洋館幽月邸は幸福を見る
「……分からない」
言葉を発したのは、乙木。
震える声で、彼女は首を横に振って否定した。
「違う。みんな、何を言っているの? どういうことなの!?
私は、魔女なんかじゃない。この夏、私はママとしのと、いつもみたいに山のおうちに来ただけなの……!」
乙木の肌に鳥肌が立つ。
春の夜は、半袖で過ごすにはあまりに寒い。
「お嬢様。また、私と一緒にあの世界に戻りましょう。
忌まわしい記憶をわざわざ思い出す必要はありません」
優しい声音で篠宮は乙木へ手を伸ばす。
深月は冷ややかに篠宮へ言い放った。
「乙木はもう十六になる。いくら魔法の精度を高めたところで、どこかで必ず無理が生じるよ」
「それでも構わない。奥様が在った日の美しい姿を眺めて、ただ静かに過ごすことができるならば、それだけで」
「追憶の中に生き続けたところで、空しいだけだ」
「アンタはそれでいいかもしれないけどな。乙木ちゃんをそれに巻き込むなっつってんの!」
頭上を飛び交う彼らの言葉に、乙木は迷うように視線を彷徨わせる。
その最中で、深月と目が合った。目を離すことが出来ず、そのまま乙木は深月の、兄である青年の目を見つめる。彼の瞳は、清も濁も何もかもをない交ぜにして飲み込んだような、深い色をしていた。
「偽りの中で生きていくか。たとえ牢獄の中でも、真実の生を生きていくか。それは自分で選べばいい。……けど、おそらく乙木は、かつて後者を選ぼうとしたはずだよ。
最初は確かに夢の中で酔っていたのかも知れない。けれど途中で、これが無為だと気付いたはずだ。でないと、篠宮さんが俺に記憶の操作を依頼する理由がない。
……君の記憶は」
ぱちり、と深月は右手の指を鳴らす。
「今、返した」
どくん、と体中が脈打った。
『篠宮。話があるの』
『……お嬢様』
『最後に、篠宮へ見せたいものがあるの。ママが生きてたあの日の光景を、もう一度』
『まさか……まだ、奥様が、お元気だった頃の姿だ……』
『いつまでも、……この時が、続けばいいのに』
『……続ければよいのです。奥様のことだけではありません。お嬢様、むざむざあいつらに身を差し出すことはないのですよ』
『……しの』
『逃げましょう。全てのものから逃げるのです。お嬢様も私も、死んだように鎖に繋がれて生き長らえるくらいなら』
『全てから逃げて、偽りの幸福に生きましょう』
「……ただ、もう一度会いたかっただけなの」
乙木は両手で顔を覆った。
「一目でも。一目でも元気だった頃のママの姿を目に焼き付けることができたなら。きっと、しのはまた、歩き出してくれるって。そう思ってた。
けれど。結局、私も篠宮も抜け出すことが出来なかった」
「……お嬢、様」
乙木の言葉に、篠宮は呆けたような声を上げる。
彼女の口振りに。認めたくはない、事の終演を悟ったようだった。
「もうやめましょう、しの。充分。私は、これ以上ないくらい存分に懐かしい夢を見たわ」
「ですが、お嬢様!」
「もういいのよ、しの」
乙木は、優しく篠宮の手を取る。柔らかな彼女の手の感触に、篠宮ははっとしたように目を見開いた。
その手の平は、既に幼子のものではない。
白くて滑らかな、大人の手だ。
「長いおままごとは、もうおしまい。これ以上、篠宮は乙木お嬢様の面倒を見なくてもいいのよ」
篠宮は、ずるりと力なく膝をついた。
「……申し訳ありません。全てを欺くために、私はお嬢様の記憶まで、消して」
「もういいよ、しの」
乙木の笑みは、これまでのような無邪気な笑顔とは違った。
母の死とそれからの逃避の末に全てを受け入れようと決めた、少女の年相応の笑みだった。
「私も、共犯だもの」
「……乙木お嬢様」
まるで年齢が逆転したように。
乙木は慈しむ手付きで篠宮を撫でた。
傍らで様子を見守っていた深月は静かに促す。
「さあ。帰ろう、乙木。本来、お前が居るべき場所へ」
