四ノ章

(ここは――?)

 気が付くと、チヨは見覚えのある場所を歩いていた。

(聖域の森――?)

 石守家の司祭のみが入れる、禁断の領域。

 夜のようだ。針葉樹の合間から差し込む月光が、闇にヴェールのように揺らめいている。

(あたし、どうしてここにいるんだろう――?)

 思考がまとまらない。頭の中に、かすみがかかっているようだ。かかったまま、足だけが勝手に前に進む。

 どこからともなく、太鼓の音が聞こえる。和太鼓ではないようだ。早いリズムによる連打は、どろどろどろとも聞こる。聞き慣れない反面、妙に耳に馴染なじむのは、どこか心臓の鼓動に似ているからだろうか。

 やがて、針葉樹がまばらになり、その姿が現れる。

(黒い石碑――)

 黒い表面に月光をぬらぬらと照り返す様は、妙に生物的だった。これこそが、石碑の真の姿なのだと思った。陽光の元では、死んだように眠っていた石碑が、今、月光の元で目を覚まそうとしている。

 その石碑が、月光を遮って出来た影の中に。

(誰かいる――?)

 ぼっ! ぼっ! 石碑の左右に篝火かがりびが燃え上がり、その姿を照らし出す。

 男だ。しかし、それ以上のことは分からない。

 その顔は、獣を模した被り物で隠されていたからだ。

 腰に毛皮を巻いただけの半裸で、手首には絡み付く蛇のような腕輪、首には骨を繋いだ首飾り。

 そして、その手には、ぐねぐねと波打つ、奇妙な刀身の短剣が握られていた。

 その姿を見た瞬間、チヨは確信した。自分は、この人の呼びかけに応じて、ここへ来た。

 万難を排してでも、来なければならなかったのだと。

 どろろろろろっ! 高まる心臓の鼓動に合わせるように、太鼓のリズムが加速する。

(そうか、これは――)

 これが何なのか、ようやく分かった。

 世界中どの宗教、どの民族も、持たないものなどないと断言できる、言わば人類の本能。

 そう、これは――。

(お祭――)

 被り物の男が、たくましい腕を差し伸べる――山歩きに慣れていないチヨを、気遣きづかうように。

(ああ――)

 チヨは、まるで炎に吸い寄せられる蛾のように、そのふところに――。


 *


 しゃっくりのような声を上げて、布団を跳ね上げる。

「――え?」

 そう、チヨは寝台の上にいたのだ。

(あの男の人は――? それに、ここはどこ――?)

 窓からは朝日が差し込み、ちゅんちゅんと小鳥のさえずりが聞こえてくる。

(あたしの部屋――?)

 そう、ここはチヨのために用意された客室だ。そこで、ちゃんと昨晩も天蓋てんがい付の寝台に入ったではないか。

 聖域の森になど、いるはずがない。

(夢か――)

 ようやく、状況を把握する。

(変な夢だったなぁ――)

 どうして、あんな夢を見たのか。多分、昨日栄太郎から聞いた、石碑の話のせいだろう。洪牙利はシュトレゴイカバアル村から、海を越えて“運ばれて”来た、邪神崇拝の――。

 そこまで思い出した所で、チヨの心臓が跳ね上がる。

(それじゃあ、あの男の人は――!?)

 そうだ、あんな格好をした人が、善良な紳士の訳がないではないか。

(邪教徒だったの――?)

 近隣から赤子や乙女を誘拐しては、生贄に捧げたという――あの男が手にしていた物を思い出し、震え上がる。

 そう、短剣だ。いかにも、生贄の血をたっぷり吸い込んでいそうな――。

(夢の中とは言え――)

 どうして、警戒もせずに近付いて行ったのか。そうだ、夢の中では、恐怖は感じていなかった。そう言う意味では、あれは悪夢ではない。いや、むしろ、とても高揚した気分だったような気さえする。

 そう、あの男が腕を差し伸べるのを見た時、前にもこんなことがあったような気がして――あの時も、胸が高鳴って――気付かれやしないかと、気が気でなくて――。

(――やめよう)

