五ノ章

「なぁ、変じゃねえ?」

「そ、そんなことないですよ。とってもよくお似合いです」

 仕立ての良い三つそろいのスーツを、確かに栄太郎は違和感なく着こなしていた。髪もきれいに整えられ、ぐっと男前が上がっている。やはり、彼は名家の当主なのだと実感する。

 村の中ならいつもの格好で十分だが、さすがに日本キリスト教会の会合に出るとなると、そうもいかない。帝都の震災への対応について、話し合われるらしい。車でも往復で半日かかるため、今夜は外泊になる。

 今までの彼なら、金谷に任せてしまうところだが。

「ま、いつまでも、金谷に頼ってばかりはいられないしな」

「――そうですね」

 研究が一段落したことが、そう思う切欠になったに違いない。金谷も一安心だろう。

「でも、俺達がいなくて、大丈夫か? 確かに、あれから何も起きていないけど――」

 そう。

 栄太郎が、指を落とす落とさないの大見得を切ったあの日以来、なぜかチヨへの脅迫は、ぴたりと止んでいた。そうでなければ、彼女を残して屋敷を空ける訳にはいかなかっただろう。

「だ、大丈夫ですよ、絹さんもいますから」

「ご安心下さい、チヨちゃんに手出しはさせません。屋敷に来やがったら、それこそ包丁で指を切り落としてやりますよ」

「ひゅう、おっかねえ~。チヨ、絹さんがやり過ぎないように、見張っててくれよ」

 笑い声が響く。ついこの間、あんなことがあったばかりとは思えない、それは安らかな一時。

 少なくとも、チヨはそう思っていた。

「でも、どうして脅迫を止めたんでしょう? その――誰かは」

 だから、その疑問を口にしたのも、ただ、何となくだった。

「ひょっとしたら――見てたのかもな」

 ぴくり。

 ほんの僅か、緊張した空気は――。

「窓の外からさ」

 ――ぎりぎりのところで、持ちこたえた。

「ええっ?」

「もう、ご主人様ったら、チヨちゃんが怯えるでしょ」

「ははっ、冗談だよ。ま、気が変わったんだろ」

 かたかたかた――窓が揺れる。風が出てきたようだ。

 だが、果たしてその風は、外を吹くそれであったかどうか。

「ご主人様、お車の支度が整いました」

「ああ、今行く」

「あの、栄太郎さん、その――」

「ん? どうした」

 急にもじもじし始めるチヨ。絹にうながされ、布包みを栄太郎に差し出す。

「チヨちゃんがね、お弁当を作ってくれたんですよ」

「へえ」

「き、絹さんみたいに、上手にはいきませんでしたけど――」

「ありがとうな。楽しみにしとくぜ」

 手渡す際、彼の手が触れて、チヨは落っことしそうになるのを、必死で堪えたことである。

 そんな微笑ましい様子を、絹は慈母の如き笑顔で見守って――。


「よいのか」


 金谷の囁きに、絹の笑顔は――。

「何がです?」

 ――ぴくりとも揺らがなかった。

 二人を乗せた車が出発する時も、彼女はそのままの顔で見送っていた。


 *


 がたっ――。

 風に揺れる窓に、びくりと肩を震わせる。

 夜の屋敷はひっそりと静まり返って、普段は気にならないような物音も、やけに大きく聞こえる。やはり、住人が二人もいないせいか。

 正直、不安がないではないが、せっかく栄太郎が過去を振り切って、前進しようとしているのだ。その足を引っ張りたくはなかった。一晩だけの辛抱だ。

(大丈夫よ。あれ以来、何も起きてないし――)

 きっと、脅迫者は諦めたのだ。万が一、そうでなかったとしても、しっかり戸締りしたし、絹もいる。何も手出しできやしない。そう言い聞かせて、栄太郎が貸してくれた〈グリム童話集〉に目を戻そうとした時だった。

「――――?」

 チヨは思わず、犬のように鼻をうごめかせた。

 とても、美味しそうな香りが漂ってきたのだ。

(絹さんが、お料理してるのかしら――こんな時間に?)

