのだろう。あちこちで警官との言い合いが始まっている。家を出る時に全ての貴重品や衣服など財産や必需品を持ち出してきたであろう人々にとって、荷物は文字通り今後の命の糧に違いない。それを捨てろと言われて大人しく従う事が出来ないのは当たり前だが、彼らが自分のために多くの荷物をヘリに持ち込めば、その分避難出来る人間も減る。

 僕の前にいた一家も、機動隊の隊員に荷物を捨てるよう言われて言い争いをしていた。だが「荷物を捨ててヘリに乗るか、ここに残るか」の二択を突きつけられ、荷物を隊員に投げつけるようにして渡した。


 僕はといえば近づいてくる女性警官の手が腰のホルスターに掛かっていたので、素直に鉄筋を渡す事にした。わざわざいざこざを起こす必要はないし、ここには強力な武器を持ち訓練を積んだ自衛隊もいる。僕が武器を持っていなくても、彼らが戦ってくれるだろう。

 ずっと握りしめていたせいで筋肉が変になった右手は動かしづらく、もどかしいので左手で右手から鉄筋をすっぽ抜いて警官に差し出す。僕が大人しく武器を渡したことにほっとした表情を見せた彼女は、次の瞬間差し出された鉄筋の先端を染める血とこびりついた肉片を見て顔をひきつらせた。


「……ご協力、感謝します」


 そそくさと戻っていく女性警官は、まだ感染者を殺したことがないのだろうか? だが僕は避難所が襲撃されてからここにたどり着くまでのこの三日間で、数体の感染者の頭をさっきの鉄筋でかち割っていた。



 殺した感染者の中には、僕の両親も入っている。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る