Ⅳ-a・稲川家だった人々・前
コウスケにとってキリスト教というものは、『神と和解せよ』だとか、『天の国は近い』などの妙な一文を書いた黒い看板を見たときに、何となくその存在を感じられる程度のものだった。もう少し言うと、実家でサヤがクリスマスを祝っていたりすると、そういう時期なのかと意識することもある。いずれにしても、魔法使いのコウスケにとって、イエス・キリストや聖母マリア、そして彼らに通じるイベントは、基本的に「ふーん」で済む程度だ。
つまり、いくら「心願成就に効果がある教会だ」と言われても、いつもならば、わざわざ休みの日に来ようとは思いもしないのだ。同行のマラックスも苦い表情で、いつもより口数も少ない。
「見た感じは普通だな」
「……」
「あまり渋い顔するなよ。闘牛するみたいになってるぞ」
間口だけ見れば、ちょっと大きな一軒家といったくらいか。三角屋根に立つ十字架、門の前に張り出された掲示板、礼拝や行事の案内――全てが典型的な町の教会である。今日は特に何もないのか、あるいはもう終わってしまっているのか閑散としていた。
看板に『稲苗町聖教会』と書いてあるものの、コウスケには宗派も分からない。取り敢えず、おかしなところは無い、ということくらいしか分からなかった。
「普通の教会なのですが……しかし、何だか妙な気配が……」
悪魔でも正体の分からないものがあるのだろうか。コウスケが尋ねようとした時、
「やだ、こんなとこまで来たの!?」
頭上から声がした。
顔を上げれば、教会の二階、ステンドグラスの窓からこちらを見ている少女と目が合う。弧を描くように目を細めて笑った少女は、乗り出した体を更に傾げて、窓から転げ落ちた。
「!?」
地面に衝突するかと思われた細い体は、ふわりと空中で停止する。まるで、羽でも生えているように。
「羽……?」
いや、実際に少女の背には翼があった。
陽炎のように揺らめき、薄ぼんやりと輝く二対、四枚の大きな翼が羽ばたいて、彼女の体を支えている。
「何かおかしい?天使に羽があるのは当たり前じゃない」
「天使!?」
「そうよ。ところで、最近この辺を嗅ぎ回っている悪魔はあなたかしら?挙句に神の家、教会にまでやって来るなんて、汚らわしいこと!」
ふわふわと柔らかく地面に降り立った少女は、愛くるしい顔を歪めてコウスケとマラックスを交互に睨みつけた。
「最近?いや、多分それは……」
それはアスタロスのことではないだろうか。
人違いならぬ『悪魔違い』だとコウスケが言うより先に、マラックスが天使とコウスケの間に割って入る。
「コウスケさん、こいつです!駅であなたを突き飛ばしたのは!」
「え?こないだの?」
「ええ。お前、どういうつもりだ!創世記戦争後の協定を破ったわけでもないのに、何故コウスケさんを狙った!」
まさか天使に轢殺(れきさつ)されかけていたなんて。事態を処理しきれず、呆気にとられているコウスケをよそに、天使と悪魔は対峙している。
「自分の目の届くところを悪魔にうろちょろされて、気分を害さないと思うの?図書館でも子供を使って邪魔してやったのに、さっさと帰らずにぐずぐずしている方が悪いのよ!」
「え?マジでこいつが?……いや、それより、うろちょろしてるのは俺たちじゃない!普段この辺に住んでるのは……」
ようやく落ち着きを取り戻したコウスケが、自分たちはここに初めて来たのだと説明しようとするが、天使は深い溜息を吐いてそれを遮った。
「誰でもいいのよ!あんたたちが万能の神であるイェルミエルたちの主に従わない、愚鈍な連中の仲間であることには変わらないんだから!身の程を知って、去りなさい!」
「天使と悪魔の関係を、人間社会に持ち込むものではありません!ましてや、その上殺人未遂まで犯そうとするなど!」
こちらを馬鹿にした態度を崩さない少女に、コウスケよりもむしろマラックスが憤慨していた。勿論、コウスケだって気に障らないはずがない。
「天使のくせに俺を殺そうとしたなんて、随分物騒なヤツだな。こっちはこっちで色々用があるんだ!そっちこそ構わず俺たちに構わず天の国に帰ればいいだろ!」
