Ⅵ・兄と妹
意識を失い、口から血を流している人間を見た時、多くの者がするようにサヤも慌てふためき、救急車を呼んだ。連絡を受けたキリハは、コウスケが死んだものと勘違いしてしまったために、騒ぎは余計に大きくなってしまったが、それ故に、コウスケは無事緊急搬送され治療を受けることができたとも言える。
目を覚ましたコウスケが最初に見たのは、白衣に身を包んだ初老の医師だった。
「嘔吐による急激な脱水症状が見られました。それに、極度の低血糖による昏睡。加えて消化管からの出血による貧血も見られました。大きな病変は見られなかったので、ストレスが原因と思われますが。最近、お疲れだったのでは?」
「はは、まあ、そうですね……」
回診の医師に尋ねられても、コウスケには笑って誤魔化すしかできない。本当のことを言ったら、異常があったのは頭の方でしたか、とか言われて別の科に移されてしまうだろう。
「念のため、もう一日様子をみてください」
「はい、ありがとうございます」
医師が出て行くのを見届けてベッドサイドに姿を現したのは、マラックスだった。
「いやあ、どうなるかと思いましたねぇ」
「どうなるかって……どうなったんだ、あの後……」
この四人部屋には、もう一人老人が入っている。ベッドの周りに仕切りのカーテンを巡らせてはいるが、寝入っているお年寄りを起こさないよう、声をひそめた。
「俺の記憶が正しければ、あの天使、食べられてなかったか?」
「ええ。今も絶賛腹の中ですよ。トヨツヅラヒメ様がおかんむりで、反省するまで出すつもりはないようです。……どうぞ」
マラックスが、剥いた林檎を差し出してくれる。丁寧にウサギの耳にカットされたそれは、ほのかに甘い香りでコウスケの食欲を刺激した。
「じゃあ、イェルミエルについては、任せちゃっていい感じか」
「ええ。そっちは、もうコウスケさんの手を離れていますよ」
「そっか。よかった」
これで反省してくれれば、以降、変にちょっかいを出してくることもないだろう。
「薬局は、薬局長体調不良につき臨時休業扱いにしています。これは、キリハさんが対応してくださいました」
「母さんか……どやされる前に退院したいな」
「連絡しておいたので、間もなくいらっしゃると思いますよ」
「仕事早いな、本当」
相変わらず有能な使い魔である。
「……三井さんや清水目さんにも迷惑かけちゃったな」
「珍しく連日閉まっているせいで、近所の子供は“魔女の薬局の魔女が死んだ”なんて噂していますね」
「ああー、ははは」
薬局を気にしながら通り過ぎていく小学生たちの姿が目に浮かぶようだ。再開したら、今度は「魔女が生き返った」などと言って騒ぐのだろう。
ガラガラと病室の引き戸が開く音が聞こえた。しかし、その後、入ってくる足音もなければ呼び掛ける声もない。
「?」
何だったのかと思っていると、突然コウスケの腹の上に何かが落ちた。
「うわっ!?」
どこから現れたのか、やたらファンシーな書体で『パンの家の流れ星』と印字された箱がそこにはあった。一緒に一通の手紙も添えられている。
「何だこれ?」
「あ、これお菓子ですよ。多分、ルシファーさんからですね」
ルシファーと言えば、かつて悪魔たちを率いて創世記戦争を戦った堕天使である。
「何でそんな大物から?」
「イェルミエルの件に、天使ミカエルが出てきているのではないですか?ルシファーさんは、堕天される前はミカエルと兄弟だったと聞いています。兄弟仲は没交渉のようですが、今回は事情が事情ですしね」
「ふーん」
パステルカラーの可愛らしい包装紙には、製造者も賞味期限も記載がない。一見、ただの箱詰めのお菓子だが、胡散臭いったらない。
「パンの家は『ベツレヘム』の別名ですね」
「へー……と言うことは、これ、天国のお土産か……」
「そうでしょうね」
部下の不祥事のために、菓子折りを持って訪問してくる天使の姿はちょっと間抜けだ。見方を変えれば、部下のために頭を下げてくれる上司がいるというのは、現代風に言えば『ホワイトな職場』とも言えるかもしれない。
「……お土産がお鉢を回ってここに来るとは」
「まあ、いいじゃないですか、貰っておけば。滅多に食べられるものじゃないですよ」
「そりゃそうだ」
けれど、やはり正体不明のお菓子というものは気持ち悪い。一しきり箱を眺め回した後、開封もせずにベッドの下へ仕舞い込んだ。