 所詮しょせん、夢ではないか。いや、夢とは言え、あんなものを見るのは、栄太郎や佐羽戸への冒涜ぼうとくだ。全ては、遠い過去の、遠い異郷の地でのことだ。

(外の空気でも吸って――)

 夢など忘れよう、そう思った。

 そして、寝台から出て、スリッパをいて。

「え?」

 そこで、初めてそれに気付いたのだった。


 *


「“余所よそ者は出て行け”だと――!?」

 栄太郎が、憤然と読み上げる。

 客室の白い壁紙に、血を思わせる赤いインクで書かれた文章を。

 誰に当てたものなのかは、考えるまでもない。

「寝る前は、こんなものはなかったんだな?」

「ま、間違いありません」

 つまり、チヨが寝入ってから書かれたことになる。悪意を抱いて、部屋に忍び込んできた何者かの手によって――その場面を思い浮かべ、震え上がる。絹が肩を抱いていてくれなければ、パニックに陥ってしまっただろう。

「サンルームの窓が割られていました。そこから侵入したのでしょう」

 屋敷を見回ってきた金谷が報告する。

「くそっ、誰がこんなことを――」

「――村の者の仕業かと」

 金谷の声には、一切の感情が反映されていなかった。

「まさか!? みんな、チヨのことは歓迎して――」

「ほとんどの者は、そうでしょう。しかし、中には頑迷な輩もいるかもしれません。ご主人様の手前、態度には出さなかったでしょうが」

「そんな――」

 栄太郎は愕然としている。チヨも信じたくなかった。村人たちのあの純朴な笑顔の中に、偽りの仮面が混じっていたなんて。

(ああ、ひょっとして――)

 あの少し後、祭に出てみないかと、栄太郎に誘われている。それが村の“頑迷な輩”の耳に入って、こんな行動に走らせたのかもしれない。

 余所者が祭に出るなど、信仰への冒涜だ、と。

「佐羽戸は数百年もの間、隠れ切支丹の村でした。その名残は、我々が思っている以上に、色濃く残っていたようです」

「聖書に“余所者は追い出せ”なんて書いてないぞ!」

 栄太郎が怒鳴る。無論、金谷に怒っている訳ではない。

「それで、これからどうします?」

 いつもは遠慮のない絹が、さすがに躊躇いながら言う。

「とりあえず、駐在に連絡しましょう」

「でも――いや、そうだな」

 栄太郎が何と言いかけたのかは、チヨにも大方見当が付いた。小さな村とは言え、人口は数百だ。その中から犯人を特定するなど、果たして可能か。第一、仮にできたとして、それで済む問題ではない。

 犯人は何人いるかも分からない、“頑迷な輩”の一人に過ぎないのだから。

(ああ、今日も、いつも通りの一日が始まるとばかり、思っていたのに)

 打ちのめされる反面、妙に納得もしてしまう。そう、彼女は嫌という程知っている。日常というものが、砂上の楼閣ろうかくに過ぎないことを。

 ほんのちょっとしたことで、いともあっさり崩れ去る。

「ごめんな、チヨ――でも、佐羽戸を嫌いにならないでくれよ」

「そ、そんな、栄太郎さんが謝ることないですよ」

 その後、せめてもの対策として、夜間は鎧戸を閉めること、チヨと絹が同じ部屋で寝ることなどを決めた。


 *


 が、その程度で諦める犯人ではなかった。

「ご主人様、お手紙が届いております」

「どれどれ、差出人は――ありゃ、書いてないな。誰からだろう――うっ!?  こいつは――」

 例の脅迫文が、今度は郵便で届いたり。

「きゃあっ!」

「どうしたの、チヨちゃん!?」

「ふ、噴水の中に――」

 首を切り落とされたにわとりが浮かんでいたり

「何だって!? チヨが――」

「はい、幸いお怪我はなかったのですが――」

 買い物帰りに、何者かに石を投げつけられ、危うく直撃しそうになったり。

 あの日以来、一日も欠かさずに脅迫は続いた。

 異常としか言いようのない執拗しつようさ。しかも、慣れさせまいとするかのように、毎回手を変え品を変え攻めてくる。

 結果、僅か数日で、チヨは参ってしまった。余所者は出て行け、余所者は出て行け、余所者は出て行け――犯人の脅迫が、四六時中耳元で囁かれているようで、食事も喉を通らない。