精一杯の非難をぶつけると、余裕綽々で二人を見下していた天使・イェルミエルは、急激に不機嫌になる。
「イェルミエルだって、信仰を集める必要がなければ地上に来たりしないわ!」
肩をいからせた瞬間、左右の羽がバチッと鋭い光を放つ。
「それもこれもミカエル様やウリエル様たちばっかり信仰を集めてしまうから問題なのよ!お陰で、イェルミエルたち無名天使は、こんな子供の姿にしかなれないんだわ!羽だって四枚羽しかないし!」
いつの間にか、不満の対象がコウスケたちではなくなっている。上位の天使への不満をこちらにぶつけられるのは理不尽だが、それよりも気になる言葉があった。
「信仰を集める?どういうことだ?この教会で何をしてるんだ?」
「何よ、誰にも迷惑かけてないんだけど!?逆にみんなの願い事を聞くくらい、イェルミエルは慈悲深いんだけどっ!」
「慈悲深いとか……自分で言うと安っぽくなる言葉をためらいもせずに言いやがった!」
「天使はほとんど皆こうですよ、コウスケさん」
自画自賛に酔うイェルミエルに、今度は冷たい眼差しが二人分注がれる。よく分からない自己陶酔のポーズは、天使がやっても特に気高く見えないのが不思議だ。
「でも、分かった。願い事が叶う教会の噂の原因は、お前だな」
次第に『天使』と『教会』の噂が結びついていく。
「ん?ここでお願いすると願いが叶うってやつ?それならその通り、イェルミエルの加護の効果よ。悪魔にまで噂になっているなんて、さっすがイェルミエルだわ!どうりで、先月は恋の相談が多いと思ったのよ!」
自画絶賛の勢いで自らを褒め称えるイェルミエルを余所に、コウスケとマラックスは、はっとしたようにお互いを見た。恐らく、同じことを考えている。
「……高校生くらいの女の子の、恋愛成就を助けたことがあるか?」
「ん?んんー、覚えてないわ。そういう子いっぱいいたし、一々覚えてないし」
「そうか……」
覚えきれないほど沢山来た女子高生の中に、サヤが混ざっていてもおかしくない。
ひょっとしなくても、急にできあがったと聞かされた、サヤとヒロトの不自然な縁結びには、イェルミエルが関わっているのではないか。
「くっそ、余計なことしやがって」
「余計?余計って何よ?イェルミエルの力で皆喜んでくれたのよ?誰かを喜ばせるのは最も難しい、しかしそれだけ尊い行いだって言ったのは、人間だったでしょう?」
「幸せになる代わりに、誰かが悲しむとしても?本末転倒じゃないか」
「だから?……あのね、分かってみないみたいだから、もう一度言うね。イェルミエルの目的は、この教会を通して信仰を集めることなの。それさえ達成できれば、他はどうなったっていいのよ」
微笑んだ顔は美しいのに、無機質でどこか恐ろしい。少女と目が合うのを恐れ、視線を逸らしたコウスケとは反対に、マラックスは強く握った拳を震わせていた。
「だいたいさぁ、願い事しにくる子もほとんどはうちの宗派の子じゃないワケよ。普段からミサにくるわけでもない、クリスマスは主の誕生への感謝を忘れて恋人同士の日にする……そんな奴ら、どうなってもいいわよ!願い事聞いてもらえるだけ、ありがたがるべきだわ!」
「……創世記戦争の頃から変わりませんね。あなた方のそういうところが、大嫌いなんですよ!!」
「マ、マラックス……」
きっぱりと「嫌い」と言う姿は初めて見た。いつもなら、何か気に障ることがあっても、皮肉か無視でやり過ごすマラックスがこんなに感情を顕に、嫌悪を示すなんてよほどのことだ。
「悪魔に嫌われてもどうってことないんだけどー……ところで、あんたたちさぁ、イェルミエルの邪魔をしに来たの?」
イェルミエルがコウスケたちを見る目が、どんどん冷たくなっていく。ぎらぎらと輝きを増しただけの鉱物のようだ。
「邪魔するつもりなら、許さないし逃がさないわ!」
瞳の輝きが一際強くなった時、四枚の羽も光をまとう。まるで、雷が集まったように、空気を震わせ、ばちばちと火花が散った。
「どうせあの時死ぬはずだったのよ、異教の魔と契約した人間!ここで死ね!」
「!!」
翼から光の矢が、さながら稲妻のように放たれる。天から地に落ちるように、いくつもの線を描いてコウスケとマラックスへと迫った。