「交渉と言っても、トヨツヅラヒメ様の意向が第一ですからね。あちらも気を揉んでいるでしょう」
「そういうものか?」
「そりゃあ、天使というのは神の下っ端なんですからね。稲荷神だったら、神の使いとして狐が挙げられますが、天使もそれとほとんど同じ立場ですよ」
「つまり、神様の小間使いみたいなヤツが、立場をわきまえずに他の宗教の神様に喧嘩売ったっていう状況になってるのか」
「そうなりますねぇ」
そう考えると、ミカエルが頭を下げに来るのは妥当に思えてくる。
「十六世紀、かのザビエルでも二年で布教活動を諦めるほど日本のには日本の神仏が根付いていました。彼らの力は未だに強力です。お陰様で、私たちも隠れ潜むことができたんですけど」
「聞けば聞くほど、悪魔って日本に来てラッキーだったんだなぁ」
「本当に。しかしイェルミエルは、日本のことを『布教したけれど根付かなかった土地』ではなく『未だ布教が行き届いていない未開の土地』だと思い込んでいたようですね。日本のクリスマスも本家に比べると様相が違いますし、別の行事だと認識していたらしく……」
「それで、あんなに態度が大きかったのか」
随分尊大なやつだと思っていたが――いや、マラックスに言わせれば、天使は生来そういう気質はあるらしいのだが、それを差し引いても、イェルミエルは少々頭の足りない部類だったようだ。
「何か……すっげー疲れてきた」
「馬鹿を相手にすると疲れますからね」
「マラックスも結構言うよなー」
久しぶりに叩く軽口は、記憶にあるよりも心地よく感じるのは、きっと気のせいではないだろう。
「失礼します」
剥いてもらった林檎をかじっていると、小さな呼びかけと共に病室のドアが開いた。囁くような声は、よく知った相手のものだ。
「……お兄ちゃん、大丈夫?」
静かにカーテンが捲くられ、サヤの心配そうな目と目が合う。マラックスはサヤの目に留まるより先に姿を消していた。
「あれ、林檎……自分で剥いたの?」
「ああ、うん、少し動いてみようと思って」
しまった、と内心慌てる。昏睡するまでに疲労した人間が、自分で林檎を剥いていたら不自然もいいところではないか。少しでも調子が良く見えるように、コウスケは努めて明るい口調でサヤに椅子に掛けるよう勧めた。
「お母さんの代わりに着替え持って来たの」
「そっか、ありがとう」
「このくらい全然。ごめんね、私、お兄ちゃんがこんなに疲れていたなんて思わなくて……それなのに、私土曜日に手伝いに行くのやめちゃって」
「いや、サヤのせいじゃないんだ!」
「でも……今だって、倒れたお兄ちゃんに気を遣わせちゃうし、私……」
自己嫌悪のあまりサヤの表情はどんどん落ち込んでいく。これではもう、どちらが病人か分かったものではない。
「でも、……お兄ちゃんに迷惑かけちゃうくらいなら、お手伝いくらい何でもないよ?まだ私、頑張れると思うから」
回診の医師が見立てたまま、家族にもコウスケの昏倒は疲労によるものだと思われているらしい。確かに疲れていたのも、サヤのためにコウスケが意識を失うに至ったのも間違いないけれど、そのために妹に自分を責めて欲しいとは思っていないのだ。
「サヤ、本当に気にするなって」
「でも……っ」
「……じゃあ、代わりに、これから話すことを信じてもらってもいいか?」
「?」
コウスケを挟んで反対側、サヤと対峙する位置にいるラマックスが、困惑しているのが何となく分かる。これからコウスケがしようとすることは、彼にさえ知らせていないことなのだ。
「サヤ、彼氏ができただろ?」
「え、う、うん……ヒロくんのことだよね」
「そう。ヒロトくん」
「どうして……?」
何故、兄は教えてもいない恋人の名前を正しく知っているのだろう――サヤの顔にはっきりと書いてある。その疑問を今は手で制し、コウスケは続けた。
「それから、サヤの友達にマコさんって子がいるだろ?」
「……うん」
何故親友の名前まで知っているのか、サヤの疑問は深まる。
「実はな、そのマコさんもヒロトくんのことが好きなんだ」
「え!?」
「でも、マコさんはサヤの一番の友達だろ?マコさんもサヤのことを友達だと思っているから、サヤのことを応援しようとしている。でも、同じくらいヒロトくんのことが好きで、すごく悩んでいるんだ」
「……」
