99%脳
うにまる
第1話野崎賢太
4月にしてはやけに強い日差しを真っ向から浴びながら、公園のベンチに座ってアイスコーヒーを飲んでいた野崎賢太はひどくうんざりしていた。
野崎が座っているベンチのの右隣のベンチにはスマホを片手に持ちながらニヤニヤと会話を弾ませている学ラン姿の高校生が二人座っている。
「そしたらあいつ、俺の耳元で気持ちい~なんて囁くから俺もさらに興奮しちまってさー」
一方的にしゃべっている高校生の方はやんちゃをそのまま人間にしたような風貌で、金色の長い髪は天を衝くかのように上へ盛り上がっている。
まったく昼間からまるで品行がない話だ、と野崎の心は彼らを一喝し、そのあとで羨望の念を抱く。
午前中にあった講義の疲れを癒すために、お気に入りの場所に一人で行ってみたはいいものの、これでは自分の不甲斐なさに嘆いてしまって癒されるどころではないと野崎は率直に思った。
今年で大学二年生になる野崎に対し、神様が一つだけ与え忘れていた力と言われれば、おそらく「恋愛力」が当てはまるだろう。今まで女子と付き合うためにはどんな努力も惜しまなかった。女子が求めている男子の性格、女子が嫌いな男子の行動、つり橋効果の有効性など、インターネットの検索エンジンに「恋愛 作法」と打てばヒットするような項目ばかりを常に考えて生きてきた。人間の脳は10%ほどしか使われていないといわれているが、野崎の場合、そのうちの9%はおそらく「恋愛」に使っているだろう。その他の思考判断は残りの1%に委ねている状態だ。それなのにまるで成果が出ない。仲良くなった女子は何人かいるがそれ以上進展することはなかった。
もしかすると、未使用である残り90%の脳を「恋愛」に向けて稼働しなければ一生彼女などできないのではないか、いや、隣の連中がそこまでしているはずがない・・・。
野崎の脳はここまで妄想を膨らませ、やっとのことで右手から発される信号を受け取った。
「つめたっ!」
野崎は声を発しながら右手を見る。アイスコーヒーを長時間持ち続けていたせいか、右手は真っ赤になっていた。隣の高校生たちが怪訝な面持ちでこちらを見ている。
席をはずそう、そう思って野崎は左手をベンチのスペースに置こうとしたところ、誰かの太ももが先に触れた。
「高校生の会話に興奮してセクハラかね?」
しわがれた声が野崎の耳に届く。いつの間にか隣に白い髭と白衣が特徴的な爺さんが座っていた。いかにも胡散臭い風体である。その爺さんは野崎に顔を向け、何本か抜けてしまっている歯並びをみせて笑いながら、続けて言った。
「お主の使われていない90%の脳を「恋愛」のために動かしてみるか?」
野崎は一瞬間をおいて思いのたけをぶちまけた。
「どうして俺の考えていることがわかったんだ。それと、あんたは怪しくて仕方がない。最後に、俺はセクハラなんてしていない」
野崎の記憶はここで途切れる。ここからどうなったのかをどうしても思い出せない。
爺さんと逢った2日後の朝、野崎は薄暗い部屋のベッドの上で目を覚ました。野崎は目を右へ左へ動かしながら状況を思い出してみる。ベッドの隣にある棚に無機質なデジタル時計が置いてあり、日付も記されていたことから今が何日なのかは推測できたがそれ以外はまるで見当がつかない。野崎はふと、自分は今、中学校にいるのではないかと思った。中学生の頃、授業を寝さぼるために保健室のベッドに入り込んでいたのと今の状況はよく似ている。
ほどなくして白衣を着た小柄の老人が部屋に入ってきた。特徴的な笑顔を向けてくる老人は野崎の頭の中で冤罪セクハラ爺さんと合致した。
爺さんは野崎の顔を見て言う。
「手術は成功したじゃろう。退院も明日にはできるはずじゃ。」
野崎はいまだに状況を把握しきれていない。爺さんの言葉から察するに、自分はある病院である手術を受けていたということだろう。しかしわからないこともたくさんあった。野崎は一番の疑問を口にする。
「今時成功したじゃろ、とか、はずじゃ、なんていう奴がいるのか?」
「いるじゃないか、ほら目の前に」
野崎はこれ以上詮索することを辞めた。
爺さんが言うには手術は無事成功し、野崎の脳の99%は「恋愛」に作用するらしい。