「伏せて!あと、すみません!」
マラックスに弾き飛ばされ、アスファルトに倒れたと思った瞬間、コウスケの体から力が抜けていく。
「××××××××」
いつかノームたちへ使ったものに似た、理解できない言語による詠唱が始まった。
「な、なんだ?……何か、気持ち……わるっ」
途端に、脱力以上の吐き気がコウスケを襲う。視界が回り、倒れたままの姿勢から起き上がることもできす、アスファルトの上でのたうち回る。
「うっ、うぇ……あっ、うええっ、げほっ」
とうとう嘔吐してしまった。咄嗟に吐瀉物で気管支を塞がないよう無理矢理咳き込む。
「××××……ああ、足りないか……」
詠唱が終わったと同時、上空から炎が落ちた。
天地を繋ぐようにアスファルトをえぐって突き刺さった火柱が、重い響きと共に地を揺らし、イェルミエルの放った光を弾く。
火柱はその一本だけでは足りないと言うように、幾本ものが次々と落ちてきては、燃え上がる巨大な柱を作った。しかし、それらはマラックスとコウスケを焼くことはない。
「な…ん……これ?」
目の前で燃え盛る炎の柱は、恐ろしくも夢のように幻想的な光景だ。朦朧とした意識の中で、力強い美しさをコウスケは確かに感じた。
「『炎のつらら』!?何故、この悪魔が……!!」
しかし、イェルミエルはその炎へ強い恐怖を抱いたらしい。
広げた羽をたたんで炎から距離をとろうとした瞬間、彼女が『炎のつらら』と呼んだそれが彼女に向かって降り注ぎ、翼の二枚を貫いた。痛みに呻く声と、羽が焼ける匂いが鼻をつく。
「いやっ!やだ!イェルミエルの羽が……っ!」
穴あきの翼をかばいながら、イェルミエルは射殺さんばかりにコウスケを睨みつけた後、
「あんたたち絶対許さないから!!」
捨て台詞を残して姿を消した。幸いにも、彼女には相当の痛手を負わせることができたらしい。
「はあ、よかった……大丈夫か、マラックス?」
収まらない吐き気をなだめすかしながら、庇ってくれた相方を探すが、マラックスの姿はどこにもなかった。
「マラックス……」
姿を求めて体を起こそうとした瞬間、遂にコウスケは気を失ってしまう。自分の吐いたものの上に倒れるなんて冗談じゃないけれど、意識はただただ闇の中に落ちていった。
次にコウスケが見たものは、アスファルトなどではなく、木の梁が美しい天井だった。
「よかった、気がついたんですね」
傍らから覗き込む優しげな目は、どこかで見たもののような気がする。
「あれ……俺……?」
気を失ってどれくらい時間が経っているのだろう、確かめるように起き上がる。吐き気は治まっており、今度は難なく上体を持ち上げることができた。
どうやら、長椅子の上に横になっていたようだ。嘔吐してしまったせいで汚れていた上着は脱がされていて、少し肌寒い。
「今、洗っていた服を持ってきますから」
「えあ?……はい?」
傍らにいた誰かは、さっさと奥のドアに入ってしまい、コウスケの視界がはっきりした時には、もう後ろ姿しか見えなかった。
「どこだ、ここ?」
見渡せば、正面には十字架とマリア像が飾られた朗読台があり、燭台のロウソクが柔らかな光源となっていた。四方の壁はステンドグラスに彩られ、陽光に色をつけている。
「……教会?」
どうみても教会の、礼拝堂の中だ。そして、恐らくは、コウスケが気絶する直前、最も近くにあった稲苗聖教会だろう。
「……マラックス?」
誰もいない礼拝堂に呼びかけても、応えは返ってこない。悪魔である立場から教会の中に入ってくることは好まないにしても、召喚者であるコウスケが呼んでも何の反応もないのは、やはりおかしい。
「どこいったんだ、あいつ……」
「お待たせしました。任せしちゃってすみません」
奥の扉が開いて、さっきの人物が戻って来た。コウスケの服を持つ、全身黒づくめの男は、どうみても神父である。
「いいえ。こちらこそ、ご迷惑おかけしてしまって……」
魔法使いとしての立場以上に、助けてもらった相手には礼をしなければならない。
慌てて頭を下げ、再び上げ時、コウスケの視線は目の前に迫る神父に釘付けになった。
「父さん……?」
「……コウスケ?」