サヤの表情は疑問から驚愕に変わっていた。
「だから、一度マコさんと話してみてくれないか?付き合うのをやめろっていうことじゃない。今、サヤが感じているモヤモヤをマコさんも感じているはずなんだ。それを、そのままにして欲しくないんだよ」
「マコちゃん……そうだったんだ。うん、私、マコちゃんと話してみる」
「ああ、そうしてくれ。ありがとう」
コウスケが選んだのは、自分の知る秘密を明かし、妹に親友と向き合わせることだった。
いくら魔法が使えるからと言って、妹の恋を押さえ込むことも、ましてやその友人の失恋を消し去ることもできないのならば、残された道は本人たちに話し合わせることしかないと考えたのだ。
恋と友情を天秤に掛け、どういう結末になったとしても本人たちが導き出す以上に良い答えなど得られないだろう。それに、二人の友情がこれで壊れてしまうということも心配してはいなかった。
「マコちゃん、全然そんなこと話してくれなかった……きっと、お兄ちゃんから聞かなかったら、私は気付けなかったし、ずっとマコちゃんを悩ませたままにしてた。私こそ、ありがとう、教えてくれて」
サヤは、知らないうちに自分が友人の悩みの種になっていたのを知って、無視していられるような人間ではないのだ。そんな彼女の友人であるマコも、素直に心の内を明かしてくれた相手を無碍にするような人物ではないだろう。
「……信じてくれるのか?」
いくら「信じて欲しい」とお願いしたとしても、サヤがコウスケの話を病人の戯言程度に済ませてしまっては元も子もないということだ。
念押しするように確認する兄に、サヤは頷きながらも、不思議そうに首を傾げる。
「うん。でも、どうしてお兄ちゃんがヒロくんやマコちゃんのこと、知っているか聞いてもいい?」
やはり。予想はしていたが、逃げられない質問だった。
「……俺が、魔法使いだからさ。だから、色んなことが分かるんだ」
覚悟を決めて言う。見えないはずのマラックスが、猛烈な非難の眼差しでこちらを見ているのが分かった。
それはそうだろう。新人魔法使いの手引きに書いてあるくらい、『自らの正体を明かさない』というのは、現代魔法使いの基本中の基本なのだから。
「……」
そして、それがどんなに真実だったとしても、受け入れられないことも知っている。じっと兄を見つめるサヤの目に、先に参ってしまったのはコウスケの方だった。
「……ごめん、冗談だ」
「知ってたよ」
信じられないならば冗談にしてしまおうとするコウスケに、サヤは意外な答えを言い放つ。
「え?」
「お兄ちゃんが魔法使いだって、私、知ってたよ」
自分で魔法使いだと言っておきながら、予想外の返答にコウスケは目を白黒させるばかりだ。記憶にある限り、サヤへ魔法使いであることを話したのは今日が初めてのはずなのだ。
「いや、でも、俺……教えてないよな!?」
「何言ってるの?私の前で魔法使ったことあるじゃない。忘れちゃった?」
それも全く記憶に無い。
「い、いつだ!?」
「うーん、お兄ちゃんが中学生の時かな?私が小さい頃、『極道マジックゆっこちゃん』っていうアニメが好きだった頃、覚えてる?」
「ゆっこちゃん?……昔やってた、変なアニメか」
『極道マジックゆっこちゃん』は、サヤが小学校性学年の頃、日曜の朝に毎週放映されていた変身魔法少女もののアニメだ。
極道の家業を厭(いと)う主人公のゆっこちゃんが、魔法のかんざしで変身して、対抗する組とのいざこざを解決しつつ、如何に自分の組を畳ませるか画策するという、女児向けのアニメにしては妙に重い内容だった記憶がある。
設定とストーリーの割に主人公は素直な努力家で、子供向けのヒロインとしてはそれなりに人気があった。幼いサヤもその一人だった。
「おもちゃのかんざしを買ってもらったの、覚えてる?」
「ゆっこちゃんの『変身かんざし』か。飾りが光って、音が鳴るやつ」
プラスチック製だが、ボタン型電池を入れれば飾りが点滅し、しかも髪飾りとしてもきちんと使えるというのが売りのおもちゃだった。
「そう、それそれ。私ね、おもちゃのそれで変身できるって信じて、変身しようとしたんだよ」
「……あったな、そんなこと。それで……」
それで――当然おもちゃなのだから変身はできなかった。