 そろそろ、真夜中になろうかという時刻である。無論、夕食は済んでいる。

(明日の準備かしら。こんな時間まで大変だなぁ)

 それなら、何か手伝いをと思い、厨房へ向かうと、予想通り、明かりが点いている。

 覗いて見ると、絹は鼻歌を歌いながら、鍋の中身をき混ぜていた。

「絹さ――」

 声を掛けようとして、一瞬躊躇う。

 彼女の後姿に、突拍子もない連想をしてしまって。

 真夜中に、一人でこっそり鍋を――そう、まるで、さっきまで読んでいた、グリム童話に出てくる魔女のような――あの中身は、きっと恐ろしい毒薬で――いひひとゆがんだ笑みを浮かべながら――。

「あら、チヨちゃん。まだ起きてたの?」

 等と言うのは、無論妄想だった。振り返った絹は、いつも通りだったし、鍋の中身も香りで分かる。西洋出汁を煮ているのだ。

「え、ええ、何かお手伝いしましょうか?」

「ウフフ、大丈夫よ。もう、あらかた終わったから。待ってて、何か温かい物でも出すわ」

(あ、あはは、何を考えていたのかなんて)

 口が裂けても言えないと思った。

 温めた牛乳に口を付けながら、しばらく取り留めのない話をした。

(はぁ、それにしても――)

 話の合間に、内心溜息を吐くチヨ。

(同じ女で、こうも違うものかしら――)

 何回見ても、そう思わずにはいられない。帝都の劇場に立っていても、彼女なら全く違和感はないだろう。神様は慈悲深い御方だそうだが、公平であるとは、どうしても思えないチヨだった。

「そう言えば、もうすぐですね。村のお祭」

 自然に、話題はそのことになる。

「やっぱり、出ることにしたの?」

「――はい」

 小さく、しかしきっぱりと、チヨは答えた。

「せっかく、栄太郎さんが誘ってくれたんですもの」

 今や、彼女にとって祭は、授賞式か何かに等しい重みを持っていた。誰にどう妨害されようが、諦める訳にはいかない。

 それは、生まれて初めて、彼女が決めた覚悟だった。

「そうね――うん、心配いらないわよ。ご主人様や、金谷さんも一緒なんだから」

 頷きかけて、チヨは首を傾げた。

「え? 絹さんは出ないんですか」

 村人全員が参加すると聞いていたのだが。仕事の予定でもあるのだろうか。

「ええ、私には、お祭――」

 絹の声が、ほんの微かに――。

「――“祭”に出る資格がないから」

 ――低くなった。

「資格?」

 そんなものが必要だなんて、初耳だった。なにせ、村人ですらない自分だって、参加できるぐらいなのだ――それを、よしとしない輩はいるものの――。なのに、れっきとした村人である絹が、なぜ?

「ねえ、チヨちゃんのお父さんは、いい人だった?」

「え?」

 突然、脈絡のないことを聞かれて戸惑う。

「え、ええ、まあ。頑固者で、たまに困らされることはありましたけど――」

「そう――羨ましいわ」

 絹は、そっと顔を伏せた。彫りの深い顔立ちを、暗い影が彩る。

「私の父親は、そりゃあどうしようもない男でね。ろくに仕事もせずに、お酒飲んじゃあ、お母さんや私に当り散らして――本当に、お母さんも、あの男のどこが良くて結婚したのかしら」

 思いもかけない告白に、チヨは胸を突かれた。

「お母さん、とうとう我慢できなくなって、村を出て行ってしまってね。残された私は、前にも増して、父親から暴力を受けるようになったわ。本当に、毎日が地獄のようだった――」

(絹さん――)

 想像もしなかった。彼女がいつもの笑顔の下に、そんな悲しい過去を隠していたなんて。ああ、でも、だからなのか。僅かに隠し切れない暗さが、あの神秘的な雰囲気を、彼女に纏わせていたのか。

「いっそ、死んでしまおうかと思っていた矢先に、石守家が救いの手を差し伸べて下さったの。女中にならないかって。父親は渋ったけど、石守家には逆らえなくてね。ようやく私は、あの男から解放されたのよ」

「そうだったんですか――」

「今でも、よく覚えてるわ。ご主人様に――いや、当時は坊ちゃまだったけど」

 一転して、微笑みがその顔から影を払う。

「安心しろ、俺が悪い親父から守ってやるからなって、大真面目に言われて――。嬉しいやら、可笑おかしいやらで、何年かぶりに笑ったわ。まるで、お姫様を助けに来た王子様みたいだった。随分、ちっちゃな王子様だったけどね」

