うつくしい世界
ちとせあめ
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小型テレビが照らす青白い光が唯一の灯り。カーテンを閉め切った薄暗い室内。生臭さを含んだ空気が沈澱している。汚れた床に這いつくばう湿気と寄り添うようにして、少年は横たわっていた。
少年には名前がある。だがそれを呼ばれた記憶は数えるほどしか無かった。少年には血のつながった親がいる。だがその人間を父と呼び、母と呼んだ記憶は数えるほども無かった。
名前を呼ばれる時は大概怒号と一緒で、次に拳が飛んでくるのが常だったから、少年は呼ばれると身を竦めるようになっていた。
寝室には父親が酒の臭いをぷんぷんとさせて眠っている。年齢の割には身体の小さな息子が倒れている居間にも、うるさい鼾の音が届いた。
二年前に母親が出て行ってから、それは少年にとって日常的な生活音だった。
ぼんやりと瞼を開ける。自分が気を失っていた事に気が付いても、身体に力が入らなかった。やせ衰え、骨に皮膚一枚だけが貼り付いているのみに見える身体。脳が指令しても自由には動かない。
一週間か、それ以上ろくな食事をしていなかった。僅かに与えられる、べちゃっとした食べ物が犬の飯だと気付いたのはずっと前。それでも何も喰わないよりはマシだったろう。
ぐらぐらと脳内を掻き回すめまいをこらえて視界に目を凝らす。食パンが一切れ、床に直に転がっていた。気絶する前の出来事がふわっと頭に蘇ってくる。
彼は空腹に耐えかねて戸棚から食パンを盗んだ。自分の家に違いは無いが、見つかった場合のことを考えると、それは罪と呼ぶに相応しいように思えた。
小刻みに震える手で袋を掴む。食パンは乾燥していた。一口かじると渇いた口の中で、少しずつ柔らかくなっていく。飲み下そうとしたその時、物音を聞きつけた父親に見つかって少年は殴られた。
少年は考えた。
打たれ、蹴られ、罵声を浴びせられながら考えた。亀のようにじっと動かずに背を丸めながら考えていた。その内に気を失い、目覚め、全身の鈍痛と口内の錆くさい血の味を感じながら、今も彼は考えている。
お腹が空いた。
食パン。
床に落ちている。
赤い。
僕の血。
お腹が空いた。
背中を蹴られた。
いたい。
足が。
全身が。
誰だっけ?
あれは。
僕を殴ったのは誰だっけ。
男。
父親……。
テレビのブラウン管の中には揃いのTシャツを着た人間達が集まって騒いでいた。その賑やかな声と、父親の鼾が混ざり合って少年の鼓膜を苛む。
『この素晴らしい愛の募金で、自然環境を救い世界をより美しく……』
愛は世界を救うらしい。
愛。
愛。
愛。
この世界は素晴らしい。
美しい。
愛。
愛で救う。
お腹が空いた。
痛い。
おとうさん。
おかあさん。
愛。
痛い。
僕には愛が無い。
だから僕は救われない。
ずっと。
このままずっとなぐられて。
いつかぼくはしぬ。
少年の淀んだ瞳に、食卓の上に投げ置かれた包丁が映った。父親が彼をいたぶり脅す目的に使ったものである。立ち上がり、震える手で柄を握るとまるでそれは定められた運命のように掌に馴染んだ。両手でしっかりと支え、少年は居間の脇にある襖をそっと開ける。
父親は鼾を鳴らしながら熟睡しているように見えた。ふらつく足を奮い立たせて近付く。少年は自分が何をしようとしているのか把握出来ずにいた。まるで操り人形のように。
それは、包丁の先端が父親の腹に突き刺さった時も同じだった。
まるで綿を刺すように刃は柔らかい腹部に沈んでいく。普通ならば非力で衰弱している少年に為せることではない。だが、確かに包丁は父親の腑を傷つけた。
「うう」
父親は呑気にも聞こえる唸りを上げた。少年は一旦刃を抜き、また振り下ろす。傷口から血がにじみ出て父親の服を、畳を汚した。
包丁を抜く。
刺す。刺す。刺す。刺す。
父親が腹を抑えて小さく暴れた。振り回される腕や脚を避けながら少年は何度も包丁を振り下ろす行為を繰り返すうち、父親は動きを止める。
父親は最期に子の名を呼んだ。
彼はそれを聞かなかった。
四肢を弛緩させ絶命した父親の傍に、疲れきったように少年は膝をつく。
開け放してある和室のカーテンの向こうから夕陽が覗いていた。
薄汚れた壁が、血に濡れた包丁が、食べかけのパンが、臭気を放つ父親の死体が――すべてが赤く照らされる。
座り込んだまま、少年はその『うつくしい世界』を見つめていた。
了
うつくしい世界 ちとせあめ @ameame13
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