何故なら、眼前の神父は、コウスケが幼い頃、キリハとコウスケを残して出て行った実の父親その人だったからだ。最後に会ったのは、もう二十年ほど前になるというのに面影は変わっていない。
「……久しぶりだな」
ぎこちなく微笑む口元は、記憶と同じ形をしている。
懐かしく思うのと同じくらい、突然すぎる再会はコウスケを戸惑わせた。どう振舞うべきか、最善の対応を探して口ごもる。
「えっと、すごい、偶然ですね……こんなとこで会うなんて……」
生き別れの実父に意図せず再会したのは勿論のこと、その場所も、かつて魔女と結婚した男には、あまりに似つかわしくない。
「そう、ですね。本当に……」
「神父をしてたなんて、知りませんでした。母さん、何も……あれ?」
疑問が一気に脳を駆け巡る。
どうして、知らないのだろう。父親が神父という特殊な職業なのに、過去、同じ家に暮らしながらコウスケは父が何をしていたのかまるで覚えていなかった。
それどころか、実父がいなくなった日のことを、コウスケは全く覚えていないのだ。よくよく考えてみれば、キリハが再婚する以前の記憶も、漠然とした輪郭さえ掴ませないように形がない。
それだけでもショックなのに、何故、今まで子供の頃の記憶がないことを不思議に思わなかったのか、新たな疑問が浮かぶ。
実母と実父の離婚なんて、ある程度物心ついた子供ならば、忘れられない記憶になるだろうに、苗字が変わったことさえもあまり印象に残っていない。
「違う……違う、これは……」
しかし、今まさにその記憶の蓋が開いていく。
覚えていないのではない。違う記憶を覚えていた――だって、本当は、離婚の直前父と母はしょっちゅう言い合いをしていたではないか。優しい父の笑顔なんて、物心ついた頃には滅多に見なかったではないか。
どうして、忘れていたのだろう。どうして、ずっと『矢幡コウスケ』になる前の自分を忘れていたのだろう。この、上書きされたような幸せな記憶は一体何なのだろう。
「う、あ……うわあああっ!」
強烈な頭痛と共に、コウスケは再び意識を手放す。沢山の疑問が渦巻いては、今までの記憶を書き換え、埋めていく。がんがん鳴り響く頭を抱えながら、コウスケを呼ぶ父の声にすがることすらできなかった。
二度目の気絶から回復したコウスケは、今度は自身の実家で目覚めた。覗き込むキリハの顔は、心配とそれ以上の覚悟とで青白い。
「コウスケ、大丈夫……?」
「……父さんに会ったよ」
開口一番、コウスケが伝えたのはそれだった。
他にも沢山、色々なことがあったのに、何よりも先にそれを言わなければならないと思ったのだ。
キリハは黙って頷く。全て知っている、というように深く頷く。
「ええ。マサヤさんから連絡を受けて、あなたを迎えに行ったんだもの。知っているわ」
「……俺、ずっと父さんの……実の父親のことを忘れてた。いや、記憶はあったんだ『優しい父親』としての。でも、今日会ったら思い出した。本当は、ずっと『優しい父親』ではなかったこと。ずっとずっと、気にもしなかったのに……」
「ごめんね、コウスケ。私のせいだわ……」
「どういうこと?」
「あなたの記憶に魔術で蓋をしたの。マサヤさんが……父さんがいなくなっても疑問を持たないように、自然と忘れていくように、嘘の記憶で封じていたの。再会して、その魔術が緩んでしまったのね」
「それで、急に色んなことを思い出したのか。……どうして、俺の記憶を封じたのさ」
「マサヤさんと私とで決めたからよ。私がコウスケを引き取ることが決まった時、相談したの」
二人の間になにがあったのか、コウスケは視線で続きを乞う。
「会ったなら分かると思うけれど、彼は……稲川マサヤさんはキリスト教徒なの。けれど、同時に魔法使いの血も持っていたわ。とても優秀な人だったと思う。けれど、彼はずっとその二つの間で板挟みになっていてね……魔女会に入らず、使い魔も持たなかった」
「それで、父さんは結局信仰の方を選んだんだ……」
「そう、なるわね。でも、彼を恨まないで。コウスケには信仰を自由に選べる立場にいてほしいって願っていたのよ
「そして、俺は今魔法使いに、か……」