野崎は爺さんの話を聞きながらある映画を思い出していた。その映画ではヒロインが脳の使用要領を拡張していき、ついには脳を100%使うというシナリオが展開されていた。あらゆるものを吹き飛ばすことができたり時空を歪めたりすることができた彼女であるが、脳を100%使ったとき、彼女は無の存在になっていた。野崎はこの超現実離れしたSF映画をどう評価していいのかわからずただ顔をゆがめるだけだった。
野崎はゆっくりとベッドから起き上がり、早く家に帰らせてくれとの旨を爺さんに伝えた。爺さんは何とも暢気な顔をしながら明日までの辛抱だという。こんな嘘はったりで監禁されている自分の身にもなってほしいと思いながら野崎はまたベッドに倒れこんだ。
爺さんの監禁から解放された日、野崎は久しぶりに吸った外気を喜ばしく思いながら建物を後にした。
野崎は歩道をゆっくりと進む。
向こう側からタイトなジーンズをはいた若い女性が歩いてくる。
野崎と女性はすれ違った。
野崎と女がすれ違って数秒後、野崎が自分の隣を見ると先ほどの女が横に並んでいた。
野崎と女がすれ違って数十秒後、野崎は女にキスをした。
白衣を着た謎の爺さんと出会ってからちょうど一週間後の正午過ぎ、野崎は爺さんと隣り合わせで座っていたベンチに腰を下ろしていた。この日も太陽は燦々と照っていて、その日差しは容赦なく野崎を攻撃していた。 しかし前回と異なることといえば、野崎の右隣に同級生の女子大学生が、左隣には研修真っただ中の新人OLがいて、そのどちらもが野崎の肩に頭をかけていることだった。
この一週間で劇的に野崎の人生が変わったことは紛れもない事実である。脳の99%を「恋愛」に使った野崎は、その一挙手一投足に魅力的な男のすべてを含ませることができたらしく、野崎の行動に惚れない女はいなかった。野崎が浮気をしようが1日で別れ話を切り出そうが女運に見放されることは決してなかった。
野崎は一週間前の自分を回想しながら今の自分と比較していた。明らかに今の自分のほうが輝いている。人間はしばしば記憶の編集を行うことがある。よくテストの成績が上がっていないにもかかわらず昔の自分だったらもっと点数が取れていないわけで、成績が上がってなくても自分はきちんと成長しているんだと思うことがあるが、あれも記憶の編集を行っていて、現在の不満から目をそらすためにしてしまう心理行動らしい。しかし俺の場合は違う、と野崎は思った。世界のあらゆる人が客観的に判断しても、一週間前より今のほうが成長している、確実に。
野崎の脳はそこまで分析を膨らませて、やっとのことで目から送られた信号を受け取った。
野崎は自分が見ている視界が少し暗くなっていることに気が付く。太陽が雲に隠れたのかと思って空を見上げようとしたとき、目の前に人が立っていることを認識した。太陽の日差しはその人に浴びせられていて、野崎の顔には届いていなかった。
野崎からはその人の全体像が逆光でよく見えなかったが、スカートをはいたシルエットからしておそらく女だろう。なぜ目の前に立っているのかを尋ねる前に女と思われる人が急に野崎の顔に近づき口を開いた。
「野崎さん、私と付き合ってくれない?」
女は短い黒髪を左右に揺らしながら女に囲まれている野崎の前で堂々と告白をして見せた。
野崎は一瞬驚いたものの、いつまでも聞いていたい清涼な声を聞き、透き通った白い肌とこれ以上訂正することができないほどの端正な顔立ちを見たのと同時に、口が「よろしくお願いします」と動いていた。返事を聞いた後に見せた彼女の笑顔は野崎の心をさらにぐっと引き寄せた。
名前は一之瀬美穂というらしい。
野崎は一之瀬美穂を手放すことはなかった。その理由にはいくつか挙げられるが、まず一之瀬美穂に勝る美貌を持ち合わせる人と出会うことがなかったこと。次に天真爛漫な口調と屈託のない笑顔に魅了され続けたこと。最後に一之瀬美穂は「優しさ」を持ち合わせていたことである。
野崎と一之瀬美穂が初デートに行ったときのことをしばしば思い出す。その日、遊園地では30周年アニバーサリーを開催しており、園内は様々なイベントで盛り上がっていた。正門前では遊園地のマスコットキャラクターであろうか、犬のきぐるみが手を振っていて子供たちを喜ばせている。その隣では来園者に記念としてバッチを配っていて、野崎と一之瀬美穂もひとつずつもらった。野崎はバッチを見て、一体これをどうしろというのだなどと呟いていたが、一之瀬美穂はどうにでもなるわよと白い歯をこちらに見せながら言っていた。