けれど、フィクションの中のアイテムと現実のおもちゃの区別がついていなかった幼いサヤは、『変身かんざし』が壊れたと言って、コウスケに泣きついてきたのだ。
「それで、俺、サヤからそのかんざしを受け取って……」
コウスケは年齢の離れた兄として、これはあくまでもおもちゃであり、アニメの中でゆっこちゃんが使っているものとは別物だと説明しようとしたのだ。子供がやがて直面する現実を、できる限り優しく伝えるつもりだった。
しかし、「これはただのおもちゃなのだ」という説明を、サヤはなかなか信じようとしなかった。「お兄ちゃんの変身のポーズが悪いから」だの何だのと、子供の理屈を捏ねて抵抗されたのを思い出す。
理不尽な理由に思わずコウスケが力を込めておもちゃを握ると、パチっと火花が散ったのだ。
スイッチを入れていないはずのおもちゃから七色に光が弾け、星屑のように溢れ出す。それを見たサヤが「やっぱり魔法のかんざしだ!」と喜ぶ隣で、コウスケはひたすらに焦っていた。
当時、既に自分には魔法使いの血が流れていることを聞かされていたコウスケは、当然、それを母親以外に明かしてはならないと言いつけられていたのだ。
如何に妹を誤魔化すか、おもちゃから溢れ出す光を見ながら脂汗を流すコウスケの傍らで、サヤはすごいすごいとはしゃぎ、「もう一度見せて」と兄にせがんだ。
勿論、コウスケに言わせれば冗談ではない。
だからコウスケは、サヤに言ったのだ――「自分は魔法使いだが、魔法を使えることも秘密だと。丁度アニメの中でも、ゆっこちゃんは自らの身分と能力を隠していたので、サヤを納得させることは容易だった。
その日起こったこと、見たものをお互いの秘密にして、いつの間にか十年以上も経過していた。
「……あれ、覚えてたのか?」
「勿論!あの日から、お兄ちゃんは私の特別なんだ。ゆっこちゃんと同じなんだって、ずっと思ってた」
「いや、まあ……」
実際の魔法使いは、ゆっこちゃんのように華やかなものではないのだけれど――という一言は口から出ることなくコウスケの胸にしまわれる。
少し複雑な表情のコウスケに、サヤはぽつぽつと続けた。
「ゆっこちゃんは結局テレビの中だけだったけど、お兄ちゃんは違ったね。ずっといなくならなかった。ずっと、私のお兄ちゃんで、魔法使いだった」
「あ……」
『極道マジックゆっこちゃん』の最終回で、ゆっこちゃんは裏切った相棒でありマスコットでもあるキャラクターを追って、魔法少女として旅に出たのだ。テレビの中で小さくなっていく背中を、サヤはエンディングが流れても泣きながら見送っていた。
そんなに入れ込むようなアニメだったかと思ったものだが、コウスケもいずれはゆっこちゃんと同じようにいなくなってしまうと考えたのかもしれない。あの日の涙の理由に、ようやく気付けたような気がした。
「俺、すっかり忘れてた……」
「二人だけの秘密を忘れちゃうなんて、薄情じゃない?お兄ちゃん」
「ごめん……そしてこれからも、内緒にしていてくれると、お兄ちゃんはすごく嬉しいです」
「ふふ、冗談だよ」
汚れた衣類を新しいものを入れ替えながら、サヤは小さく笑う。
「それに、私も好きな人がいるの内緒にして、お兄ちゃんにおまじないだけ選んでもらったからね。これで、あいこにしようね」
「……ん?」
つまりそれは、おまじないの本をコウスケに選ばせたのは、魔法使いとしてのコウスケをあてにしたからなのだろうか。
存外したたかな妹は、兄がそれを尋ねるより先に、病室を出て行ってしまった。
「いやあ、バレてるとは思いませんでしたねぇ」
のんびりとした口振りで再び姿を現したマラックスだが、彼も驚いているのには違いないらしく、菓子の包みを破ろうとして包装紙で指を切っていた。
「俺、色々覚悟してたのになぁ……」
「そう言えば、私にも相談せにばらしましたね。結果オーライでしたけど、もうああいうのは止めてくださいね。心臓に悪いですよ」
「それについては本当に申し訳ありません!」
包装紙を破りきった箱から、個包装の焼き菓子が取り出される。
「……でも、俺は妹への認識を改めようと思う」
「……私もです」
マラックスが手渡してくれた菓子は星型をしていて、あの日、中学生のコウスケが初めて使った魔法の輝きを思い出させた。
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