「チヨ様を本邸にお留めするのは、危険かもしれません」

 金谷がそう言い出すのは、おそらく誰もが予想していただろう。

「ご足労ですが、別荘にでも移って頂くのがよいかと」

(それしかない――)

 チヨもそう思った。これ以上、石守家の人々に迷惑はかけられない。

「チヨ一人でか?」

 ぼそりと、栄太郎が呟く。

「もちろん、使用人はお付けします」

「そういう意味じゃない」

 静かな声だったが、さしもの金谷が、たじろく程の気迫が込められていた。

「俺達は一緒に行けるのかと聞いてるんだ」

「それは――もうすぐ祭ですので、ご主人様には村を離れられては――」

「そういうことだ。で、チヨ」

 彼の双眸が、真っ直ぐにチヨをとらえる。

「君は、どうしたい?」

(ああ――)

 何て、澄み切った瞳。一点の曇りもないそこに、自分の姿が映っている。そう、真実の自分の姿が。

 気が付くと、チヨは――。

「ここにいたいです――」

 ――口にしていた。本当の望みを。

 できなかった。あの鏡像に嘘をくなんて。それは、彼の瞳の曇りのなさをも、否定することだから。

「ご、ご迷惑おかけして、申し訳ありませんが――」

「迷惑なもんか。言っただろ、君の力になりたいって」

 にっと笑い、いつもの顔に戻る栄太郎。そして、使用人達も。

「そうですよ、こんな時代錯誤な連中の言いなりになることないですよ」

「確かに、それでは石守家の威信に関わりますな」

 数日振りに、屋敷にいつもの空気が戻ってくる。その暖かさに包まれ、チヨは確信した。自分は、これを失いたくないのだと。

 もう二度と。

(いずれは、帝都に帰るのだとしても――)

 その時は、この暖かさを土産に帰りたい。

「でも、いいの? 危険かもしれないのよ」

「か、覚悟の上です」

「はは、チヨは勇敢だな。じゃあ、俺も勇気を見せなくちゃな。任せろ、秘策があるんだ」

 思いもかけない栄太郎の言葉に、一同は目を丸くする。

「絹さん、包丁を持ってきてくれないか。一番、よく切れる奴をな」

「何に使うんです?」

「切り落とすのさ、俺の指を」

 あまりに平然と言うので、しばらくの間、誰も反応できなかった。

「ああ、包帯はいらないぜ。巻かないで見せた方が、効果あるだろうからな」

「ご、ご主人様、何を――」

 ようやく金谷が動き出したが、その声から、いつもの冷静さは、完全に失われていた。

 彼とは対照的に、栄太郎は不敵な笑みさえ浮かべて続ける。

「村中の人間を集めて、言ってやるのさ。見てるか犯人ども、チヨを苛めたら、その度にこうしてやるぞってな」

 なるほど、脅迫には、脅迫で対抗しようと言う訳だ。脅迫者一味とて佐羽戸の人間、栄太郎は大切な“坊ちゃん”のはずだ。これは効くだろう。

 などと感心しているチヨは、実は混乱の極みにいた。

「イエス様は、全人類の罪を肩代わりして、十字架に掛かったんだ。俺だって、犯人の罪を肩代わりして、指ぐらい落としてやるさ」

「お、おやめ下さい、ご主人様! どうか冷静に――」

「ああ、俺はいたって冷静だぜ?」

 その通りだ。彼は冷静で、かつ本気だ。

 このままでは、本当にやるだろう。

「え、栄太郎さん、駄目ですよ、あたしなんかのために――」

 あわやという所で我に返ったチヨが、慌てて加勢に入る。

 しかし、内心では、全く相反する感情が湧き起こっていた。

(栄太郎さんが、あたしを――)