(そうか、この人も――)

 自分と同じだったのだ。石守家の好意で地獄から救い出され、栄太郎の励ましで笑顔を取り戻した。

 嫁にも行かずに女中を続けているのは、その恩返しなのだろう。

 ――等と、しみじみしているチヨは、首を傾げるのを忘れている。

 絹はなぜ、そんな告白をするのだろうと。

 今、このタイミングで。

「石守家の皆さんには、本当に感謝してるわ――けど」

 チヨは、まだ気付いていない。

 絹の笑顔が、石膏像のそれのような、がちがちに強張ったものだという事に。

「残念ながら、すでに手遅れだったのよね――」

「え?」

「石守家が迎えに来てくれる、一週間ぐらい前からかしら――あの男がね」

 がたがたがた。風が窓を揺らす。あたかも、絹をとがめるように。よせ、少女に聞かせるような話ではないと。

 しかし、彼女は意に介さずに――。

「毎晩、私の寝台に入ってくるようになったの」

「は、はあ」

 絹の言葉を、チヨは思わず、つるりと飲み込んでしまった。意味を深く考えずに、それはまた、随分と子離れのできないお父さんだなあぐらいのつもりで。

 ぎょっとしたのは、一瞬後だった。

「――――え!?」

 絹が女中になったのは、六年前だと聞いた。しかし、彼女は当時、すでに十代後半だろう。そんな歳の娘が寝ているところに、毎晩父親が入ってくる?

 何だ、自分は今、何を飲み込んだのだ。

「信じられる? 仮にも父親が、実の娘にそんな仕打ちをするなんて――」

(あ――あ――)

 ようやく気付く。腹の中を這いずり回っている、おぞましい感触に。

「あの男にとって、私は娘じゃなかった。自分を捨てた、憎い妻の分身だったのね。私に覆い被さりながら、言ってたわ。お前も、ここを出て行くんだろう、俺を捨てる気だろう、そうは行くか、逃げられないようにしてやる――」

 なぜだろう。歌うかのような、楽しげな口調で、絹は続ける。

「今でも覚えてるわぁ、あの男の放った汚いものが、どろどろと体の中に注ぎ込まれる感覚――そうよ、私は汚れてるの。私の血には、あの男の汚れが溶け込んで、今も全身の血管を巡ってるのよ――ああ、汚い。何て汚い、私」

(そんな――)

 自分の容姿を、ちっとも鼻にかけない、確かに謙虚な人だとは思っていた。だが、まさか、自分のことを、そんな風に思っていたなんて。

 汚い、等と。

 この人も、自分と同じ?

 違う。この人は、そう、手遅れだったのだ。

 今も、その魂は地獄に囚われたままなのだ。

「もう、分かったでしょ? なぜ、私が“祭”に出られないのか。当然よ、神様がお許しになるはずないわ。実の父親に~~された、汚らわしい犬畜生の私が、聖なる“祭”に出るなんて。ウフフ、だから私は、一人寂しくお留守番――」

 それはおそらく、絹の中にしかない掟。しかし、彼女にとっては、絶対の禁忌なのだろう。

 私は汚れている。だから、“祭”に出る資格などない――。

「き、絹さんは汚れてなんか――」

 ようやく絞り出した、チヨの言葉は。

「そう言えばチヨちゃん、ご主人様に〈グリム童話集〉を借りてたわね」

 またしても飛び出した脈絡のない話題で、華麗に弾かれた。

「白雪姫はもう読んだ?」

「は、はい――」

 操り人形のように頷くしかないチヨ。糸を握っている絹の思うがままに。

「白雪姫の美しさに嫉妬したお妃が、殺してしまえと召使いに命令する場面があるでしょう? 原典ではね、お妃がした命令はそれだけじゃなかったの。殺した後、心臓を抉り出して、持ち帰れって言うのよ」

「し、心臓を――!?」

「結局、白雪姫を殺せなかった召使いは、代わりに猪の心臓を持って帰るんだけど、お妃はそれをどうしたと思う? ――食べちゃうのよ。バターで焼いて、ぺろりとね」

 かたかたかた、鍋の蓋が鳴り始める。西洋出汁が、温まってきたのだ。

「何だって、そこまでしたのかしら? 私は、こう思うの――心臓って、命の源ってイメージがあるじゃない? お妃はそれを食べることで、白雪姫の清らかさを、我が物にしようとしたんじゃないかしら。まさに、一石二鳥って訳よ」