園内には様々なアトラクションがあったが野崎は絶叫マシンが苦手で、それらを避けているうちに屋内キッズコーナーにたどり着いていた。
そのエリアには主に幼稚園児向けのゲームが置いてあったり、ガチャガチャが何列にもつながっているのが見て取れたが、その片隅にUFOキャッチャーが何台か置いてあった。中を覗くと、女性が嵌めるような銀色で小ぶりの指輪が置いてあり、一之瀬美穂はその指輪をみるや、かわいいと子どもさながらにその指輪に見入っていた。幼稚園児向けのスペースで遊んでいた白いワンピースの女の子がこちらをチラチラと見ている。彼氏よ、あなたの愛する彼女にその指輪を取ってあげたらどうなの?と言わんばかりに。
結局のところその指輪は数分ほどで落ちた。野崎はこの手のゲームには強かったのである。落ちた時は二人で喜び、野崎は指輪の入った小さな箱を取り出し口から出して一之瀬美穂に渡した。彼女は大切そうにその箱をバッグの中にしまっていた。
二人で園内を回っているときの会話や行動でいろいろとわかったことがある。一之瀬美穂はその美貌ゆえ過去に幾ばくもの男を落としてきたということ。お金持ちの中年男性から若手のイケメン俳優まで幅も広いらしい。そんな彼女にも欠点はあり、運動や勉強はてんで駄目らしかった。体力もあまりないらしく、園内を少し歩いては眩暈を起こしたから休憩がしたいといってベンチで横になった。
野崎は一之瀬美穂のことを少しでも知ることができてうれしく思い、たぶん彼女も同じ気持ちだろうと考えていた。
園内をぐるりと一周し、もうそろそろ帰ろうかと野崎が話しかけた時、一之瀬美穂は最後に一つでいいから絶叫マシンに乗ろうと懇願してきた。野崎は辟易しながらも、懇願している一之瀬美穂の顔を見て一度だけ乗る決心をした。
園内でも上位に入るほどスリルがあるといわれるジェットコースターの列に二人で並んでいるときに少し前あたりで先ほどの白いワンピースを着た女の子が並んでいるのを野崎は見た。こんなに幼い女の子でも乗れるものなのかとジェットコースターを少し見くびっていたが、内容は想像を遥かに超えるほど恐ろしかった。何がつり橋効果だ、効果を使おうとしているものが怯えていては使えないじゃないかと野崎はやるせなさに駆られていた。
マシンから降りた後、野崎の顔はいまだに恐怖のせいで強張っているのに対し、一之瀬美穂は何事もなかったかのように済ました顔でいる。しかも、目線は野崎の方を向かずに別の方を向いていた。一之瀬美穂の目線をたどると先ほどいた白いワンピースの女の子が泣いていた。どうやら野崎と同じく想像以上の恐怖に耐えられなかったのかもしれない。
野崎は同情のまなざしで見ているだけだったが、そこで一之瀬美穂はスタスタと女の子に近づいて行った。どうするつもりだろうかと一之瀬美穂の様子を窺っていると、彼女は脇に抱えていたバッグから小さな箱を取り出した。先ほどUFOキャッチャーで獲得した指輪の箱だと思われる。一之瀬美穂はその箱を女の子の手のひらにおき、「あげる」と一言だけ添えてこちらのほうへ向かってきた。女の子は指輪の箱をもらったことがうれしく思ったのだろう、涙はすっかり止まっており、やがてどこかへ消えてしまった。
「あの子、UFOキャッチャーを気にしていた女の子よね?指輪がほしかったのかしらね」
彼女は戻ってくるなりそんなことを言う。
野崎は彼女の行為に感心しつつ、それでもあれは自分が彼女のために獲ったのだという思いもあり、複雑であったが、言葉には簡潔にまとめていた。
「優しいね」
一之瀬美穂はその言葉を聞くなりにやにやとし始めた。まるでいたずらに成功したような子供のように。野崎はどうしたのだろうかと心配のまなざしを向ける。
「私ね、あの女の子に嘘をついてしまったの。あの箱の中には指輪ではなくてバッチが入っているわ」
いつの間に・・・野崎は思ってふと一之瀬美穂の手を見やると、彼女の細い指の一本に凛然と輝く指輪が収まっていた。
「私ね、表面が良ければ、中身は割とどうでもよく思うの。人間ってさ相手に求めるものは結局外見が一番で中身はあまり重要視していないのよ、きっと。だって相手の外見は見えるものが全てだけど、相手の中身は自分が判断するしかないでしょ?外見が完璧であれば中身もそれに合わせて完璧だろうと判断する。さっきの女の子に指輪の箱をあげたのもそうだけど、喜んで涙が止まれば箱の中身はどうでもいいんじゃないかな」