 身をていして、守ってくれようとしている。姫をかばって、矢玉に身をさらす騎士のように。

 結局、そんなことしたら、チヨちゃんが責任感じますよという、絹の冷静な指摘で、この案は保留となったが。

「みんな、大袈裟だなぁ。指の一本や二本落としたって、死にゃしねえって」

 栄太郎は気楽そうだった。きっと、本当に指を落としていたとしても、この調子だったろう。

 少し――いや、本当にほんの少しだが、それを見てみたかったと思ってしまったのは、いけないことだろうか。

 蜂蜜の風呂に浸かっているような心地のチヨは、気付いていない。

 背後から吹き付ける、肌では感じられない冷気に。

 氷結地獄もかくやという、絶対零度のそれは、しかし、チヨを包む幸福感にはじかれ、びょうびょうと狂おしく旋回し――。

 やがて、めきめきと結晶していく。

 触れるもの全てを切り裂く、凍て付いた氷の刃へと。

 その刀身は、透明だった。

 最早、一切の迷いは無かった――。


 *


 祭とは、何か。

 祭の本質とは、何か。

 祭る神ではない、祈る願いでもない。

 祝詞の文句でも踊りのステップでもなく、儀式の形態でもない。

 祭の本質とは、人々の絆である。

 そもそも、祭に参加する人々は、何らかの共通点を持っている。同じ土地に住んでいる、同じ生活様式を持っている、同じ神を信じている――。

 祭とは、そうした共通点を持つ者同士が、一堂に会することで、お互いが仲間であることを、再確認する行為である(豊作祈願など、表向き掲げている目的は、実は二の次――とまで言っては、言い過ぎだろうか)。

 政治的、あるいは宗教的弾圧などで祭を禁じられると、人々は決まって激しく抵抗する。弾圧勢力に対して、正面から立ち向かうこともあれば、隠れて祭を続けることもある。その最たる例が、我が祖先たる隠れ切支丹であろう。

 彼らが、そうまでして祭を守ろうとする理由は、唯一つ。祭を禁じられることは、祭を通して繋がっている、仲間の絆を断ち切られるに等しいからである。

 逆を言えば、祭を通して繋がった強い絆が、人々の意思を束ね、そうした集団自衛を可能にしているとも言える。祭は自治体を守る、防壁の役割を果たしているのだ。

 これは、一見美談のようだが、そこには影の面もある。すなわち、過剰な一体感が、全体を守るためには、個々の犠牲をいとわないという、蟻や蜂の心理をもたらすのである。

 その最たるものこそ、人身御供ひとみごくうだ。権力者に死後も仕えるため、生きたまま埋葬された“人柱”。子供を神主に仕立て、一年の任期終了時に生贄にしたという“一年神主”など、枚挙にいとまがない。

 人身御供は外国でも見られ、南米インカ帝国では、太陽の衰えを防ぐためと称して、毎月のように、生贄の心臓をナイフで抉り出したという。無論、太陽云々は建前で、真の目的は、人々の一体感を保つことだった訳だが。

 その様は、あたかも、便利な道具であったはずの祭に、逆に人間の方が操られているかのようである。

 果たして、祭の主催者は人か、それとも祭そのものか。


 石守栄三著、〈日本の秘祭、奇祭〉より抜粋


 *


 栄三の遺作となったその本を閉じて、金谷は壁に掛けられた絵を見上げた。

 静謐せいひつな月明かりの中、五年前から変わらぬ姿で、栄三と雪子が微笑んでいる。

 今年も、もうすぐ祭がやって来る――。


 *


『ご主人様、奥様、いらっしゃいますか!?』

 金谷の呼びかけが、聖域の森に木霊こだまする。

 角灯ランタンの光程度では、到底その奥の闇は照らし出せない。だが、ここにいるのは間違いないのだ。

 踏み込む時には、無論強烈な抵抗を感じた。ここは、石守家の当主しか入ることが許されない、禁断の領域なのだ。その禁忌は、佐羽戸の民なら、骨の髄まで染み込んでいる。

 しかし、金谷は決意した。最早、躊躇っている場合ではない。怪我でもして、動けなくなっている可能性もある。こんな時、主を助けに行かないで、何のための従者だろう。

(とりあえず――)