 チヨは声もない。

 ぴきぴきぴき――。

 絹の顔を覆う彫像の笑顔に、無数のヒビが入り始めているのに気付いて。

「さあて、そろそろいいかしら」

 絹は鍋の蓋を開け、中身を覗き込む。その動きは、なめらかだった。舞台女優が、台本通りに動いているかのように。

 一切の迷いなく。

「後は、具材を入れるだけだわ――チヨちゃん、何だか分かるぅ?」

「分かりません――」

 そう答えるのが、精一杯だった。

 しかし、それで十分だった。

 ぴきぴきぴきぴきぴきぴきぴき――っ!


 ぱりぃぃぃぃぃぃぃぃぃんっっっ!!!


 絹の彫像の笑顔を、粉々に打ち砕くには。

「ぅあなたの心臓に決ってるじゃなああああぁぁぁぁぁぁぁい!?!? ひゃあっははははははははははははははははは、うひいっひひひひひひひひひひひひひひひひбпж●Яh△:※!!!!!」

 その下から現れたのは。

 耳まで口を裂くような狂笑と、こぼれそうなほど見開かれた血走った目。

 想像すらしなかった。彼女の顔が、こんな表情に歪みうるなんて。

 がっ!

 猛禽もうきん鉤爪かぎつめのような手付きで、まな板の上のそれを掴む。

 そう、よく砥がれた、愛用の洋包丁を。

「まだトクントクンと動いてるチヨちゃんの心臓をね、塩と胡椒で下味付けて、そのままお鍋へぽいっっっっ!!! 西洋出汁でじぃっくりぐつぐつ煮立てれば、美味しい美味しいチヨちゃんの心臓スープの出来上がりいいいいい!!!」

 夢だ、これは夢だ。チヨは必死で、己に言い聞かせる。さっき読んだ〈グリム童話集〉のせいだ。絹さんが、人食いの魔女になって襲い掛かってくるなんて。

 そう思い込みたかったのに。

「ま、まさか――」

 分かりたくないのに、分かってしまう。危機を目前にした生存本能が、チヨの思考回路にフル回転を強要している。

「あの脅迫は、絹さんが!?」

 余所者は出て行け、余所者は出て行け、余所者は出て行け――あの執拗さ、あの偏執さ、なるほど、今の絹とぴったり一致する。してしまう、あまりにも。

 それでも信じたくないチヨは、必死で彼女を庇う。奇妙なことに。

(で、でも、サンルームの窓が破られていて――絹さんなら、あんなことする必要は――)

 しかし、無慈悲な理性は、チヨに現実を見ろと促す。

(偽装――外から入った誰かの仕業に見せかけるための)

 それに、何より。

『でも、どうして脅迫を止めたんでしょう? その――誰かは』

 そう、それはなぜだ。

『ひょっとしたら――見てたのかもな』

 その通りだ。しかし、窓の外からなどではない。

『モウ、ゴ主人様ッタラ、ちよチャンガ怯エルデショ。クケケケケケ』

 自分の、すぐ横でだったのだ。

 そして、業を煮やして、遂に実力行使に――。

(ああ、そんな――)