野崎は一之瀬美穂がこんなことを考えているなんて思いもよらなかった。彼女の意見の当否がつかない野崎は彼女を眺めることしかできなかった。
遊園地の正面ゲートを抜けてから少し歩いたところで、一之瀬美穂は野崎の正面に立った。
「ねえケンタ、こんな私だけど、尽くしてくれる?」
一之瀬美穂にそう言われた野崎は戸惑った。こんな私とはどの私を指すのだろうか。運動や勉強ができない私なのか、いたずら好きな私なのか。尽くすとはどうゆうことだろうか。UFOキャッチャーなら何度でも挑戦する。ただし、絶叫マシンはこりごりだ。いろいろ考えあぐねた後で、野崎は返事をした。
「もちろんじゃないか。99%ミホを思い、ミホに尽くすよ」
一之瀬美穂は一瞬笑顔になったがすぐまたもとの端正な顔に戻った。あの笑顔をずっと見続けていたいと野崎は思った。
「残りの1%はどうしたの?」
「別の女に使う」
一之瀬美穂は驚いた顔になり、やがて硬直した。
「私以外にも思っている人がいるのね!」
一之瀬美穂の雪のような白い顔は夕日を全面に受けていて、顔に映えたオレンジ色が怒りを彷彿とさせていた。
「そうだ、別の女のことを考える。ミホのことをいじめたりする女はいないか。ミホのことを助けてくれる女はいないか」
「それって結局私のことを考えているんじゃないの?」
彼女の顔は満面の笑みを湛えていた。
「さぁ、どうだか」
野崎はぶっきらぼうに返事をする。
夕日が二人を照らしている。そのなかで一之瀬美穂の指にはめられている指輪はひと際輝いていた。
一之瀬美穂と付き合ってから3か月後の夜、二人はあるホテルの正面で手をつないで立っていた。ホテルは25階建てらしく、下から上へとホテルを眺めると、巨大な鉛の壁が暗い闇夜にひっそりと佇んでいるように見える。
辺りを見渡すと自分らと同じようなカップルが手をつなぎながらこちらに向かってくるのが見えた。遠くからだと顔が判別できなかったが、近づいてくるなり全体像がよく見えてきた。男の髪は金色で、ホテルに負けんとばかりに上へと盛り上がっている。
彼は野崎の顔を見ると、ひらめくものがあったのか、一瞬ぎょっとしてたじろぎ、隣にいた一之瀬美穂を見て硬直した。あなたの目に映った人はさぞかし美人だっただろうと野崎は思う。
やがて彼女と思われる女に腕を引っ張られてそのままホテルへと入っていった。彼には申し訳ないが、彼女は野崎が想像していたよりも可愛いとは言えない。
「じゃあ、私たちも行こうか」
一之瀬美穂の声がゆっくりと耳に伝わる。
そのホテルはやはり高かった。景色を望むと辺り一面の夜景が眼前に広がっている。
「こんなに高いところは初めてだわ」
夜景を見ながら聞いていたせいか、野崎の耳から聞こえる彼女の声はやけに艶めかしかった。野崎の隣に一之瀬美穂が座っている。座っている姿からも彼女のスタイルは際立ち、野崎は改めて自分の境遇を喜んだ。
「遊園地に行った時のこと覚えている?ケンタは私のために尽くすって言ってくれたわよね?」
「ああ、言ったよ」
僕ら二人以外の音はもう耳に届いていない。
「これからすることは、私が一番気持ちよく感じることよ。ケンタは私のことを満足させてくれる?」
「ああ、もちろんじゃないか。俺はこれからすることに緊張も恐怖もない。絶叫マシンは駄目だけどな。すべてミホのためだ」
この世界には自分と一之瀬美穂以外いないのではないか、野崎は思う。
「私はいつでも待っているわよ」
「今すぐにでも行くさ」
野崎の心拍数があがる。
「愛しているわ、ケンタ」
「ああ、俺も愛している」
一之瀬美穂はそして横になった。
野崎は呼吸をしっかりと整えた。
そして野崎はゆっくりと倒れた。
野崎の目には闇夜に映る家、街灯、車がすべて光の点のように映り、その一つ一つが今までの思い出ように見えた。一之瀬美穂の太陽に照らされた白い肌、天真爛漫なしぐさ、いたずらを含ませた不敵な笑み。そのどれもが野崎にとってはきれいな思い出として脳に再生される。野崎は一之瀬美穂に対して尽くすことができていただろうか、きっとできているだろう。一之瀬美穂の笑顔が見られるなら99%尽くす限りだ。
野崎はゆっくりと目を閉じた。
そして、野崎の体はアスファルトにたたきつけられる。
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