「私の方にいる時点で、魔法使いになることはほとんど決まっているようなものだったわ。最近では珍しい両親ともに魔法使いの間にできた子供よ。きっとマサヤさんの教会で魔術から遠ざけられた生活をしていても、いずれあなたの才能は開花したと思う」
「その時教会にいたら、俺は父さんの二の舞になっていた……?」
「……分からないわ。いずれにしても、マサヤさんはあなたに父親を恋しがらせないよう、あなたの記憶を封じることを願い、私はそれに応じたの」
それなら、もう二度と思い出せないよう、完全に消していて欲しかった――コウスケは唇を噛む。
中途半端に忘れていたせいで、思わぬ再会が記憶を呼び起こしてしまった。何もかも忘れていれば、他人同士のままでいられたのに。
「……コウスケは、魔法使いにはなりたくなかった?」
黙りこくったコウスケに、キリハが恐る恐る尋ねる。息子を魔法使いとして育てながら、彼女なりに悩み続けていた疑問なのだろう。
もし、キリハとマサヤが違う選択をしていれば、もしコウスケが二人とは異なる選択肢を望んでいたのだとしたら……彼女は答えの出ない問いを一人抱えていたのだ。
「……魔法使いでよかったと思ってるよ」
母の目を見つめ、コウスケは答える。
一切の嘘偽りも、母への同情もなかった。ただの人間として生きる自分などコウスケには考えられない。例え厄介事に巻き込まれても、いつも隣に――
「マラックスは!?」
そうだ、いつも隣にいてくれた彼はどうなったのだ。
「待て。今呼びかけとるんじゃが……」
部屋の隅に、もといペット用のクッションの上に陣取ったグラシャラボラスが、相方を探すコウスケを呼び止める。やはり理解できない言語でしばらくぶつぶつやっていると、グラシャラボラスの足元に魔法陣が現れた。
「コウスケさん!無事だったんですね!」
「マラックス!どこ行ってたんだよ!」
魔法陣から飛び出したマラックスは、真っ直ぐコウスケに駆け寄る。コウスケも再びマラックスと相見えることが叶い、破顔して喜んだ。
「悪魔のくせに心配かけやがって!」
「いやぁ、すみません。あの天使を追い払うのに、マルコシアスの『炎のつらら』を借りたのですが、私とコウスケさんの魔力を合わせても足りなくて……それで、一時的に姿も出せなくなっていたんです」
「あの時、すっげえ具合悪くなったのはそれだったのか」
合点はいったが、マルコシアスといえば『召喚に不向きな悪魔』の代表である。随分ととんでもないことをしていたらしい。
「あの空から降ってきた火の柱がマルコシアスの魔法なのか?」
「ええ。悪魔の持つ攻撃手段の中でも最大のものですよ。今回は局所的な攻撃だったので、お互い無事ですみましたが」
マラックスは「よかったですねぇ」とのんきに笑っているが、魔力を吸い尽くされそうになったコウスケには笑い話では済まない。
「あー、もう何があってもあんなの持ってる悪魔とは契約したくないな。人間に制御できるとは思えない」
「でしょうね。私はたまたま創世記戦争の際に、彼と一緒に殿(しんがり)を務めた仲ですので融通してもらえましたが、人間にどうこうできるとは考えない方がいいですよ」
「でも、それだけあってアイツは追い払えたな。マラックスが機転をきかせてくれたお陰だ。ありがとう、助かったよ」
「いいえ。私こそ、魔力を吸い取ってしまって、すみませんでした」
人間と悪魔が頭を下げ合う光景は、随分滑稽である。けれど、コウスケとマラックスにとって、気が置けないくらいの距離が一番心地良いものなのだ。
「わしには礼はないんか!?」
「あいた!」
ようやくいつもの調子を取り戻したコウスケの足をグラシャラボラスが噛む。例え病み上がりだろうと遠慮はない。
「ところで、どうして教会の前で倒れていたの?その様子だと、マサヤさんに会いに行ったわけではなさそうね」
「実は、変な噂を聞いて……」
「噂?」
コウスケは、キリハとグラシャラボラスに今日の出来事を話した。
図書館で不思議な子供に絡まれたこと。彼らが口にしていた『天使』と、稲苗町で密かな噂になっている『教会』を調べているうちに、その二つが結びついたこと。そして恐らくは、サヤも『天使』に自らの願いを聞いてもらったこと――そして何より、天使・イェルミエルの『信仰集め』の邪魔になると判断され、殺されかけたこと。