 あそこを目指すことにする。今もいるかどうかは分からないが、少なくとも一度は立ち寄った可能性が高い。無論、金谷は始めて行くが、上へ上へと登っていけば、辿り着けるはずだ。

 進むにつれ、どんどん濃くなるのを感じる。

 村とは明らかに違う、異質な空気が。

 あたかも、時空の座標が狂い、世界がこの世ならぬ領域へとずれ込んでいくかのようだ。

(ここでなら、何が起きても不思議ではない――)

 現実主義の金谷も、この時ばかりはそう思った。

 やがて、木々が疎らになり、その姿が現れる。言い伝えでしか、聞いたことのない、村の信仰の要。

 黒い石碑。

『こ、これが――?』

 金谷は、呆然と見つめた。漠然と想像していたものと、あまりに違って。

 外見ではない。纏っている雰囲気が、だ。

 神の教えが刻まれているというから、きっと、伝説に聞く、十戒の石版のような神々しさに違いないと思っていたのだ。耳を澄ますと、神の声が聞こえてくるような――。

 だが、そんなもの、目の前のこれには、微塵もない。

 漆黒の表面は、ただただ光を吸い込むばかり。何も発さず、何も語りはしない。それは、人智の及ばない闇そのものだった。

(我々は一体、何を崇めていたのだ――?)

 思わず、角灯をかかげていた右手が、だらんと降りる。

 その瞬間、不意に目に飛び込んできた。

 モノトーンの周囲とは、対照的な色彩が。

(――赤?)

 石碑の根元、月明かりが遮られてできた暗がりに、まるで彼岸花の群生地のように、鮮やかな赤が広がっている。

 黒い石碑との強烈なコントラストに目を眩まされたのか、さしもの金谷も、気付くのが一瞬遅れた。

 その赤の中に、横たわる人影があることに。

『奥様!?』

 石守雪子。石守栄三夫人。

 なぜ、もっと早く気付かなかったのか、自分を叱る。一瞬の遅れでさえ、彼の美学は許さない。

 当然だ。もうかれこれ、二十年近く仕えているお方なのだから。

『奥様、どうなさったのですか!?』

 慌てて駆け寄ろうとして――。

『!』

 匂いに気付いた。

 錆びた鉄のように鼻を突く、それでいて、どこか甘くもある――。

 無論、こんなに濃厚に立ち込めているのを嗅ぐのは初めてだ。だが、本能で分かる。それは、誰の体内にも流れているものの匂いなのだから。

 すうぅ、肺が勝手に空気を吸い込み始める。

 気付いたせいだろう。雪子の周囲に広がる、鮮やかな赤が何なのか。

 何の意外性もない、赤と聞いたら、万人が真っ先に連想するであろうもの。

 血だ。

 血の赤だった。

 その何に恥じない、雪のように白い肌を鮮血に染めて。

 雪子は、死んでいた。

 金谷は絶叫しているつもりだった。限界まで吸い込んだ空気を、今度は限界まで吐き出しながら。しかし、現実には、ひゅうひゅうと詰まった笛のような音がれているだけだった。

 衝撃のあまり、臓腑ぞうふすら動きを止めている。

(なぜだ)

 あんなに深く、皆を愛していた彼女が。

(なぜだ)

 あんなに深く、皆に愛されていた彼女が。

(なぜだ)

 神にだって、愛されていたはずの彼女が。

(なぜだなぜだなぜだなぜだなぜだなぜだなぜだなぜだなぜだなぜだなぜだなぜだなぜだなぜだなぜだなぜだなぜだなぜだなぜだなぜだなぜだなぜだなぜだなぜだなぜだなぜだなぜだなぜだなぜだ!?!?!?!?)