 そして、動機。そうだ、絹の目に、自分はどう映っていたのだろう。身も心も汚れきっていると思い込んでいる彼女の目に、未だ男を知らぬ生娘きむすめの自分は。

 まさに、お妃から見た、白雪姫だったに違いない。

 原因があって、結果がある。

 これは間違いなく、因果の連なりから成る現実だ。

「き、絹さん、落ち着いて――!」

 じりじり、じりじり――獲物を追い詰める、肉食獣の動きで迫る絹。逃げろと執拗に命じる本能に逆らい、チヨは必死で説得を試みる。

「絹さんは、そんなにお綺麗じゃないですか――!」

 同じ女として、羨ましい限りだった絹。

「絹さんは、あんなに優しかったじゃないですか――!」

 実の姉妹も同然、とまで言ってくれた絹。

 そんな彼女は。

「チヨちゃああぁぁぁぁんん、心臓をおくれえええぇぇぇ――!!」

 もう、この世のどこにもいなかった。

「ひいぃっ!」

 遂に生存本能に屈し、転がるように厨房を逃げ出す。

「栄太郎さん、金谷さん――!」

 助けを呼ぼうとして、はっと気付く。留守だ、二人とも。絹は、この機会を狙ったに違いない。

 今、この屋敷で、自分は人食い魔女と二人きり。

 絶望で立ち尽くしたチヨの背後に、凶風が迫る。

 きえーっとも、ひゃーっともつかない奇声と共に振り下ろされる洋包丁。

「きゃああっ!」

 ずばああああ! 奇跡的に、身をかわすチヨ。切り裂かれたのは、服だけだった。その下から覗く、滑らかな少女の肌に、絹の血走った目は釘付けになる。

「ああああ、何て綺麗なの、何て清らかなの、まだ、男に触れられたことすらないんでしょうね! きっと、その下を流れる血は、出来立てのワインのように清純で芳醇に違いないわ!」

 嫉妬――違う、絹の声に漲っているのは、ただただ純粋な羨ましさだった。路上の娼婦が、天上の女神を仰ぎ見ているかのような。

 それが、より一層、異様で悲壮だった。

 背後から迫る狂笑に追い立てられながら、必死で逃げる。恐怖が知覚を狭める、

歪める。廊下の先が、ドアの向こうが、どうなっているのか思い出せない。あたかも、屋敷が見知らぬ場所に変わってしまったかのように。

 気が付いた時には。

(あっ!)

 二階のバルコニーに追い詰められてしまっていた。

 三方の手摺てすりの向こうは、暗闇の虚空。

 そして、背後の唯一の出入り口には。

「待ってえええぇぇぇ、チヨちゃあああぁぁぁん――!」

「ひいいぃぃ!?」

 吹き荒れる風に、長い髪を乱れに乱れさせる絹の姿は、最早魔女そのもの。以前の彼女の面影など、もうどこにもない。

 振り上げた洋包丁が、月明かりにぬめぬめと輝く。

「あなたの心臓を食べて、私は清らかさを取り戻すの――そうすれば、私も“祭”に行ける! そう――」

 だっ!

 突進しながら、絹が放った絶叫は――。

「ご主人様と一緒にいいいぃぃぃぃ―――っっ!!!」

 ――まるで、血を吐くようで。

(絹さん――そうか)

 この人は――。

 洋包丁が、チヨの胸をえぐる。

 寸前で。

「――――っ!?」

 絹の体が、傾く。

 風のせいだろう。彼女の足元に、植木鉢が転がって来たのだ。

 気付かず踏んでしまい、姿勢を崩し――。

(――――え?)

 気が付くと、バルコニーにはチヨしかいなかった。

 しばらく放心していたが、はっと気付き、手摺から身を乗り出す。

 雷光が、その姿を照らし出す。

「き、絹さん――!?」

 チヨは、息を飲んだ。

 とっさに連想したのは、昆虫標本だった。

 そう、ガラスケースの中で、ピンに貫かれていた蝶のように。

 屋敷を囲う鉄柵の尖った先端が、絹の胸を貫き、空中にはりつけにしていた。

 なぜだろう、その死に顔は、とても穏やかで。

 その頬を、涙の跡が伝っていた。


 *


『安心しろ、俺が悪い親父から守ってやるからな!』

 ああ、何て眩しい――。

 あの人の笑顔は、まさに太陽だった。

 あの男が支配する闇の世界から、私を助けに来てくれた。

 でも、駄目――これ以上は、近づけない。

 光の下に出て行ったら、あらわになってしまう。

 あの男に汚された、みすぼらしい姿が。

 だから、私にできるのは、光と闇の狭間の暗がりから、あの人の姿を窺うだけ。

 ああ、私も“祭”に行きたかった。

 あの人の手で、真っ赤なドレスを着せて欲しかった――。


 *


「駐在と医師には、こちらから連絡しておきます。我々も、すぐに戻りますので――」

「お、おい、ちょっと代わってくれ! チヨ、大丈夫か!? ああ、泣くなよ、君のせいじゃない――」

 電話口で必死にチヨをなだめる栄太郎に聞かれないように、金谷は呟いた。

「駄目だったか――」

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