「……そうか。サヤの縁が急に変わり始めたというのは、その天使が働きかけたからなのね」
キリハの言葉に、コウスケは頷く。
「俺もマラックスもそう考えてる。そうでなければ、なかったはずの縁が急にできるなんておかしいだろ?」
「コウスケが本を選んだ他に、もう一つ要因があったのね」
「ああ、そういうことになるのか。多分、教会がトヨツヅラヒメの管轄外、つまり弟月市の外にあるせいで、彼女も気付けなかった要素なんじゃないかな」
「……もし、そうだとしたら」
厳しい表情でキリハが口を開く。腕の中のグラシャラボラスを撫でているが、手つきは荒い。
「そうだとしたら、ちょっとまずいわね」
「そうですね。何と言っても、天使たちの後ろにいる者が厄介です。彼が出てくるとは思えませんが、何とも言えないですね」
「そうじゃの」
かつて戦いに敗れた記憶のあるマラックスとグラシャラボラスは、キリハとはまた違う苦々しい表情を浮かべている。
「やっぱり、表立って天使と対立するのはまずいのか?」
「うーん……好ましくはない、とは言っておきましょうか」
その言い方では、否定しないだけの肯定ではないか。
喉まで出かかった台詞を飲み込んだのは、マラックスとて、依頼主のトヨツヅラヒメと天使のイェルミエルを天秤にかけて悩んでいるのが分かるからだ。
「とにかく、今日はもう帰るよ。ちょっと……色々ありすぎた」
「それがいいわ」
コウスケがしっかりとした足取りで歩くのを見て、キリハは安心した様子で送り出す。
外はまだ明るく、あれだけのことがあったのにまだ一日も終わっていなかった。存外、ゆっくりと休日は過ぎていたらしい。
『お兄ちゃんへ』とタイトルが付いた、長文のメールが届いたのは夜になってからだった。いつもはメッセージ送信用のアプリを使うサヤがメールを送ってくる時は、本当に長いメールが送られて来る。
今回も、母からコウスケが倒れたと聞いて兄の体調を案じていると、母から自身の体調も心配されたが、サヤの体調は特に変わりなく健康であることが、それなりに長々と書いてあった。ちょっと読みにくい文面は、それでも常のサヤであることを示しているようで安心だ。
しかし、いくらかスクロールさせた先に書かれていた一文に、コウスケの心臓が跳ねる。
『ところでお兄ちゃん、前に稲苗町近くの図書館にもいなかった?』
あの日、妙な子供たちにまとわりつかれていたのを、見られていたのだ。
「見つかってたかー」
「見つかった!?まさか今日の牛肉にBSEが……?」
「そんなもんどうやって俺が見つけるんだよ!サヤだよ!サヤに、こないだ図書館に行ったの見つかってたんだ」
「ああ、そういえば、子供に絡まれましたもんね」
ちびっこ特有の甲高い声で騒がれたのだから、サヤの視線を集めることになってもおかしくない。おかしくはないが、あの時コウスケがあそこにいる理由を、サヤは知る由もない。
どう返事をしたものか迷っていると、今度はアプリの方にメッセージが送られてきた。
『答えにくければ聞かないけれど、お兄ちゃん、子供いるの?』
「何故!?」
『だって、図書館に子連れで来てなかった?私が知らなかっただけで、結婚しててもおかしくない年齢だし』
「結婚相手を家族に紹介しないと思われてるのか……?」
スマートフォンとにらめっこを始めたコウスケの手元をマラックスが覗き込む。
「はは、コウスケさんに良い人が見つかったら、黙っていても、私がキリハさんやグラシャラボラスに教えてしまいますのにね」
「おっと、使い魔がプライバシー侵害する気満々だぞ」
「そんな心配は、お相手が見つかってからしてくださいね」
非常にもっともである。
呆れたように肩を竦ませて皿洗いに戻るマラックスを尻目に、コウスケは妹の誤解を解くべく画面をタップする。その目に悔し涙が滲んていたか否かは、本人のみが知る話である。
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