 ――どれぐらい、そうしていただろうか。

 気が付くと、金谷は上着を脱いで、雪子の亡骸なきがらに被せようとしていた。こんな姿、見られたくはないだろうから――活動再開にはほど遠い頭脳では、その程度の気遣いが限界だった。

 だが、実のところ、彼が冷静だったとしても、できる事に大差はないのだ。

 雪子は、もう死んでいるのだから。

(奥様、わたくしは――)

 何と語りかけようとしたのだろう。しかし、内省する機会は訪れなかった。

 かつん。爪先が、何かを蹴飛ばした。

 ぼんやりと見下ろした目が。

『こ、これは――!?』

 驚愕に見開かれる。

 その視線が、雪子の亡骸へと徐々に移っていく。

(どういう――ことだ――?)

 足元から、じわじわとい上がる冷たさが何なのか、金谷は自分でも分からなかった。分かってしまったら、瞬時に全身が凍ってしまう、そんな気がして。

 その時。

 ――なあ金谷、母さんは何で、地面に横になってるんだ?

(!?)

 びくん。金谷は全身を硬直させる。とても聞き慣れた声を聞いた気がして。

 慌てて周囲を見渡す。そんな、まさか――だが、万が一、そうだったら――。いけない、他の誰に見られようとも、あの方にだけは見られる訳には。

 だが、どこにも懸念していた人影はいなかった。

(そうだ、いる訳ない)

 あの方は、絹に託してきた。今頃は、屋敷で両親の帰りを待っているはずだ。

(しっかりしろ、幻聴など聞いている場合か。そうだ、せめてご主人様だけでも見つけなければ――)

 そして、確かめなければ。

 ここにこれが落ちていたのは、単なる偶然だと。


 *


『ああ、坊ちゃまが――』

 両親が帰るまでは起きていると頑張っていた栄太郎だったが、ついに睡魔に負けて、ソファーで舟をぎ始める。お守りを頼まれていた絹は、風邪でも引いたら大変だと、すぐに寝台に寝かせる。

『本当に、お二人ともどこに行ってしまわれたのかしら』

 そういえば――と、絹は思い出す。

 ご主人様も奥様も、ここ最近、何となくお元気がなかった。あれが、何かの前兆だったのでは――。

 寝巻きに着替えさせ、布団を掛けてやると、栄太郎はむにゃむにゃと寝言を漏らす。


『なあ金谷、母さんはどうして――』


 ――――――。

 夢の中で、両親を探しているのだろうか。もし、お二人がお戻りにならなかったら、この子は両親を求めて、永遠に夢の世界を彷徨うのでは――絹は、不吉な想像を振り払う。

 大丈夫、こんな可愛い坊ちゃまを置いて、どこへも行ってしまうはずがない。

 安らかな眠りを願って、電灯を消そうとした、その時。

『せっかくの真っ赤なドレスが、汚れちまうじゃないか――』

 スイッチに伸ばした手が止まる。

『赤い――ドレス?』

 なぜか、その単語だけが妙に耳に残って。

 石守家唯一の跡取り、腕白だが真っ直ぐな、村の宝。その罪のない寝顔を、絹は長い間、見つめ続けていた。


 *


 金谷は、一心に肖像画を見つめている。

 その拳が――。

 小刻みに震えている。

「そう、全ては、“█”の仕業だったのだ――」

 “█”。

 その言葉は、真っ黒な憎しみで塗り潰されていた。

「おのれ、“█”め――お二人だけに飽き足らず――そうはさせんぞ。だが、どうすれば――“█”は、すでにご主人様のお心を――」

 “█”、“█”、“█”、“█”、“█”。

 憑かれたように繰り返すその言葉を、しかし聞いているのは、肖像画の中の栄三と雪子だけ。二人はただ、静かに微笑むのみ。あたかも、彼を哀れむかのように。

「迷っている暇はない、かくなる上は――」

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