深月の声に、乙木はぱっと顔を上げて振り返った。篠宮の手を離し、彼女が深月たちのところへ乙木が一歩踏み出す。
その時だった。
篠宮の口から、低い声が漏れた。
「……『よくもまあ、ぬけぬけと』」
館の照明が明滅する。
廊下の灯りはさながら蝋燭のように不安定に明るさを変え、まるで風に炎が揺らいでいるようだ。乙木の部屋の照明は落ち、彼らを照らすのは月明かりのみとなる。代わりに、応接間の灯りが階下で煌々と点いたのが目の隅に映った。
場違いに明るい音楽が、再び遠くから流れ出す。どこからか一陣の風が部屋を吹き抜け、彼らを撫でた。
呆気にとられている隙に、篠宮はすっと乙木を抱き上げる。
「『乙木の意志は尊重したい。……けれど、お前に大事な乙木を渡すわけにはいかない』」
篠宮の背後。
音もなく、ふわりと浮遊する影があった。
乙木の部屋にあったぬいぐるみや本、ベッドや椅子と、室内にあるありとあらゆる物が宙に浮かんでいる。
彼らが事態をはっきり認識するかしないかのうち。
それらは一斉に、深月と久路人に襲いかかった。
「…………!」
「うおっ!?」
二人は直前で気配を察して飛びすさった。幸いにしてベッドの直撃からは逃れられたが、腕や足へは本や椅子の足など細々した物の直撃を受ける。
「クロちゃん!」
乙木の叫び声が聞こえた。だが伸ばした手も空しく、乙木は篠宮に抱えられたまま部屋から連れ去られる。暗闇の中、ばたりと扉が閉まる音だけが聞こえた。
「久路人さん、大丈夫?」
「何とかね」
舌を出しながら久路人が椅子の下より這い出す。久路人よりも被害の少なかった深月は、月明かりを頼りに部屋の入り口に辿り着き、ドアノブに手を掛けた。だが、いくら力を込めてもノブは回らず、ドア自体を押してもびくともしない。鍵が掛かっているわけではないが、扉は異常に重かった。
途中から久路人も加わり、二人がかりで肩で押したが、結果は同じである。誰かが扉を反対側から押さえつけてでもいるかのようだった。
諦めて一旦ドアから離れ、ぜい、と久路人は息をつく。
「何。何コレ深月ちゃん、どういうこと?」
「……あまりに長く。この家は、夢を見過ぎた」
深月もまた荒くなった呼吸を整えながら、額の汗を拭った。
「不自然な状態でも、それが日常なら当事者にとってはそれが『自然』になる。本来で在れば自然なことこそが不自然で、通常の筈の物事に対して拒否反応が出てしまうように。
俺の血でいつもの『自然』を押さえ込まれて、どうやら先方は大層ご不満らしいね」
「……深月ちゃん、分かりやすく言って」
「つまり、この幽月邸が乙木の巣立ちを拒絶しているんだ」
深月の説明に久路人は目を丸くした。
「嘘でしょ。だってコレ、ただの建物だよ!?」
「人の血を何年も吸い続けた建物が、果たしてただの建物かね」
深月は静かに冷え切ったドアノブを握る。やはり、それはぴくりとも動く気配がない。
「幽月邸もまた、あの男と一緒に夢を見続けることを望んでいる」
一瞬、深月は何かを思案するように目を細めたが。
すぐに気を取り直すと、床に転がっていた椅子を拾い上げた。
「とにかく追うよ。ドアを破って久路人さん」
「俺が!?」
軽く椅子をパスされた久路人は、手にしたそれと深月とを交互に見つめる。
「俺より馬鹿力でしょ。それに、久路人さんの魔法だとちょっとまだ支障があるし。
俺の魔法で蜂の巣にした直後に攻撃すれば、流石に木のドアは壊せるでしょ」
「なるほどねぇ。うっし、了解!」
深月は左手を広げ、久路人は椅子を振りかぶる。
次の瞬間、ドアは跡形もなく破壊された。
幽月邸に月明かりが差す。
人気のない森へ風が運んでくるのは、陽気な音楽。
誰も居ないはずの洋館には、眩いシャンデリアの灯りが漏れる。
お伽話や虚言と紛う、夢の様な現実の中で。
幽月邸は、久方ぶりに目を覚ます。
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